18・虚空の偽り

 マリアンヌとオットーは、一向に底の見えない階段を延々と下り続けた。

 始めは懸命に早く降りていたが、やがて疲労が蓄積し、歩きに変わった。

 しかし幸い上から影人が追いかけて来ることはなかった。

 そういえば影人は双頭の蜥蜴人をわざわざ建物内部に引き込んでいた。

 もしかすると外に出られない理由があるのかもしれない。

 例えば光に弱いとか。

 幽霊のような影人にはありそうな話だ。

「あの影、一体なんだったんだろう?」

 オットーはマリアンヌに尋ねた。

 勿論その答えを彼女が持っているわけがない。

「分かりません。ただ魔物を襲っていました。もしかすると……」

「もしかすると?」

 マリアンヌはふと思いついたことを口にするべきかどうか迷ったが、促されたので言ってみることにした。

「もしかすると、魔物というのは私たちが思っているより、一枚岩のような強固に結束されているではないのかもしれません。

 人間同士でも争うことはあります。あまり気持ちの良い話ではありませんが、程度の大小はあっても、ごく当然のように行われています。魔物にも、似たような事例があるのではないでしょうか。魔物には魔物の事情がある」

「……うん」

 納得しているのか、そもそもマリアンヌの示唆したこと自体上手く理解できているのか、甚だ明瞭さに欠ける肯定の仕方だった。

 それから二人は沈黙し、階段を下り続けた。

 周囲の建物は、超高層建造物のように、底の見えない遥か下から、上空の彼方にまで続いている。

 人間の建築技術ではこんなものは作れないだろう。

 これは魔物の技術力によるものだろうか。

 あるいは異なる現象によるものなのか。

 階層ごとにある屋内への出入り口は、内側から鍵がかかっているのか開かず、たとえ中に入ってもあの影人がいるかもしれなかったので、無理に抉じ開けようという気にはならなかった。

 自分たちはこの構造体の階層のどの辺りに位置しているのだろうか。

 回廊に入った時、別の空間に繋がっていた為、現在地が完全に分からなくなった。

 それに重力の向きは正しいのだろうか。

 もしかすると下に向かっていると思っているが、本当は上に下っているのではないだろうか。

 このまま下り続けると、最初の民家の場所に出るのかもしれない。

 逆様の状態で。

 あるいは外へ出る扉は、再び別の空間に繋がっていたのかもしれない。

 良く建築物を観察すれば、あの広大な回廊を収めておくには面積が狭すぎる。

 隣り合っている建物が中で繋がっているのかもしれないが、ここからでは確かめようがない。

 マリアンヌは自分の行動の成否を判断できなくなってきた。

 しかし選択肢は二つしかなく、そのうちの一つを選び進むしかないのだ。

 だがそれさえもが間違いであったのを示すように、進行方向を遮断されていた。

 足元に金網が張られている。

 無数の留め金が直接壁に打ち付けられた、頑丈そうな金網だ。

 その下にも階段は果てしなく続いているが、所持している小さなナイフで金網を切断するのは無理だろう。

 二人はその金網を見下ろして、途方に暮れた。

「どうしよう、マリアンヌ」

 問われる少女は返答に困却し、遥か上空を見上げて溜息をついた。上に戻る気力はないが、しかしそれしか方法はないだろう。

 ふと思いついて、手摺から下を見下ろした。手摺を乗り越えてなんとか下の階層に移動できないだろうか。

 失敗すれば奈落の底へ落下することになるだろうが、上に戻るよりはましかもしれない。

 だが、幸いその心配はなかった。

 路面も金網が敷かれていた。

 上からでは網の目のそれは見え難く、さらに霧が立ち込めていたので分からなかったが、今いる高さの階層に、石畳の代わりだというように一面に金網が敷かれていた。

 下から鉄骨や木材で支えてあるが、それもやはり土台が存在するのか怪しい、遥か下から伸びている。

 もしかすると、ここを魔物たちはここを移動しているのだろうか。

 こんな足場の不安定な場所を。

 金網が破れれば、下へ落ちてしまうというのに。

「ねえ、マリアンヌ、あれ」

 オットーがなにかを指差した。

 霧に翳んでいる先に花が咲いていた。

 二人の身長ぐらいはある巨大な花だ。

 茎や葉はなく、花だけが金網の上で咲いている。

 改めて周囲を見渡せば、無数の花が点在していた。

 魔王殿に自生する植物なのか、それとも魔物が栽培しているのだろうか。

 マリアンヌはしばらく考え、その花へ近づいて見る。

 金網が微妙に撓み歩き難いが、思ったよりも頑丈に構築されており落下の心配はないようだ。

 しかし虚空の上を歩いているような奇妙な感覚で落ち着かない。

 そして巨大な花のすぐ側にまで来ると、その花弁に触れる。

 後で考えればこれは非常に軽率な行動だったと思う。

 得体の知れないものに安易に近づき、触るなど危険他ならない。

 しかしこの時、マリアンヌの心は緊張の連続で、そして唐突に些か現実感に欠ける物が現れたことで、危機感が薄れていたのかもしれない。

 夢の中の出来事のように。

 幸いそれは危険物ではなかった。

「これ、硝子ですわ」

 滑らかな光沢と、独特の手触り。

 花弁一枚一枚精巧に作られた硝子の花だ。

 正常な命の存在が希薄な魔王殿で、偽りの生命を演出しているように、土壌の存在しない金網の上に、生命を持たない偽りの巨大な花が咲いている。

「誰かが置いたのかな?」

 オットーの呟きは、マリアンヌに問いかけたというより、自問しているようだった。

 だが誰かが置いたとしても、なんの為にこれだけの虚偽の花を咲かせたのだろうか。

 虚空の上で、二人は無数の偽りの花を見続けていた。



 紳士は緩慢な落下を続けていたが、やがて投影画面に足場の存在を示す数値が表示された。

 彼は一息ついたように嘆息する。

「ふう。ようやくか」

 足場と思しき数値は、強靭な金属製の糸を組み合わせたような形状を取っている。

「ああ、金網か」

 表示と該当する言葉が見つかり、紳士は合点が行ったように唸った。

 光の戦士との接触は失敗に終わった。

 現在彼らがどういう状況下に置かれているのか完全に不明だが、今の自分は無事を祈ることしかできないだろう。

 祈り。

 そう思って彼は可笑しくなった。

 祈りとは最も縁遠い存在である筈の自分がそんなことを思うとは、人間になるのも面白いものだ。

 程なくして、金網の地に降り立つ。

 シルクハットの位置を直して周囲を見渡すと、無数の巨花が点在している。

 彼は周囲に咲いている巨大な硝子の花に何気に近づき、杖で叩いてみた。

 濁りのない澄んだ音が鳴る

「ふむ、精神世界と現実世界を同調させているのか。いや、侵食し始めているな。この様子だと向こう側にも影響が出ているか」

 呟きながら初老の紳士は懐中時計の針を操作して、探索範囲と探知領域を変更する。

 その結果を数値化されたものが空中に投影表示された。

 それを見た彼は訝しげに眉根を顰めた。

 魔物が活動をしている。

 数は少ないが、魔王殿全域に散開して動いているようだ。

 しかし今の状況で動けば奴らにとって危険のはずだ。

 魔王殿は、必ずしも彼らに有利な場所ではない。

 ましてや精神世界の侵食が始まった今では、結界外での活動は多大な危険を伴う。

 懐中時計を再び操作して、範囲を狭めてみる。

 そして彼は少し驚いた。

 人間が二人、すぐ近くに存在している。

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