チャプター 3-3
青二の家を後にしたのは十九時過ぎだった。
「帰るにはまだ早い、か」
最低でも二十一時を過ぎてから帰りたいので、まだ時間を潰す必要がある。なので、パッと思い付いた時間を潰せるであろう場所──本屋へ行く事にした。
本屋に着くも、特に欲しい物もなくブラついていると、コミックコーナーへと足を運んでいた。
「これ今日発売だったんだ……忘れてたな」
それは、好きなマンガ家であるGo・リラ先生の短編集。今までwebで掲載していた読み切りを一冊にまとめたもの。今まで電子書籍でしかなく、紙媒体になったら絶対に買うと楽しみにしていた。なのに、それを忘れていたなんて滑稽だと思いつつも、買えば問題ないと開き直って手を伸ばす。
すると、隣に居た人と同時に手に取ってしまった。
「わわ、すす、すみませんっ!」
「いえ、こっちこそ、すみませ……あれ、貴方は」
「白間さんの保護者代理で来ていた……黒川くん」
偶然にも、その人は都ちゃんの担任の秋房先生だった。この町は狭いとはいえ、こんなところで会うとは思わなかった。
「あの時はどうもです。 秋房先生」
「あ、秋房先生っ!? ……えへへ」
不思議な巡り合わせがあるものだと驚いたのも束の間。何故か、恍惚の笑みを浮かべて、上の空になっている秋房先生。一体、何がそんなに嬉しいんだろうか?
「あの」
「ハッ!? す、すみません……同僚以外に秋房先生と呼ばれるのが、嬉しくて……つい」
同僚以外? という事は、普段児童から秋房先生って呼ばれていないのか? 先生なのに?
いや、穏やかで親しみやすい雰囲気があるから渾名で呼ばれてるとか。単に、学校の外で先生と呼ばれるのが嬉しいって意味なのかもしれない。
そう、あれだ。まだブレイク前の芸人が町を歩いていると『あ、この間おもしろ
……うん。絶対に、違うな。
「あ、でも、黒川くんは名前で呼んでくれて大丈夫ですよ。 その、何というか、ですね……」
秋房先生が何を言いづらそうにしているのかは大体察せる。僕は小学校と直接の関係がなく、厳密に言えば部外者と変わらない。なので、わざわざ先生呼びするのもおかしな訳で。
「分かりました、紅羽さん」
「く、くれ……は……」
下の名前で呼んだ途端、紅羽さんは目を丸くしてフリーズしてしまった。
「あの、どうかしましたか?」
「ハッ!? す、すみません……てっきり名字で呼ばれると思っていたので……」
常日頃から下の名前で呼ぶ事が多いので、つい紅羽さんと呼んでしまったが、普通下の名前で呼ぶのは気を許し合う仲になってからで……。
「す、すみませんっ! 名字で呼んだ方がいいですよねっ! いや、名字で呼ぶべきですよねっ!?」
「い、いえ! 紅羽、紅羽で大丈夫ですっ!! わ、私も、真一くんって呼びましゅね……!?」
いきなり馴れ馴れしく接してしまったのを慌てて詫びると、紅羽さんの方がこちらには合わせてくれた。流石は大人、アフターケアが上手い。……違うか。
とりあえず、最後に噛んでいたのは気にしないでおこう。
「ところで、真一くんもGo・リラ先生が好きなんですか?」
「えぇ、まぁ。 新作が出る度に買ってます」
「あの! どんなところが好きなんですかっ?」
「え、その人柄というか、なんというか……」
「ふわっ、分かります! 分かりますよ!」
瞳を輝かせ興奮冷めやらぬな紅羽さん。前にも、見た事あるな……これ。
「Go・リラ先生の人柄好きになりますよね! あとがきや作者コメントを見てると先生がどんな人かよく見えますよね! あと、好んで使うセリフでも! 昨今では作画力や発想力等の技術面ばかりに目が行きがちですが、やっぱりマンガは人が描くものです! だから──」
日頃は大人しいのに、好きなものの事になると周りが見えなくなる程、熱くなって、
「真一くん、聞いてますかっ?」
「はい。 ちゃんと……聞いてます」
ジトーッとした目つきに、膨らませた頰。体格も見た目も全然違うのに、小さな影と重なる。
──今の紅羽さんは同じ、なんだ……都ちゃんと。
「真一くん?」
「あれ……すみません、なんか……急に……」
突如、涙が頰を伝う。なんで……なんで、僕は、泣いて……。
「目にゴミでも入ったのかな……はははぁ」
「今、お時間ありますか?」
「……あります……」
「なら、少しお話しましょう。 これのことで」
マンガを片手に、ニッコリと微笑む紅羽さん。僕たちは、すぐさま近くの喫茶店へと移動し、マンガ談義に花を咲かせた。紅羽さんとは感性が近いおかげか。ほぼ初対面にも関わらず、話すのがとても楽しくて、あっという間に時間が過ぎていった。
「ごめんなさい、つい熱くなってしまいました」
「いえ、僕も楽しんでましたから」
帰り道。紅羽さんも同じ方角だったので、途中まで一緒に帰る事に。
「正直、あんなに熱くなるのは意外だなって思いましたよ」
「えへへ、Go・リラ先生の作品には特別な思い入れがありますから」
「……本当に好きなんですね」
「はい」
恥ずかしそうに頰をかく紅羽さんは無邪気な子どものように見える。いや、実際そうなのかもしれない。誰しも、好きなものに対しては無邪気で、子どもと同じ──真っ直ぐな気持ちで向き合っている。
それに、Go・リラ先生の作品は紅羽さんにとって大切なものでもある。だから、あんなにも熱くなるんだ。周りが見えなくなる程……。
『──あれは……あれだけは、失くしちゃ……』
分かっている。ストラップも都ちゃんにとって大切なものなんだ。周りが見えなくなる程に……だから……。
(真一くん。 ……よし)
しばらく歩くと、紅羽さんと別れる交差点へ着いた。
「今日は、こんな遅くまでお付き合いしていただき、ありがとうございました」
「そんなお礼を言うのは──っ!」
紅羽さんがニッコリと微笑む。その笑顔はとても暖かくて、つい言葉を失ってしまった。
「えへへ、ちゃんと言っておきたかったんです」
「……紅羽さん……」
何故か、その一言に胸が打たれた。
「それじゃあ、私はこれで。 またお話ししましょうね」
「はい。 ぜひ」
別れの挨拶を交わし、一人で家路を辿る。
一体、紅羽さんはどこまで知っていたんだろう……それとも、何も知らなかったのか。そんな確かめようのない事ばかり考えていると、あっという間に家に着いていた。
「…………」
確かめようがない。そう思っていたが、玄関にある泥だらけの小さな靴が答えを教えてくれているような気がした。
──カッ、カッ、カッ、カッ……。
秒針の音が鳴り響く静かなリビング。掛け時計に目をやり時刻を確認すると、二十二時前だった。夜遅くとはいえ、僕と母さんしかいないリビングには妙な違和感があり、テーブルもいつもより広く感じる。少し前までは、これが当たり前だったのに。
「何も聞かないの?」
「んー? 何を聞くのー?」
対面に座っている母さんは不思議そうに小首を傾げ、その様子から呆れに似た感情を抱いてしまう。
「今まで何してたとか気にならないの?」
「なんで? もしかして、悪い事でもしてきたのー?」
「そういう訳じゃないけど……外泊して、帰りが遅かったら普通は気になるんじゃないかな、って」
「んー、私はシンちゃんを信じてるから大丈夫よー」
「…………」
両手を組み、そこに顎を乗せ、ニコニコする母さん。信頼されてるのは悪い気分じゃないが、心の中では『そうじゃないだろ!』と思い、軽く悶々とする。
とりあえず、気を紛らわすように温めなおしてもらったシチューを口へと運ぶ。すごく熱かった……。
「それとも何か聞いてほしいことでもあるの?」
「別に」
「そっかー」
しばらくの間、沈黙が続き、食器とスプーンがぶつかる音だけが響いていた。まるで心の準備をする為のように。
そして、意を決して尋ねる。本当に聞きたかった事を。
「……ねぇ、今日の都ちゃん、どうだった?」
「朝から出かけていたわよー」
「そう、なんだ」
「どうしてもやらないといけないことがあるって。 それでね、お昼は戻らないって言うから、お弁当を作ってあげたのー」
「昼も、帰らずに……」
「そしたらねー、すごく泥だらけで帰って来たの。 何があったのか聞いても教えてくれなくて、ちょっと心配しちゃったわー」
きっと、今日一日中探していたのだろう。あのストラップを。
「ところで、どうしてそれを聞いてきたのー?」
「玄関に泥だらけの靴があったから」
「…………。 そっかー」
驚いたような顔をして少し間を置いた母さんだったが、すぐにいつものように微笑んでいた。さんがそんな反応をした理由は分かっている。いや、分からない方がおかしい。僕がそれぐらい露骨に都ちゃんを避けていたから。
「そうそう、今日のシチューはね、いつものと違って隠し味に白味噌を入れてるのー」
「…………」
「どう? 美味しいー?」
「……なんで、黙ってたの……」
「隠し味なんだから、先に言っちゃダメじゃないー」
「違うよ。 都ちゃんが家に来るのをなんで黙ってたの?」
あの時は気にする程の事でもないとスルーしたが、母さんはシチューの隠し味だって自分から言ってしまうような人で隠し事はしない。というか、すぐ口を滑らせるから向いていない。
その母さんが都ちゃんが来るのを僕に話さない訳がない。それに、あんなにも楽しみにしていて話し忘れていたのも考えられない。だから、意図的に黙っていたとしか思えない。
「んー、サプライズの方が喜ぶかなって」
「相変わらず嘘が下手だよ」
「あらー、それじゃあ本当はね、恥ずかしがり屋の都ちゃんの為に」
「母さんっ」
「はーい」
母さんは嘘をつく時に右斜め上を見る癖がある。だから、嘘を見抜くのは簡単だ。
「シンちゃんがあの子の話をしなくなったから、言わない方がいいかなって」
僕が……話をしなくなった!?
「旅行から帰って間もない頃はね、ずっとあの子の話をしてたのよ。 楽しかったとか、あの子の為に絵を描きたいとか、また会いたいとか」
「…………」
「それでね。 毎日、『次いつ会える?』って聞かれていたわ。 一日に五回も聞いてきた時もあって、すごく好きなんだなぁって」
僕にとってそれは全く身に覚えのない話だった。普通、そこまで思い入れのある話なら、聞けば断片的にでもその時の記憶が戻るだろう。でも、今の僕にはそれがなかった……何一つ。
「なのに、それがある日ピタっと止まって……シンちゃん?」
「何でも、ない。 話、ありがと。 もういいよ」
「……うん、分かった」
それから、一言も話さずに黙々と食べた。少しだけしょっぱくなったシチューを。
食事を終え、洗い物くらいは自分でしようと思い、流し台へ向かう。
「ねぇ、シンちゃん。 明日も朝から出かけるのー?」
「…………。 出かけるよ」
「そっかー、明日は夜に台風が来るらしいわー」
「なら、十九時には帰るよ。 だから、お風呂用意しといて。 多分、必要になるから」
「ふふ、はーい」
直接、母さんの表情を見ていないが、その声色からすごく嬉しそうにしているのは分かった。
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