12・動けない二人

 マリアンヌとオットーのいる、雑貨屋と思われる屋内はごく在り来りの店舗住宅だ。

 石材と木材の組み合わせによって建築されている、人間の在住を想定された家屋だ。

 心ならずも魔王殿上空を遊覧飛行することになった時、マリアンヌは魔王殿を廃墟のように感じ、魔物の住む場所としてはお似合いだと思った。

 だが実際街を歩いて不思議に感じる。

 魔物の体型は、種類に寄るだろうが、人のそれと違う。

 だがこの街は人間を基準に作られたものであり、魔物が生活するには多少不便ではないだろうか。

 それをなんの手も加えていないというのは不自然だ。

 街の中に魔物が在住していないのか、それとも些細な違いは気にならないのか。

 父王は言った。

 私たちは本質を見誤っているのではないかと。

 魔王殿探索でそれを見つけるかもしれない。

 勿論脱出が最優先事項だが、少なくとも心に留めて置くと良いだろう。

 案外、誰もが知らなかった重大な発見をするかもしれない。

 不意にオットーは立ち上がる。

「どうしました?」

 オットーは無言で壁に立てかけてある鏡の前に。

 砂埃が付着してほとんど見えないそれを、手で払うと簡単に砂埃が落ちる。

 そして見えるのは、白兎のような紅瞳。白い肌に白い髪。

 オットーは自分の頬に軽く触れる。

「……これが、僕の顔?」

 当然のことを疑念に思う少年の言葉に、マリアンヌは複雑な気持ちになる。

 少年は自分の顔を見るのはこれが初めて。

 自分の顔であるにもかかわらず初対面なのだ。

 記憶を失うというのは、どのようなものなのだろうか。

 オットーと名付けた少年は、どのような表情をすればいいのか、どのように感じればいいのか分からないように、表情なくその顔を見つめていた。

「ええ、それがあなたの顔です」

 彼の記憶が、色素が欠落している少年の色のように、そのまま無色のままであることを願った。



「ふう」

 マリアンヌは嘆息して、ソファから立ち上がった。

 疲労も大分回復した。

 そろそろ行動を再開しなければならないだろう。

 最初に室内を調査して、これから先の脱出進行において特別有効な道具は発見できなかったが、それでも使えそうな物はテーブルの上に適当に並べて置いた。

 手斧とナイフ。

 道具を入れる為のポケットの多い作業用ジャケット。

 もっと動きやすい衣服が欲しかったが、この店では衣類は基本的に取り扱っていなかったらしい。

 仕方がないのでジャケットを淡い桃色のドレスの上に着る。

 そしてナイフをポケットの中に入れた。

 包丁は収める鞘がない為、持ち歩くと危険が伴うので止めて置く。

 夜の訪れや暗い場所の探索に供えて、ランプなどの光源も確保できれば良かったのだが、貯蔵されていた油壺の中身は、蒸発して空になっていた。

 ただでさえ魔王殿の空気は乾燥しているし、三百年間なのか三十年間か、どちらにせよそれだけ放置してあれば全部気化して当然だ。

 もっともその砂漠並みに低い湿度のおかげで金属類は殆ど錆に腐食されなかったようなのだが。

 オットーもジャケットを羽織った。

 東洋の民族服に似た簡易な衣服には似合わないが、自分よりはましだろう。

 救助が来てくれれば、こんな格好をする必要自体なかったのだが。

 どうして救助隊は来ないのだろう。

 まさか本当に途中で全滅してしまったのだろうか。

 もしかすると、一番考えたくない可能性だが、救出不可能と断じて見捨てられたのか。

 マリアンヌは悪い考えを振り払うように頭を振る。

 父王や母はそんな薄情な人ではないし、サリシュタール先生もいるのだ。

 なにより自分は王女だ。

 自国の王女を救出できないと他国に知られれば、王国の体面に関わる。

 外交政策にも影響がでる事柄なので、あらゆる手段を講ずる筈だ。

 自分の考えを否定し、肉体的な疲労は取れても、精神的な疲労は蓄積されたままなのを自覚した。

 だからこんな良くない考えまで浮かんでしまう。

 少年がジャケットを慣れない手付きで着用する様を見て、ふとマリアンヌは気が付いた。

「オットー、大きな黒い法衣を着ていませんでしたか?」

「ああ、あれ。動き難かったから脱いだんだ」

 オットーの何気ない答えに、冷たい感覚がマリアンヌの首筋に走った。

「……それは、どこに?」

「えっと……塔に置いてきたけど。良くなかった?」

「……」

 沈黙するマリアンヌの表情に変化は見られなかったが、機嫌の良い雰囲気は感じられなかった。

 拙いですわね。

 彼女は内心舌打ちする。

 もし魔物が脱ぎ捨てられた法衣を発見すれば、魔王の身になにか異常が起きたと考えるのが当然だ。

 もちろん捕らえていた筈の人間が居なくなっているのも判明する。

 だからといって戻って法衣を回収するなど論外だ。

「まあ、良いですわ。過ぎた事は仕方ありません」

 今まで気づかなかった自分にも原因がある。

「ごめん」

 消沈するオットーの頭を撫で、優しい声音で励ます。

「気にしないでください。気が付かなかった私にも責任はあります」

 それでオットーが立ち直ったのかどうか、その確認まではできなかった。

 魔物と遭遇したから。



 ビタッ、ビタッ、ビタッ……

 奇妙な音が外から微かに聞こえた。

 その音の明確な正体は分からなかったが、耳にした途端、戦慄が走り体は緊張する。

 魔王殿で音を出す者といえば魔物しかいない。

 ガラス窓に目を向けると、それはいた。

 外の壁に張り付いていた。

 隠密の黒装束を纏った猿に似た姿だった。

 窓ガラスを通して、張り付いた手の平側が見えた。掌に無数の吸盤と鉤状の棘が形成されており、それで壁に張り付くことが可能なようだ。

 手足を壁から剥がす独特の音が、心臓を刺激する。

 SAYaaaaa……

 猿忍者は一メートル近くある舌を伸ばし、奇怪な声を喉から鳴らした。

 オットーが悲鳴を上げそうになるが、自分で自分の口を塞いで辛うじて堪えた。

 マリアンヌも体が震えているのを自覚した。

 テーブルの上に置かれた手斧を意識する。

 伸ばせば届く距離だ。

 だが下手に動いて発見されるより、静かにしてやり過ごしたほうが良い。

 猿忍者は壁を張って真横に進んでいく。

 窓を過ぎて姿が見えなくなったが、壁から伝達する足音で位置が分かる。

 窓は二つ。次の窓ガラスを通過してくれればこの建物から離れる。

 屋内を覗き込まなければ大丈夫の筈だ。

 魔物がそんな行動を取らないことを祈った。

 だが王女の祈りが通じた例は一度としてなかった。

 猿忍者は窓ガラスから室内を覗き込んだ。

 瞳孔の細い爛々とした赤い瞳と、視線が重なった。

 マリアンヌはテーブルの手斧に慎重に手を伸ばし始めた。

 もし猿忍者が窓ガラスを突き破って襲撃を仕掛けて来れば、即座に手斧を投げ付ける。

 倒せないまでも、怯ませることぐらいの効果はあるだろう。

 そしてオットーを連れて全力で逃走する。

 問題は魔物が、記憶を失った魔王に対してどういう反応を示すかだ。

 もしかするとオットーの存在によって猿忍者は攻撃を加えることはないかもしれない。

 だがなんらかの接触を図るかもしれず、そうなると困ったことになる。

 記憶喪失が判明した場合、どういう事態が引き起こされるのか予想がつかないのだ。

 状況が好転してくれる方向に向かってくれれば嬉しいのだが、祈りが通じなかったことを考慮すると、それは期待できそうもない。

 そのオットーは今にも悲鳴を上げて泣きだしそうな表情だったが、声一つ挙げなかった。

 それは意志の力で堪えたのではなく、蛇に睨まれた蛙の如く、恐怖のあまり硬直していたからだった。

 しかしマリアンヌの行動に気が付いて慄然とする。

 彼女は手斧に慎重に手を伸ばしていた。

 戦う気なのだ。

 だが幾ら勇敢な王女でも、魔物を相手にして勝算はない。

 それは彼女自身、断言していたではないか。

 彼は心の中で必死になって叫び続けていた。

 向こうへ行って。

 どこかへ行って。

 まるで心の声が届いたように、猿忍者は視線を進行方向へ戻すと、再び壁を這って行き、姿を消した。

 たっぷり十回以上呼吸をしてから、マリアンヌは手斧を持って扉を開け、外を確認した。

 待ち伏せはなく、魔物の姿はどこにも見られなかった。

 屋内は暗く、外からだと見え難かったのだろう。

 ほとんど動かなかった自分たちは、陳列用の人形だと思われたのかもしれない。

 もう大丈夫だと分かったか、オットーは脱力して床に腰を落とした。

 室内に戻ったマリアンヌも力なくソファに倒れこんで嘆息した。

「助かりましたわ」

 ソファは埃の臭いがした。

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