チャプター 2-3

 週末の土曜日、美術室を利用する為に学校へと来ていた。

 職員室に入り、美術室の鍵を借りる際、顧問に『部活熱心で感心、感心』と賞賛されたが、別にそういう訳じゃなく、ただ私的に利用したいだけでそんな気持ちは微塵もない。



 休日の美術室へ向かう足取りはかせが外れているかのように軽く、あっという間に到着。そして、いつもは開けるのが億劫な美術室のドアも今日は勢いよく開けれた。

「ほんと埃っぽいな」

 中学校の美術室も埃っぽかったが、ここはそれ以上と言っても過言ではない。一日過ごすだけで肺がやられてしまいそうだ。

「……床、汚いな……」

 今にして思えば、そんな場所から追い出され、風通しも良く、床も綺麗な空き教室で過ごせていたのは幸せな事だったのかもしれない。

「そんな訳、ないか」

 とりあえず、着いて最初にするのは掃除だ。一応、私的に利用させてもらっているので、それぐらいのボランティアはしておこうと思って始めた事だが、今ではルーティーンの一つになっている。

「よし、これくらいでいいかな」

 無心で掃き掃除をする事、約二十分。これで、完璧とは言えないが、来た時よりは綺麗になっているので充分だ。掃除を終え、いよいよ本来の目的に取り掛かる。無論、それは絵を描く事だ。普通なら、絵を描く為だけにわざわざ休日の学校に来て美術室を利用したりしないだろう。

 だが、僕はにはそんな事をする理由が二つある。

 まず、一つは静かで誰もいないから。ここに響く音は外の運動部の掛け声と金属音だけで、他に人はいない。つまり、他人に絵を描いてるところをあまり見られたくない僕にとってベストな環境だ。

 もう一つは、単に美術室の道具、主に絵画用のイーゼルを使いたいから。画家っぽい雰囲気を楽しみたいなんて我ながらミーハーだと思うが、絵を描いている実感がほしい僕にとっては重要な事だ。それこそカレーを作る時にいきなり具材を煮込むのではなく炒めてから煮込むぐらい重要だ。


 道具室からイーゼルを運び出し、ポジション決めをする。といっても、何かを見て描く訳じゃないから、気分で決めている。今日は陽に当たりたい気分なので、窓の側に置く。

 自分のロッカーから描いている最中の絵を取り出し、画板にセットして、イーゼルに立てかける。よし、これで準備完了。


 ──シャッ、シャッ、シャッ。


 外からの喧騒が途絶え、静寂の中に鉛筆を滑らせる音だけが鳴り響く。それは、一種の音楽のようで、僕の頭の中に譜面が流れる。

 トン、タン、トトン。細く描く線は軽快に、リズミカルに。

 ドン、ダダダ、ダンッ。指先に力を込め、力強く影を。

 ポン……ポロン……。絵を擦り、か細く、今にも消えてしまいそうな儚さを。

 あらゆる要素を織り込み、絵は終わりへと──少しずつ、少しずつ向かっていく。


 ──シャッ、スゥ、スッ。


 画用紙の上に鉛筆を滑らせる回数が減っていき、僕の記憶に残っている風景が完成していく。どうして色褪いろあせず記憶に残り、何度も描いてしまうんだろうか。この──。

「あ、あの」

「い゛ぃっ!?」

 僕だけの静寂の世界を破り、聞き覚えのある少女の声が耳に入り、盛大に驚く。恐る恐る背後へと視線を移す。

 実際に、目にするまでは何かの間違いであって欲しいと願ったが、それは叶わぬ願いだった。

「み、都ちゃん。 どうしてここに……?」

「紗枝さんに、お兄さんがお弁当を忘れたから届けてきてと頼まれたんです」

「そう、なんだ」

 笑顔でお弁当の入った袋を掲げた都ちゃんに『忘れたんじゃなくて今日は必要なかったんだよ』とは言えなかった。というか、母さんには要らないって言ったはずなんだけど……。

 さては、昨日僕らの様子が変だったから手を回したな。見たところお弁当も二つ入っているみたいだし、間違いないな。全く、余計な事を……。

「あー、わざわざありがとうね」

「いえ。 ところで、お兄さん。 それ」

 都ちゃんの手からお弁当を受け取り、固まってしまう。心なしか、手からじんわりと汗が出ているような気がした。

 このまま後ろにあるものを気にせず接してくれるなんて都合のいい展開になっていたら、こんなにも焦らなかっただろうに。

「えーと、これは、その……」

 頭の中で何度も『落ち着け』と連呼し、自分をなだめる。まだ絵を見られただけ。それだけだ。焦るような事は何もない。

「お兄さんが描いたんですよね?」

「あ、あぁ……うん。 そうだよ……一応」

 我ながら歯切れの悪さに辟易へきえきする。

「公園の絵ですよね。 夕景、綺麗です」

「……え……」

 都ちゃんの放った衝撃の言葉に驚きを隠せない。だから、勢いよく都ちゃんの両肩を掴み、問う。

「ねぇっ! 今、今なんて!?」

「えぇっ、あ、あの」

「頼むよっ! もう一度言って!」

「公園の絵って」

「そのあとっ!」

「夕景……綺麗です、と」

 聞き間違いじゃなかった。確かに、都ちゃんは『夕景』と言っていた。

 僕は曲がりなりにも美術部員。素人の目から見れば、僕の絵でもそれなりに描けているので、何を書いているかぐらいなら伝わる。だから、公園の絵だと分かったのは驚くような事じゃない。なら、何をそんなに驚いているのかというと都ちゃんは僕の絵を見て『夕景』だと分かった事だ。それは、絶対にあり得ない。何故なら、僕の絵には色がない。ただ鉛筆で描いただけの白黒。多少の濃淡はあれど拙いもので、それで判断するのは難しい。というか、不可能だ。

 だから、見ただけ『夕景』と分かる訳がない。

「あの……もしかして、違いましたか?」

「ううん、合ってるよ。 どうして分かったの?」

 事態は急変し、その理由が気になって仕方なくなっていた。

「……笑いませんか?」

「笑わないよ。 絶対に」

「……その、お兄さんの絵を見たら、そうイメージ出来ました」

 それは単純かつ不明瞭で漠然とした答えだった。

 理由なんてない。ただそう思っただけで、浅ましくも理論じみた明確な理由を欲していた僕にとっては拍子抜けな答えだった。

 もしかして、白黒の絵でも色を理解してもらえる方法があるかもしれない、と勝手に淡い希望を抱いてしまった。頭ではそんな魔法みたいな事はあり得ないと分かっているのに。

 全く、歳下の子どもに何を期待していたんだろうか……どうかしてる。

「すごいね。 僕の絵は白黒なのに」

「い、いえ……イメージするのが人よりほんの少し得意なだけです」

 そういえば、母さんの地図の時もイメージ出来たと言っていた。あの時は理解力がすごいと勝手に思っていたが、本当は文字通り道筋をイメージ出来たって事だったのか。実は、想像力が豊かだった?

 でも、想像力で道が分かるってニュアンス的に違和感があるような……いや、別に気にする事でもないか。

「………」

「気になるの?」

 じっと僕の絵を見つめる都ちゃんに、そう尋ねると無言のまま、コクコクと頷いた。そして、少し間を置いてからくりっとした真っ直ぐな瞳をこちらに向け、口を開く。

「お兄さんが絵を描くところを見ててもいいですか?」

「…………。 いいよ」

 しかし、その直後に、

 ──ギュゥルルルルッ。

 と、腹の虫が盛大に鳴いた。それと、同時に都ちゃんが俯く。

「あ、うぅ……」

「でも、その前にお昼にしよっか」

 腹が減ってはなんとやらだ。



「そういえば、よくここまで来れたね」

「守衛の方にお兄さんの事を話したら、ここまで連れてきてもらえました」

「へ、へぇ……そうなんだ」

 相手が小学生とはいえ……大丈夫か、うちの学校。いや、流石は田舎。認識が緩いというべきか。あとで問題にならない事を祈るばかりだ。まぁ、ないと思うけど。

「そういえば、紫さんはいないんですね」

「紫? なんで?」

「さっき階段の辺りでポニーテールの方を見かけたので、てっきりお兄さんと一緒かと」

「えーと、ここには来てないかな」

 仮に学校に来ていたとしても、紫と一緒に行動しないんだけどな。あと、当たり前のようにセット扱いされてれるのも……紫のやつがライバルなんて言ったから悪いんだけど──切ない、切な過ぎる。

「そういえば、軽音部にポニーテールの先輩がいたから、その人と見間違えたのかも」

「あ、なら、見間違いだったんですね」

「だと思うよ。 わざわざ休みの日に学校へ来るような物好きはいないしね」

「なら、お兄さんはどうして?」

 盛大に墓穴を掘ってしまった……。

「ぼ、僕はその……絵を描いてるところをあまり見られたくないからさ、こうやって休みの日にこっそりとね。 あははー」

「そう、なんですか……じゃあ、わたしは……」

 一気にシュンとする都ちゃん。

 しまった。別に、そういうつもりはなかったんだけどな……寧ろ、逆だ。

「さっきも言ったけど、都ちゃんはいいよ。 というより、見ててほしいかも」

「え、見ててほしい……ど、どうしてですか?」

「笑わない?」

「絶対に、笑いません」

「……都ちゃんが見ててくれるといいなってイメージ出来たから」

「へっ!?」

「なんてね。 冗談、冗談。 都ちゃんがすごく見たそうにするから、それならいいかなって思ったんだ」

「むぅっ」

 都ちゃんの見事なふくれっ面。手に弁当を持っているせいか。口いっぱいにご飯を頬張っているみたいで面白可愛い。

「ごめん、ごめん。 ハンバーグあげるから機嫌なおして」

「……物でなんとかしようとしてもダメです。 でも、ハンバーグはいただきます」

「あはは、ハンバーグ好きだもんね」

「ど、どうして、それをっ!?」

「どうしてって、見てれば分かるよ、それくらい」

 都ちゃんって顔に出るタイプでハンバーグ食べてる時はすっごい笑顔だし、分からない方がおかしい。

「もう……お、お兄さんは、そういうこと平気で言っちゃうの……ズルいです」

「今、何か言った?」

「んぅ、なんでもないですっ!」

 あれ、何でちょっと怒ってるんだろ? もしかして、女の子だからそういうところは複雑で言ってほしくなかったのかな? 別に、ハンバーグが好きなくらい良いと思うんだけどな。



 少し早めの昼食を摂ってから再び絵の前へと座る。

 さっきとは違い、都ちゃんに見られながら描く絵。人に見られながら描くのは久しぶりの事で多少胸をくすぐられているようなもどかしい──恥ずかしい気持ちになったが、不快感は少しも感じなかった。

 隣に座っていた都ちゃんは僕が絵を描く姿を何も言わず、じっと眺めていた。石になっているんじゃないかと思う程静かに。

 時折、お茶を飲むフリをして都ちゃんの顔を伺うと、頰を緩めニコニコとしていた。どうして見ているだけなのに、そんなにも楽しそうなのか。僕には分からなかった。

 絵は大方出来上がっていたので日が沈み始める少し前に家路を辿れた。学校を後にしても、微笑んだままの都ちゃん。それは、まるで遊園地に連れていってもらえた子どものように上機嫌だ。

 そんな彼女を見ていると尋ねずにはいられなかった。

「退屈じゃなかった?」

 返事は分かりきっているが、そう聞かずにはいられなかった。 思っていた通り満面の笑みで『退屈じゃなかったですっ!』と返ってきた。

 それが、山彦のように頭の中で響く。

 分かっている。本当はそんな事が聞きたいんじゃない。僕が聞きたいのは、君が楽しそうに笑う理由だ。

 でも、聞けなかった。それを聞いてしまうと、君の笑顔が泡のように弾けて消えてしまいそうだったから。


 ♪


 -都の日記-


 4月21日 お兄さんがお弁当を忘れたので、届けに行きました。

 学校の中に入れるか心配だったのですが、守衛の方が優しくて、大丈夫だったどころか、お兄さんのいるところまで案内してくれたので助かりました。

 本当は、すぐに声をかけようと思っていたのですが、いざ絵を描くお兄さんの姿を見ると足が止まってしまいました。また、あの時のお兄さんに会えた気がして……。

 でも、こっそり見るだけでは満足出来ません。もっと近くで、見ていたいです。ずっと、ずっと……。

 だから、紗枝さんにお願いして、わたしの分のお弁当も用意してもらっておいて正解でした。やっぱり、お兄さんの絵……好きです。紫さんがおっしゃっていた通りキラキラですっ!

 夕景……少し、ドキッとしました。忘れていても、ちゃんと──えへへ。

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