チャプター 2-2

 生徒達の喧騒が消え、シャーペンの音が響く放課後の教室。

「やべぇな、真っ黒だ」

 ぼそりと青二が呟く。

 窓越しに空を見上げると、いつ雨が降り出してもおかしくない程どんよりとしていた。それこそ、今すぐに帰らないと全身ずぶ濡れは確定と言っても過言ではない。

「そう思うんならさっさと終わらせてくれ」

「まぁ、待て。 そろそろ、いいネタが浮かんでくる……気がする」

 真剣な顔で日誌とにらめっこをする青二を前に、大きなため息が出る。全く、こっちは一緒に帰りたいとうるさくせがまれたから、仕方なく日直の仕事が終わるのを待ってやってるというのに。

「あのな、大喜利おおぎりじゃないんだからな。 そんなのテキトーでいいだろ」

「バカやろー! 日誌はひと月に一回しか書けなくて、ボケるとみきティーにツッコんでもらえるんだぞ! 真剣に取り組まないワケがないだろ!」

 この場にいないとはいえ担任を渾名で呼ぶとは、怖いもの知らずなのか。はたまた、ただの礼儀知らずなのか。

 ……どっちもか。

「一応、目上の人なんだぞ。 どこかのアイドルみたいに呼ぶなよ」

「何言ってんだ、美生みきティーチャーを略してみきティー。 だから、アイドルは関係ない」

「なんだ、その揚げ足取り。 腹立つな」

「ん、でも、教師は日本の未来を明るくする職業なんだし、実質アイドルだな」

「いや、ゴリ押すなよ」

「それに、名前もアイドルっぽくね?」

「それは……分からなくもない」

「だろ? 容姿だって美人だし──」


『随分と、楽しそうですね。 倉井さん』


 背後から高く、透き通った声が耳に入る。

 すると、青二の顔が二股のバレたチャラ男のように青ざめていった。それもそのはず、青二にとってはその人物がこの場にいると困るのだから。

 振り向くと、少しうねった茶色のカジュアルショートに、スクエア型の赤のメガネをかけた真面目そうな女性──我らが担任、黄金井美生こがねいみきご本人がいた。しかも、鬼のように険しい顔つきをして。

「な、なんでここにみきティーがっ!?」

 突然の来訪に、青二が狼狽えた刹那。

 ──バシィィィッン!

 と、威圧感のある激しい音が静かな教室内をこだました。

「え、あ、あの」

「黄金井先生。 でしょ?」

「サ、サー、イエッサー」

「そこは、きちんと"はい"と答えなさい」

「はいっ、黄金井先生!」

 流石、教師と言ったところか。生徒との関係が『近所の優しいお姉さん』にならないように呼び方から徹底している。さらに、安易に暴力を振るうと問題になるので、手に持っていたクリップボードを隣の机に叩きつけて脅す配慮。若干、グレーだが教育者は伊達じゃない。個人的には、全生徒をさん付けで呼ぶのはポイントが高い。

「ところで……どうして、み……黄金井先生が、ここにおられるのでしょうか?」

 似合わない丁寧な口調で、おずおずと尋ねる青ニ。

「最近、日誌でふざける生徒が多いので抜き打ちでチェックする事にしたんです」

 悩ましそうに額を抑える黄金井先生。もし頭痛によく効く薬を持っていたならばノーシンクで献上する程疲れた様子だ。

 それもそのはず、日誌での大喜利のツッコミに加え、抜き打ちチェックまでやらせているのだ。余計な仕事を増やしているのは小学生にだって分かる。今まで大喜利をしていた不敬な輩は土の味を噛みしめながら謝るべきだと思う。

「へぇ……そうなんですか。 全く、困ったやつらがいたもんですね」

「えぇ、本当に困ります」

 ついさっきまでその困ったやつらだったとは思えない身の変わりよう。流石だ、青ニ!

「ところで、倉井さん。 先程は、随分と楽しそうにしていましたね?」

「い、今書き終わったところで、こいつ話しこんじゃってただけです! 真面目に、真面目に書いてます!」

 頭を九十度下げて、日誌を差し出す青ニ。逆に、それは失礼なんじゃないかと思ったが、黄金井先生は特にそれを咎めたりはしなかった。

「ふむ、ちゃんと出来ているようですね。 では、これはこのまま預かります」

「よろしくお願いします! お手数お掛けしました! ありがとうございます! それでは、お先に失礼します!」

 青ニは僕の背を押し、そそくさと教室を後にする。

「ヒェーッ、ビビったぁ〜。 まさか、抜き打ちでチェックに来るなんてなー」

「そりゃ来るだろ、面倒なんだし」

「でもよー、そこは生徒との触れ合いっていうかさー」

「向こうだって仕事なんだよ」

「ちぇっ、せっかく美人が担任なのにフレンドリーな交流が出来ないなんてそりゃないぜ」

「……一応、美人と認識するんだな」

「するだろ、フツー」

「そうか、普通はするのか」

 正直、僕はあの人を美人と認識するのは難しい。確かに、端正な顔立ちをしていて、声もウグイス嬢のように綺麗だ。体型はフラットだが、悪い訳じゃない。寧ろ、大和撫子の鑑とでも言うべきかもしれない。つまり、顔良し、声良し、体型も及第点。普通ならそれだけで美人認定してもいいのだろう。

 しかし、

「芋ジャーはないよなぁ」

「なんか言ったか?」

「いや、別に」

 人のファッションセンスをとやかく言う気はないが、お洒落な格好をしてくれれば美人教師だと思えるようになるはずだ。多分。きっと。恐らく。



「あー、今日は相方と一緒なんだ」

 下駄箱が目と鼻の先に来たところで、紙パックのジュースを片手に突っ立っていた佐渡さんに声をかけられた。

「こんなところで何やってるのさ、部活は?」

「風を取り入れる為のちょっとした息抜きだよ〜」

「……とか言って、どうせまた先輩絡みでしょ?」

「ぴんぽ〜ん、流石はクロくん。 ジュースあげよっか?」

 ニヤニヤした顔で紙パックを突き出す佐渡さん。いくら相手が女性だろうと他人の飲みかけのジュースはいらない。別に、彼女を汚いと認識している訳ではないが、丁重にお断りさせていただく。こう……間接キス的な意味で。

「で、今日もサボり?」

「別にいいだろ」

「よくないよー、クロくんがいないせいで荒れるんだからー」

「いや、あの人が荒れてるのはいつもだから」

「そうなんだけどさー」

 だったら、なんで僕のせいにするんだよ……もしかして、佐渡さんの中では僕のせいにするのがマイブームなのか?

「まぁ、とりあえず。 一人でやるのも程々に、ね」

「……何が?」

「さぁ、何がだろね〜」

 佐渡さんは意味深な笑みを浮かべてから美術室の方へ戻っていった。

「……何が先輩だよ」

 全く、どこから嗅ぎつけたんだ。あのサバ女め。



「ん、何だこれ」

 家に帰ると、リビングのテーブルに母さんからの書き置きが残してあった。


『シンちゃん・都ちゃんへ 急用で出かけまーす。夜には帰るので心配しないでね♪ P.S.夕方に雨が降るみたいだからお洗濯物を取り込んでおいてね♪』


 なんでこう毎度毎度きゃぴきゃぴした文章を書くんだ……。というか、これに描かれてるイラストって、母さんか? どうしてたかが置き手紙に自分の絵を……しかも、萌えイラストって……。都ちゃんに見られる前に回収出来たのは幸いかもしれない。

 さて、僕が家に着く少し前からポツポツと雨が降り始めていた。なので、そろそろ本降りになってもおかしくはない。

「とりあえず、やるか」

 ちょうど二階のベランダへ着いた時、

 ──ザーッ、ザーッ、ザーッ。

 本格的に雨が降り出した。

「まずいっ!」

 ベランダには屋根がついているとはいえ、必ずしもそれで防げるとは限らない。多少の風が吹くだけで洗濯物は雨水にさらされてしまう。故に、急いで取り込まなければならないのだが……ちょっとした問題が起きてしまった。

「なっ!?」

 洗濯物を取り込んでいた僕の視界に入ってきたのは、物干しハンガーに吊るされた水色の布。急いで視線をそらすも、あまりの衝撃でバッチリ網膜に焼き付いてしまった。

 それは、白花のドット柄で、小さな黒のリボンがついていた。その可愛らしいリボンのおかげで、前後を履き間違える事はないだろう──じゃなくて。

「なんで一緒に干してるんだよっ!」

 待て、待て、待て、待て、待て、待て。

 一緒に暮らす事になったとはいえ他所様の子なんだぞ……しかも、多感な時期の女の子の……ぱ、パンツを……。

 いや、パンツなんてたかが布切れ。気にし過ぎだ。

 それに今の時代はそういうのを気にすると非難されそうだけど……違うじゃん、母さん……。

 そこだけは、気をつかってくれたっていいじゃないか……僕だって年頃の男なんだしさ……。別に、小学生のパンツにやましい気持ちを抱く可能性は限りなくゼロだけども……。

 ──ザーッ、ザーッ、ザーッ。

 無情にも、僕が嘆く暇はない。

「これは、不可抗力。 仕方のないことなんだ。 僕は、悪くない。 悪く、ないんだぁ……」

 覚悟を決め、視界に入れないよう最善の注意を払って手を伸ばす。言うまでもなく、触れた瞬間に罪悪感に苛まれた……。



「あ、お兄さん」

 洗濯物を取り込み終え、階段を降りると、ちょうど都ちゃんが帰宅したところだった。

「ただいまです」

「おかえり。 どうしたの?」

 レインカバーをしているとはいえずぶ濡れになったランドセルを抱えている都ちゃん。勿論、服も、靴もずぶ濡れ。だが、髪は濡れていなかった。

「これは……傘がなくなってて」

 なるほど、雨の日によくある災難(傘の盗難)にあってしまい、ランドセルを傘がわりにして帰って来たのか。

「ちょっと待っててね。 すぐバスタオルを取ってくるから──」



「へくちっ」

「大丈夫?」

「ふぁい、大丈夫れす」

 鼻声のまま言われてもだけど、しょうがないか。春になったとはいえまだ肌寒い季節。服は着替えたものの、ついさっきまでずぶ濡れで体は冷え切っているのだから。

 ──ピーッ。

 電気ポットから湯沸かし音が鳴り響く。

 予め用意しておいたカップにお湯を注いで、都ちゃんへと手渡す。

「ありがとうございます」

 都ちゃんは、ホクホクと湯気の上がるカップを両手で持ち、フゥ、フゥ、と息を吹きかけてからレモネードに口をつけた。

「あぅッ」

「だ、大丈夫!?」

「えへへ、思ったよりアツアツでした」

 都ちゃんは悪戯っぽく舌を出すと、照れたように笑った。

「氷取ってこようか?」

「いえ、大丈夫です。 ちょっと冷ませば」

「そっか」


 ──数分後。


「そういえば、災難だったね。 傘」

「いえ。 それよりも、良かったです」

「良かった? どうして?」

「だって、私の傘を持っていった人は濡れませんでしたから」

「…………」

「あの、どうかしましたか?」

「都ちゃんのそういうとこ素敵だと思うよ」

「ふえっ、す、すす、素敵!?」


『──ピピピッ。 お風呂が湧きました、お風呂が湧きました』


「あ、湧いたみたいだよ」

「ん、んっ」

「都ちゃん?」

「んんっ」

「え、あの」

 適温になったレモネードを一気に飲み干し、お辞儀をしてから急いでリビングを後にする都ちゃん。一体、どうしたんだろうか。そんなにも早くお風呂に入りたかったのだろうか? 雨水に濡れた体がそんなに嫌だったとか? ……分からない。

 だが、もっと分からないのは──その日、それから都ちゃんが目を合わせてくれなかった事だ。なんで……。

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