19・不自然な光景
サリシュタールは建築物の屋根の上に移動し、重力中和領域を解除した。
まだ危険が消えた確証はないが、自分一人だけで飛ぶのならばともかく、他の者も領域内に加えると、急激に負荷が増大する。
屋根の上に降り立った三人は、改めて周囲状況を観察した。
周辺の建物は、三百年の長い年月によって風化した廃墟同然の印象は変化していないが、問題はそれが数百階以上あるということだ。
そして舗装路は消滅し、あるのは底の見えない深淵。
その遥か下から聳え立つように、古の建築物が屹立している。
そして先程まであれだけ湧いて出てきた夥しい数の魔物は、まるで幻のように忽然と姿を消し、一匹の影も形も見えない。
酷く現実感の欠けたその光景は、閑寂の夢の中にいるようだ。
眼下の深淵を見下ろそうと屋根の縁に寄ったアルディアスは、その拍子に小石を蹴り、それは遥か虚空の彼方へと落下して行った。
底に到達した音は返ってこない。
本当に底無しならば今、己が立っているこの建築物はどこを基底としているのだろうか。
「下の景色は、実在しているのか?」
尋ねられた黒髪の魔術師は、透徹した視力を持つ魔眼で見据える。
「ええ、ちゃんと存在しているわ。幻影の類じゃない」
「どうなってんだよ、これ? 地面の下に巨大な空洞があったってことか?」
途方に暮れたように呟くゴードの疑問に、サリシュタールは首をふる。
「いいえ。たぶん時空制御で未来の空間を得て、さらに現実世界に精神世界を混入させたんだと思う」
「つまり?」
「つまり、下の広大な空間と建物は未来の空間を位相変化させたものだと思う。
同空間における領域は、時間軸が進んでも存在し続けるわね。それを時空操作することによって未来の空間を同時間において存在させ、その空間位置を移動させるの。そうして広大な空間と、建物が成立する。
つまり全部、時間軸の違うだけの、同じ建築物なのよ。
ただ、それだけだとすぐに自重で崩壊を起こすだろうし、空間そのものも安定を保てないから、精神世界を現実に混入させることで補強したんだと思う。
精神というのは一般的に思われているより、ずっと存在が明確に確固されているものなんだけど、だからこそ物質を主体としたこちら側の世界には侵入することができないの。
でもその境界も操作したんでしょうね。たぶん魔王殿そのものにある種の結界を張って、その領域での特異点を発生させて、時空や世界の境界を大幅に変更したのかも。
そうね、それが一番良い方法だわ。ちょっと信じられないくらい大規模な時空操作だけど、たぶんこれが魔王の力の一端なんでしょうね。
でも、こんなことをしてどういう意味があるのかしら?」
口にはしなかったが、先の戦闘で自分たちが極めて危険な状況に追い込まれていたことを示唆していた。
戦闘を続行していれば、自分たちを倒すのも可能だった筈なのに、それを放棄してまでこんな奇妙な状態を作り出す必要とはなんであるのか。
「さあな。ところでどうやって進む?」
しかしゴードは一言で終らせ、次の行動の考案に話題を移したが、サリシュタールは不満だった。
「ちょっと待ってよ。さあなって、それで言で終わり? もっと具体的な論議をしないの?」
薀蓄癖のある魔術師は、せっかくの知識披露の機会が終ってしまうのが大変不服だったが、ゴードは相手にせず中央の古城に、手で傘を作って日差しを避けるという、そこはかとなく芝居じみた仕草で目をやっていた。
「屋根伝いに歩けば、あそこまで辿り着けるな」
「無視しないでくれる」
アルディアスが代わりに答えてくれた。
「聞いても理解できなかったから話を止めたのだよ」
「そのとおりだけど、人に言われると凄えムカツクんだよ」
ゴードはアルディアスの首を絞める。
アルディアスの首は鎧で防護されているので、素手でいくら絞めても全く効果はないのだが。
サリシュタールは呆れたように、そして諦めたように嘆息した。
「特異点変更終了」
「誤差が大きすぎる。現実への侵食が始まっているぞ。修正するんだ」
「無理だ。我々の力ではこれ以上の精度が得られない。これが限度だろう」
「当面の目的は達した。一旦元に戻してはどうだ」
「正確に戻せるかどうかわからない。同じ結果か、もしくはより悪化する可能性がある。彼が必要だ」
「マリアンヌ王女は?」
「一緒にいなくなった。行動を共にしていると推測される」
「何のために?」
「不明だ」
「彼は何を考えている?」
「不確定だ」
「アレは今どこにいる?」
「下降停止した」
「停止? どうやって?」
「足場が形成されている。針金を組み合わせた足場。金網だな」
「なぜそんな物が?」
「何者かの精神内部の記憶が現実に具現化された結果であると推測される」
「誰の?」
「彼かマリアンヌ王女以外いないだろう」
「悪い知らせが入った。魔物が一つ消滅した」
「消滅?」
「引き剥がした者たちが実体化し活動している。精神世界の侵食度が高すぎる」
「危険だ。至急特異点を元に戻すか、計画を遂行しなければ」
「どちらにせよマリアンヌ王女と彼が必要だ」
「探索状況はどうなっている?」
三人は魔王殿の中心部にある古城へ向かった。
当初の予定だった、サリシュタールが魔物の脳から情報を得る作戦は、魔物を一体も捕獲できなかったことで諦めざるを得なかった。
思わぬ苦戦だった。
覚悟していた気でいて、その実、認識が甘かったのだろう。
最初に結界を張られた時点で、魔物に有利な特殊性があると予想して然るべきだった。
明らかに最前の魔物の不死性の原因は結界にあり、次に結界が張られたら、最優先で解析する必要がある。先ほどは気付くのが遅く、そのために危機に晒されたのだ。
不意にサリシュタールは、この世で唯一苦手な存在を思い出して、嫌悪感で身震いする。
結界に密集した蟲の内側の蠢く様。
どうしてあんなものが存在するのか、創造主の正気を疑う。
彼女の様子に二人は怪訝に思ったが声を掛けたりはしなかった。
彼女に高所が恐ろしいなどという可愛げのある性格が含有されている筈がない、絶対に。
路面が消失しているので屋根の上を進んで行くが、その姿は遠くから見ればさぞや怪しい三人組と取られただろう。
だがここには彼らを見る者は誰もいない。
もしかすると魔物が監視しているのかもしれないが、彼らに人間の道徳観念などないだろうし、そもそも精神構造の違う生物が、自分たちの行動を不審なこととして捉えるかどうかも疑問だ。
「なあ、サリ、アルディアス。泥棒とかやったことあるか?」
ゴードは唐突に妙なことを訊いてきたので、前を進んでいたアルディアスは思わず足を止めて振り返った。
「なんだ? いきなりおかしなことを聞くな」
「いや、なんか屋根の上をこうやって歩くのって、劇場とかで怪盗役がよくやる場面だろ。んで、華麗に飛んだり跳ねたりするわけだ。なんかそんなことを思い出してな」
こんな時に変な連想をする。
案外泥棒をやったことがあるのかもしれないと、サリシュタールが勘繰って訊ねた。
「もしかして、経験でもあるの」
「ああ」
ゴードがあまりにも簡単に肯定したので、一瞬二人は呆気に取られた。
しかし次には、厳格な道徳観の持ち主であるアルディアスが眉目を危険な角度に吊り上げた。
「待て! おまえは窃盗を働いたことがあるのか!?」
しかしゴードはアルディアスがなぜ怒っているのか理解できず、怪訝な表情を返した。
「はあ? なんで泥棒なんてする必要があるんだよ?」
彼は基本的に金銭を必要とした生活をしてこなかった。
彼の故郷はそういう土地柄だ。
欲しい道具は自分で作り、食料は狩猟や、作物を栽培することで直接得る。
生産を基本的に行わず、物流で生活基盤を維持する必要のある都会とは事情が違う。
金銭や物品を他者から奪ってまで手に入れようとする価値観が彼にはない。
「あんた今言ったじゃない。泥棒したって」
サリシュタールの言葉に、ゴードは二人が誤解しているのに気が付いた。
即座に手を振って訂正する。
「違う違う。演劇で屋根の上に上がった経験のことだ。知り合いの旅劇団で、怪盗役の役者が怪我をして、それで背格好が似てるからって、臨時に雇われたんだよ」
もちろん役者でないゴードの代わりに、本来の役者が後方から声は出して、それに合わせて動いていただけなのだが。
しかしゴードの身体能力は並みの役者を遥かに上回り、それが活劇場面での臨場感や現実味を醸し出し、舞台は盛況に終わったのだった。
「ああ、そういうことか」
アルディアスは安心する。
帰還後に旅の仲間を犯罪者として摘発する恐れはないようだ。
それにしても誤解を招く話し方だ。
「それで、その時、マリアンヌ王女が観客にいたんだが。今まで王女のことはあまり聞かなかったけどよ、どういう子なんだ?」
「そういえば、おまえは王女とは縁が一番薄いのだったな」
一番長い時間を共有したのは、家庭教師のサリシュタール。
次いで一時、警護の任務に就いていたアルディアス。
しかし平民である、それも辺境の地の出身のゴードはその姿を見る機会さえ少なかっただろう。
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