17・回廊に在る者たち

 回廊は奇妙な場所だった。

 縦横無尽に連なる迷路のような巨大な廊下は、扉が一つも見当たらず、当然部屋も見つからない。

 ただ天井には最初に入ったような出入り口らしき物が一定間隔で配置されているのだが、全て閉じているので向こう側の様子は分からなかった。

 もしかすると、この回廊の出入り口は天井にある無数の戸だけで、普通の位置にはないのかもしれない。

 そうなると二人は仲良くここで餓死することになるだろう。

 あまり考えたくない未来図だ。

 魔王殿に来てからというもの、未来に関して考えたくないことが多い。

 壁にかけられたランプは点燈していない。

 しかし、窓などの外と繋がっている場所があるわけでもないのに、どこから光が入っているのか、全体的に薄く朧に光が混じっている。

 十字路で不意にオットーが足を止め、右手通路の薄暗い果てを見つめた。

「どうしました?」

「誰かいるみたいだ」

「え?」

 オットーの視線の先を辿ってみたが、しかしそこには誰もいない。

「どこにおりますの?」

「よく分からないけど、その辺りに……」

 方向を指差す彼自身、確信を持てないが、しかし確かになにかがいたような気がしたのだ。

 音が聞こえたとか、姿が見えたというのではなくが、気配と言うのだろうか、皮膚感覚でなにかがいるのを感知した。

「ひっ!」

 再び感じた。

 空気の流動よりも遥かに明瞭に、その存在を感じ取った。

 勘違いではない。

 すぐ先だ。

「やっぱり、なにかいる。見えないけど、すぐそこにいるんだ」

 マリアンヌに告げる声は、得体の知れない者に対する恐怖で震え始めている。

「オットー、落ち着いて。早くここから離れましょう」

 マリアンヌは、オットーがなにを感知したのか分からないが、しかし停滞するのは危険だと判断し、移動を促した。

 しかし行動は遅く、駆け足を始めて四 五歩でオットーが足を止めた。

「前にもいる。後ろにも。マリアンヌ、囲まれてるよ!」

 最後には悲鳴に近い声でオットーは叫び、同時にそれは姿を現した。



 目の前に影が現れた。

 人の形をした朧な影のようだ。

 輪郭が明確でなく、くすんだ霧が集まったようにも見える。

 時折その体が揺らぎ、まるで実体がないように、向こう側の景色が見える。

 それはマリアンヌとオットーを凝視していた。

 朧な影の頭部に眼球が存在しているのか分からなかったが、しかし見つめられていると感じた。

 言葉を発せず、音一つなく、凝視している。

 気がつけば回りはその影人が囲んでいた。五、六人ほどだろうか、皆、同じように見つめていた。

「……マリアンヌ」

 オットーは怯えてマリアンヌの腕を掴んだ。

 その手を握り返し、彼女は思案する。

 この人影がなにを考えているのか分からないが、このまま身動きが取れないのは良くない。

 影人はまるで実体がないように見え、体当たりすれば手応えなく、彼らの体を通過できる気がする。

 だが確信があるわけではないし、その行動で彼らの攻撃意識を刺激するかもしれない。

 動くのは得策とは言い切れないが、いつまでも動かないわけにも行かない。

 停滞させることこそが、この影たちの目的なのかもしれない。

 進め。

 危険を覚悟で影に向かって走ろうとしたその時、頭上で音がした。

 天井の出入り口だ。

 周囲を囲んでいた無数の影が、一瞬で四方に散り、姿を消した。

 安心したのも束の間、音の発生した戸板が粉砕され、木屑を撒き散らして魔物が降りてきた。

 簡易な鎧を装備した二足歩行の蜥蜴人だが、頭が二つ付いている。

 その双頭の両目がマリアンヌとオットーを捉えた。

 二人は緊張に体を固めたが、その時間は短く、すぐに成すべき行動に移した。

「走って!」

 SYAAAAAA……

 しかし双頭の蜥蜴人は即座に二人を追跡する。

「マリアンヌ! 追ってくるよ!」

「分かってますわ!」

 二人は全速力で走ったが、魔物である蜥蜴人の速力には到底及ばず、程なくすぐ背後まで迫って来た。

 伸ばしてくるその四本指の手に捕まれることを予想し慄いたが、しかし触れるか否やの所で蜥蜴人は突然転倒した。

 それはなにかに躓いたというより、足になにかが絡みつき、頭を押さえ込んだような。

「え?」

 後方に視線を向けた二人は、蜥蜴人を押し倒したのがなんであるのか分かった。

 蜥蜴人の体に先ほどの影が群がっていた。実体の無い様に見えたその手は実在し、凄まじい怪力で魔物である蜥蜴人を取り押さえていた。

「え? 助けてくれた?」

 二人は足を止め、オットーはよく分からずに呟いた。

 確かに影人の行動はそのように取れたかもしれない。

 だが影たちは蜥蜴人の左手を肩からもぎ取った。

 激痛で蜥蜴人が暴れるが、影たちはそれをものともせず押さえ続けた。

 そして蜥蜴人の左手に、影の一つが吸い込まれるように吸収された。

 すると、ただの肉片であるそれは、脈打ち蠢き、四肢が生え、もぎ取られ肉が露出している部分に耳鼻が形成され、一つの生物として活動を始めた。

 出来上がったばかりの眼球が二人に向けられ、肉が割れて口が作られ、それが笑みの形を取る。

 背筋に冷たい汗が流れた。

「違います。私たちを助けてくれたわけではありません」

 マリアンヌはオットーの考えを否定した。

 彼らは自分たちを助けてくれたわけではない。

 ただ自分たちの体を手に入れるために、魔物を襲っているのだ。

 もしかすると最初に現れた時、自分たちを狙っていたのではないだろうか。

「オットー、逃げましょう。ここにいたら私たちもやられてしますわ」

「う、うん」

 二人が再びその場から逃走を始めた。

 GUWAAAAA!

 同時に捕まっていた蜥蜴人が渾身の力で無数の影人の手から脱出した。

 そしてまるでマリアンヌたちの後を追うように、影人から逃げる。

 それは人間が恐れる魔物の姿には程遠く、捕食者から必死に逃走する獲物の姿だった。

 影たちは沈黙を保ったまま、風のように滑らかに追跡してくる。

 それはまるで死神の手のように静かで、しかし絶対的に逃れられない行使力を持った存在のようだった。

 どこをどう走ったのだろうか、二人は遂に建造物の端に到達した。

 そして廊下の端には扉があった。

 オットーは飛び掛るように扉のノブに手を伸ばし、掴むと即座に回した。

 扉はそれ自体が意思を持っていたかのように、勢いよく開かれ、そして外の光が屋内に入り込んだ。

「やった!」

「やりましたわ!」

 少年と少女は同時に快哉の声を上げて、ついに外へ出た。

 そして足を止めた。

 そこは外壁に設置された階段だった。

 手摺から下を見下ろしたが、地面は見えず、舗装路の石畳が崩壊した時と同じように底がなかった。

 そして建造物も同じように遥か下から聳え立ち、上は上空の彼方にまで続いて天頂が見えない。

 階段はその上下共に無限に続いているようだった。

 埃混じりの風が建造物間を吹き抜け、髪を舞い上がらせた。

「マリアンヌ、どっちに行けばいいの?」

「それは……」

 上と下、どちらに進むべきか、逡巡した時間に、蜥蜴人が追いついた。

 それは感情を表す筈のない爬虫類の顔二つに、明らかに恐怖を表して、まるで地獄から救ってくれる一筋の光のように外へ通じるドアへ全力で跳躍した。

 マリアンヌとオットーはお互いを庇うように、階段の隅に避難した。

 蜥蜴人が外へ出た勢いで手摺に体が激突した。

 鉄製の手摺が拉げるほどだが、双頭の蜥蜴人の二つの顔に安堵の色が一瞬浮かんだように見えた。

 その瞬間、屋内から伸ばされた無数の影の手が双頭蜥蜴人を捕まえ、凄まじい力で中へ引き戻した。

 GYAAAAA!

 この世のものとは思えない悲鳴が響き渡った。

 マリアンヌが扉を閉めて閂をかけると、声は聞こえなくなった。

 しばらく閂をかけた体勢のまま、その場で硬直していた。

 やがて力が抜け腰を落とし、代わりに呼吸が荒くなり、体の震えが始まった。

 オットーも階段の片隅で震えていた。

 勿論二人とも、過剰運動による症状ではない。

「……助かったのかな?」

 オットーの呟きの返答はマリアンヌからではなかった。

 扉から打撃音が鳴った。

 内側からなにかが叩きつけており、それは一定の間隔で続く。

 振動が体の奥底まで響くほど強烈で、それが段々激しくなっていく。

 分厚い金属製の扉は簡単に破壊されないだろうが、扉の中心部が盛り上がり始めていた。

 いつまで保つか分からない。

「オットー、立って」

 マリアンヌはオットーの手を掴むと、全力で階段を下り始めた。

 出来る限り遠くへ逃げなければ。

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