16・大きな変化と小さな変化

 それは、空間も時間も意味を成さない場所で待機し続けた。

 些細な失敗から絶対的な牢獄に捉えられてしまったそれは、身動きが取れず、通常の生命はその法則の支配下では存在を維持すること自体不可能だったが、それは自らの形質を変異させ消滅を辛うじて免れていた。

 どれだけの時間が流れたのか、時のない世界で、自分の体感時間だけが頼りの状況下で、脱出の好機が訪れるのを待ち続けた。

 そして無窮とも思われた待機は報われ、遥か遠方であり、同位置でもある時空から、不意に特異点の微弱な影響が伝わり、揺らぎが発生した。

 脱出の機会と判断し、それは活動を再開したが、しかし突破するには至らなかった。

 だがそれは、少しだけ行動範囲を拡大した。



 マリアンヌとオットーは雑貨屋の扉を改めて警戒しながらくぐった。

 極限までに神経を張り巡らせて扉を開けた結果、幸い魔物が待ち構えていることはなかった。

 先ほどの猿忍者は本当に自分たちに気が付かなかったらしい。

 マリアンヌは外壁に一番近い方向だと見当をつけている道筋へ向かう。

 石畳の舗装路は乾燥しており、砂埃が少しの空気の流動で舞い上がる。

 しかし十メートルも進まないうちにオットーが不意に足を止め、自分の足元を不思議そうに見つめる。

「どうしました?」

 先に進んでいたマリアンヌが、振り返って尋ねる。

 オットーが立ち止まったのに気付かずに少し離れてしまった。

「うん……ちょっと」

 オットーは明快さに欠ける返事をしながら、その場で足を軽く踏み鳴らす。

 石畳の舗装路は、綺麗な反響を奏でる。

 その音が消えてから、再び足を踏み鳴らす。

 足音が響く。

「なにをしていますの?」

 オットーの行動が理解できず、マリアンヌは首を傾げた。

「うん、なんか変なんだ。この足音の響き方、まるで……」

 まるで石畳一枚の下は巨大な空洞があるような響き方だ。

 その疑念を告げようとした途端、突然オットーに戦慄の予感が訪れ、それが正しかった証明に、間を置かず大地が振動を始めた。

「地震!?」

 マリアンヌは地に伏せてやり過ごそうとしたが、しかしオットーはその少女の傍らに疾走し即座に抱えると、すぐ側にあった民家のテラスへ跳躍した。

 同時に、舗装路の石畳が崩壊した。

 まるで粗雑に並べただけの石材のように、石畳はその下に存在した巨大な空間、底の見えない深淵の遥か下へ全て落下した。

 唐突に足場を失った二人は、しかし事前に察知したオットーの右手が辛うじて手摺を掴むことに成功し、そして左手はマリアンヌの右手を掴んでいる。

 舗装路が脈絡もなく崩壊し、その下は先に推測したとおり巨大な空洞だった。

 遥か下は底が見えない深淵なのに、どういうわけか、建造物の土台はその霧の中から尖塔のように聳え立っている。

 テラスへ跳んだオットーの機転によって、二人は落下せずにすんだ。

 しかし空中にぶら下がったマリアンヌは恐慌状態の一歩手前だった。

 持っていたはずの手斧は弾みで手から離れ、底の見えない深淵の下へ落下していった。

 十秒以上その状態でいただろうか、聞こえてくるはずの手斧の激突音が一向に響いてこない。

 そもそも最前に落下した石畳はどうなのか。

 あれだけの量の石材が落下したのだ、たとえ深い水が湛えられていたとしても、反響音は凄まじいはずだ。

 それなのに何一つ音は返ってこない。

 この下は、本当に底が存在しないのだ。

 このままなら少女は恐慌状態に陥ったかもしれない。

 だが正気に引き戻す声が頭上から届いた。

「マリアンヌ」

 落下を引き止めていた人がそこにいた。

「オ、オットー」

 少年はテラスの手摺を右手で掴み、自分の右手を残った左手で掴んでいる。

 歯を食いしばる少年は、途切れ途切れに少女に伝える。

「マ、マリアンヌ。ちゃんと、手を掴んで。早く。長く、保てない」

 見れば今にもオットーの右手は手摺から落ちそうだ。

 マリアンヌは左手を伸ばして、オットーの右腕を必死に掴む。

 オットーは渾身の力を込めて持ち上げ始めた。

「う、ううぅ、うぅわあああ!」

 雄叫びと共にマリアンヌを手摺まで引き上げた。

 即座に彼女は手摺にしがみ付き、テラスへ上がる。

 そして急いでオットーを引き上げた。

 そして二人はテラスに力尽きたように並んで倒れこんだ。

「ふう、助かった」

「助かりましたわ」

 上体を起こしたマリアンヌは、オットーに感謝の意を告げようとして、オットーの右手の状態に気が付き、顔から血の気が引いた。

「オットー、その手」

 その右手首は皮が破れて血が流れ、肉が抉れてさえいた。

 考えてみれば死に物狂いで右手にしがみ付いていたのだ。

 人間の体は石や木とは違い柔らく脆弱だ。

 爪が食い込み、肉を削ぐのは当然であり、それに伴う痛みは相当のものだろう。

 それなのに少年は耐えきって持ち上げたのだ。

 オットーは右手を見られたのに気が付いて慌てて背後に隠したが、既に遅い。

「オ、オットー……ご、ごめんなさい」

 その痛々しい姿に、謝罪の言葉を告げることしか思いつかなかった。

 しかし少年は笑顔を努力して作った。

 痛みを感じている様子を見せれば、彼女は罪悪感に苛まされるだろうから。

「大丈夫だよ。このくらい」

 その笑顔になぜだかマリアンヌは胸が締め付けられる思いがした。

 そして先の雑貨屋で手に入れたナイフをポケットから取り出すと、ドレスのスカートの端を切った。

 どういう意図なのか、オットーが訊ねる前に、彼女はスカートを切り裂き、その布切れをオットーの出血部に巻き付け始めた。

 その程度でどれほどの治療になるのか疑問だったが、しかしオットーは止めなかったし、マリアンヌは続けた。

 深淵の底の彼方から乾いた風が吹き抜けた。



 テラスから状況を改めて確認してみると、現実味に欠け異様さだけが際立つ。

 舗装路のあった場所は、石畳が崩落して消えてしまい、底の見えない奈落の深淵がどこまでも続いている。

 いくら目を凝らしても、光も届かないほど深いのか、見えるのは漂う霧とその向こうにある闇だけだ。

 それなのに建造物だけは何処を土台としているのか、遥か下から屹立と聳えている。

 不気味な夢を見ているようだ。

 だがマリアンヌはこの現象に精神的な決着を手早く付けた。

 ここは魔王殿だ。

 魔王の居城。

 魔物の本拠地。

 地獄と繋がった都市。

 どんなに見慣れた風景に酷似していようとも、自分たちの世界とは断絶にも等しい隔たりがある場所だ。

 幽閉の塔に監禁されていた時から今に至るまで自覚が足りなかったようだが、自分は人知の及ばない想像を絶する秘境にいるのを、この上なく理解した。

 テラスから下を見下ろしていたが、不意に一陣の風が吹き、マリアンヌは恐怖が湧き上がり身を引いた。

「マリアンヌ、これってやっぱり、僕たちが逃げ出したのと関係あるのかな」

 オットーが質問にマリアンヌは首肯した。

「それしか考えられません。私たちが逃げたのに気が付いて、そしてこのように道を消滅させてしまうことで行動を制限しようと考えたのでしょう。

 そして本当に落下してしまった時は、おそらく別の場所に移動するのではないでしょうか。魔術や、魔物の力は、空間を歪めることが可能です。おそらく設定された高度に接触すると、自動的に転移されるのです」

 サリシュタール先生が、時折空間転移を使用していたことを思い出す。

 これはさながら巨大な落とし穴だ。

 そして逃れたとしても、行動を大幅に制限される。

 上手く考えたものだ。

「さっきの魔物に見つかっていたんだね。助かったと思ったんだけど」

「いえ、それは考え難いですわ。先の魔物はその気になれば私たちを即座に捕獲できた筈です。でも素通りしてしまいました。この現象はそれとは関係なく、私たちの場所が分からないから行ったのだと思います」

 言いつつマリアンヌは明るい希望材料を見つけた。

「そうですわ、魔物は逃げ出したことは気が付いたのでしょうけれども、私たちがどこにいるのかまでは分からないのですわ」

 魔物が魔王殿全域をなんらかの方法で探知し、自分たちの居場所を正確に特定することを密かに懸念していたのだが、これでその心配がなくなった。

 行動の自由は制限されたが、向こうも万能ではないことが証明されたのだ。

「オットー、先へ進みましょう。脱出の可能性は思っていたよりも確率が高いようです」

 マリアンヌはテラスのドアを開けた。

 建造物がまだ健在なら屋根伝いに移動できる。

 幽閉の塔から見た限りでは、建物は魔王殿城壁付近まで密集していた。

 梯子か何かを見つければ、外壁に移動することは簡単だ。

 ようは外縁に辿り着けば良い。

 マリアンヌは民家と思しき建物の中を慎重に窺いながら入った。

 魔物の姿や気配はない。

「オットー、大丈夫ですわ。いらっしゃい」

 促されてオットーも中に入った。

 テラスから入った先は寝室だった。

 埃が蓄積されたベッドの横の棚から、クローゼットの中まで手早く物色するが、特に役立つような物は見つからない。

 廊下に出て次々と部屋を調査して行き、階段を上がって二階の部屋も全て探索したが、しかし結果は同じ。

 雑貨屋のように武器になる物は見つからず、医療品の類も見つからなかった。

 仕方がないので屋根裏へ向かう。

 すぐに天井に屋根裏に通じると思われる扉板を見つけたが、当然天井は高く、二人の身長では届かない。

 テーブルを下の階から二人で運び、椅子をその上に載せる。

 オットーが椅子を支えて、マリアンヌが上がった。

「気をつけて」

 オットーの注意に頷いて、マリアンヌは扉板を押し上げ、顔だけ出して覗きこむと同時に、突然マリアンヌの体が屋根裏に引き込まれた。

「うわあ!」

 悲鳴と落下したような衝撃音が響く。

「イッターイ」

「マリアンヌ! どうしたの?!」

 オットーは慌てて椅子に上がった。

「待って! オットー!」

 マリアンヌの制止の声は間に合わず、天井裏に顔を覗かせたオットーは、不意に浮遊感を感じたかと思うと、突然自分の体が上に向かって落下した。

 咄嗟に縁に手を伸ばし掴んだが、体は上下反対にぶら下がることになった。

 先ほどまでいた下にあるはずの民家が上に存在し、上にいるはずのマリアンヌが下の床に座っていた。

「な、なにこれ?!」

 掴んでいる縁は脆くなっていたのか、不意に壊れてオットーは落下した。

 それほど高くなかったが、床に背中を叩きつけられ一時的に呼吸困難に陥った。

 幸い怪我はせずにすんだようだ。

 隣でマリアンヌがお尻を摩っていた。

 彼女は腰を痛打したのだろう。

「大丈夫? オットー」

「うん、平気」

 立ち上がった二人は周囲を見渡した。

 宮殿や王城、もしくは大規模な教会のような建築様式の回廊だ。

 手入れも行き届いており、壁には明かりは点っていないランプが規則正しくかけられている。

 上の建物とは大違いだ。

 その屋根裏に繋がっていると思っていた民家の入り口は、三メートルほど上にある。

 椅子とテーブルがその入り口から見えるが、頭上にテーブルや椅子があるというのはなんとも奇妙な感覚だ。

 昔、城下町で興行していたサーカスでの、マジックハウスを思い出す。

 だが今は、本当に種も仕掛けもない。

「重力が逆転していましたのね。そして入り口は別の空間に繋がっていた」

 そうとしか考えられない。

 果ての見えない長い回廊を許容する空間が、民家の屋根裏に存在するとは考え難い。

 まったく別の場所に移動したと考えたほうが自然だ。

「戻るのは……」

「無理ですわね」

 オットーの言葉を引き継いで、マリアンヌは断言した。

 高さ三メートルほどの位置にある引き戸は、子供の平均身長から逸脱しない二人では、肩車をしても手は届かないだろう。

「それに戻ったところで仕方がないでしょうし」

 舗装路は消えてしまったのだ、移動できない。

 二人は回廊の先を見つめた。

 明かりの燈っていない通路は薄暗く、果てが見えないほど長い。

 果てが存在しているのかどうかも怪しい気がする。

 二人はしばらく佇立していたが、程なくして進み始めた。

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