11・かみ合わない心

「と、言うように、魔物とは実に恐ろしいものなのです。分かりましたか?」

 マリアンヌはオットーに一通りの説明をした。

「うん、なんとなく」

 本当に理解しているのか、多少疑問を感じる口調で、オットーは肯定の意を示した。

 幽閉の塔を脱出し、庭園を抜け出て、市街地の探索を始めた二人は、すぐに奇妙なことに気付いた。幽閉の塔最上階で監禁されていた時には、嫌になるほど多く見られた魔物の姿が、全く見られないのだ。

 それでも最初の頃は物陰に姿を隠しつつ移動していたのだが、あまりにも無駄な行動だという気がしてきて、半刻も経過した頃には止めてしまった。

 しかしただ歩き続けるというのは退屈だ。

 しかも風景観賞するにしても、魔王殿の景色はお世辞にも良いとは言えない。

 廃墟同然の街は、それなりの管理や手入れがされていれば観光遺跡として楽しめたかもしれないが、完全に放置されているようで、風化し荒れ果てている。

 魔物に手入れ好きな者はいないらしい。

 掃除をする魔物というのも滑稽で現実味がないが。

 そしてもう一つ奇妙なことに気がついた。

 魔王殿は確かに荒廃しているが、三百年前の戦いから放置されたままにしては、状態がまだ新しく、せいぜい三 四十年、放置された程度のようだ。

 もっとも自分は考古学者や建築家などの専門家ではないので、正確な計測分析はできないが、しかし幽閉の塔から見た時は、もっと崩壊した廃墟に近い状態見えていたような気がする。

 だが幾ら考えても観察しても結論はでない。

 そうして歩いているうちに、オットーは色々と質問をしてくるようになった。

 マリアンヌのこと、魔王殿のこと、魔物のこと、魔王のこと。

 迂闊に色々教えると、失われた記憶を喚起する危険があったが、しかし黙っていれば不審に思われる。

 結局当たり障りのない事柄だけを話した。

 元々マリアンヌ自身大した知識を持っているわけではないのだ。

 この程度で記憶が戻るのなら、それまでだ。

「じゃあ、結局魔王が元々人間だったってこと意外、どういう人なのか全然分かってないんだ」

(あなた自身のことなのですけどね)

 マリアンヌは内心皮肉を呟いた。

「ええ。魔王がどのようにして地獄とこちら側を繋げたのかも、なぜ世界を敵に回すに至ったのかも、一切不明です。光の戦士なら知っていたかもしれませんが、彼らは多くを語りませんでした」

「ふーん、なるほどねぇ」

 オットーは何事か考えている。

 先ほどまではマリアンヌ以上に恐々として、ほんの些細な出来事で腕にしがみついてくる臆病ぶりだったというのに、状況に慣れてくると色々考える余裕が出て来た様だ。

 しかし記憶が回復する傾向はなく、心配はなさそうな雰囲気ではある。油断はできないが。

 だが油断をしなければどうなるというのだろうか。

 どんなに手を尽くしても、彼の記憶は唐突に回復してしまうかもしれないのだ。

 必要以上に神経を使うのは無意味かもしれない。

 とにかく今は、記憶を失った魔王を連れて脱出することだけを考えよう。



 少し疲労を感じ始めるぐらい歩き続け、そこで休憩することにした。

 周囲を見渡して、目に留まった建物の中に入る。

 雑貨屋だ。

 扉を開けた時に、来客の訪れを知らせる鐘が軽く鳴った。

 雑然と置かれている売り物は埃を被り、食料品の類は干物と化している。

 食料として耐えられるのか確信が持てないが、挑戦するつもりはない。

 中は確かに老朽化してはいるが、

 やはり三百年前から放置されたままにしては、侵食や崩壊の進行度が遅く感じられる。

 そして注意して観察すると、ここにも生命の存在が見られないことに気づく。

 まず蜘蛛の巣がない。

 人の住まない木材の建築物なのだ、小動物や蟲類にとっては巣作りに最適だろう。

 ましてや魔物が放置していたのなら、駆除される危険もない筈だ。

 しかし蜘蛛の巣の痕跡もなく、つまり捕食する獲物が生息していないとことの証明であり、それに食品の類も乾燥してはいるが、腐食していないのは、微生物さえも存在していないのかもしれない。

 日用品の道具類はまだ使えそうな物が幾つか見られた。

 物色して武器になりそうな物を探すが、捜索の結果、発見したのは小さなナイフに包丁、手斧といった程度。

 魔物を相手にするには甚だ心許ない。

 銃器類が保管されていることを期待したが、一般人に取り扱い可能な銃の開発は、確か百年程前が始まりだ。

 三百年前の時代の店舗に在るわけがない。

「マリアンヌ、ここのソファ大丈夫だよ。ちょっと埃っぽいけど」

 建物内部を調査している間に、オットーが事前に休息が取れそうなソファを検査して勧めた。

 マリアンヌはオットーの言葉に従って埃が舞い上がらないように、慎重に腰掛けた。

 綿が敷き詰められたソファは、侵食する生命体が存在していなかったおかげか、遜色なくその機能を果たしていた。

 その程好い柔軟性が自覚していなかった疲労を自覚させてくれる。

 オットーは木製の小さな椅子を持って来た。

 マリアンヌは怪訝に思う。

「ちょっと待ってください。その椅子はなにに使いますの?」

「え? 僕が座るんだけど」

 答えを聞いても良く理解できなかった。

 ソファは三人ほど座れる十分な幅がある。

 側に座れば良いものを、なぜ寛げそうもない小さな椅子を使うのか。

「そんな粗末な椅子では逆に疲れますわ。私の隣にお座りなさい」

「え、でも」

 オットーはなぜか狼狽している。

 その理由もマリアンヌには分からなかった。

「なにか問題がありますの?」

「ううん」

 首を小刻みに振ってオットーは、結局マリアンヌの指示通りに隣に座った。しかし微妙な距離を置き、体は緊張していて、寛いでいるようには見えない。

 もしかするとオットーは自分を完全に信用しているわけではなく、警戒心を持っているのかもしれない。

 考えてみれば記憶のない彼にとって、自分は初対面の人間なのだ。

 少し利発であれば、注意を要するかどうかの判断はできるだろう。

 しかし会話の調子や、腕にしがみついてくるなどの行動からは、完全に信頼しているように思えたのだが。

 どちらにせよ、今の彼は自分を頼るしかない。

 少なくとも勝手に離脱するような行動は取らないだろう。

 マリアンヌはとにかく疲労回復に専念することにした。

 当面のパートナーの緊張を軽く解すのを忘れずに。

「もう少し体を楽にされればいかがです。そんなふうにしていると返って疲れますわよ」

「うん。でも魔物がいつ来るか分からないから」

 マリアンヌはようやくオットーの行動を理解した。

 オットーが警戒していたのは自分ではなく、魔物に対してだったのだ。

 他者を信頼できないとは、まるで自分のほうが性悪ではないか。

 マリアンヌは自己嫌悪を感じたが、すぐに撤回する。

 相手は魔王、信頼できないのが当然なのだ。

「大丈夫ですわよ。魔物に見つかれば私たちは敵いませんもの。ここは開き直って休むのが一番ですわ」

「そ、そうだね」

 マリアンヌの助言にオットーは少し体の力を抜いたようだったが、やはりどことなく緊張している。

 オットーはマリアンヌの視線に気付き、微笑んで少し首を傾げた。

 なにか彼女が言いたい事があるのだと解釈したらしい。

 気まずさを感じて、マリアンヌは視線を正面に戻した。

 オットーは肩透かしをかけられたような感じで、不思議そうな表情になる。

 なんともやり難い。

 記憶をなくしたからといって、ここまで人格が変化するものなのだろうか。

 マリアンヌはオットーが本質的に邪悪なのだと思っていた。

 それは記憶喪失程度で変化することはなく、小さなきっかけで悪の芽が見え隠れするに違いないと考えていた。

 そういう人間に対しては警戒が必要だ。

 意識的にしろ無意識にしろ、彼らは人の微細な弱点を見逃さず、あらゆる手段を講じて自分が優位に立とうとし、支配欲を満たそうとし、優越感に浸ろうとする。

 時には自分を卑下し人の罪悪感や保護欲を刺激して、逆意的な優位性を得ようとする者もいる。

 狡猾で我が儘な子供などがそうだろう。

 ましてや彼は魔王なのだ。

 一時は人類を絶滅の危機にまで追いやった。

 だが現在のところ、その兆候は見られない。

 強引に先導に立とうとすることもなければ、怯えて縋り付く出来事はあったが、変質的なまでに甘え切る事はない。

 本当にただの子供としか思えないのだ。

 臆病だが善良な普通の少年だ。

 勿論それは好都合なのだが、ここまで都合が良すぎると逆に不安になる。

 致命的な間違いを犯しているような気がしてくるのだ。騙しているという罪悪感まで生まれてしまう。

 だが、采は投げられたのだ。



 オットーはマリアンヌの存在を強く意識して、酷く緊張してしまう。

 彼女の側に居ると、心地よさと気恥ずかしさと、掴み所のない感情が綯交ぜになって、落ち着きをなくしてしまう。

 本当なら失った記憶を思い出す努力をしなければならないのに、重要であるはずのそれが些末な事柄のように思えてしまう。

 今も彼女の憂いを帯びた横顔に、気が付けば恍惚と見惚れていた。

 顔が赤くなるのを自覚したけれど抑制できない。

 不審に思ったのか、マリアンヌが見つめていた。

 なにか話したいことがあるのかもしれない。

 なんだか嬉しくて微笑で返す。

 けれど彼女はなにも言わず、すぐに目を外してしまった。

 少し寂しい。

 でも話しかけられればきっと舞い上がってしまうのが予想できた。

 彼女の挙動や言動の一つ一つに心が勝手に反応してしまう。

 どうしてそんなふうになるのか、オットーには自分が分からない。

 記憶喪失による自己の盤石を、知らずに自然と彼女に縋ってしまうっているのだろうか。

 だけどそれだけでは説明がつかないような気がする。

 ただ少年に明確に理解できるのは、なにも思い出せない不安が、彼女といることで感じなくなっていることだった。

 今はそれで満足し、深く考えるのは止めよう。

 魔王殿を脱出してから考えれば良い。

 ふとオットーは気が付いた。

「あ、マリアンヌ」

「なにか?」

「えっと、君は、王女様なんだよね」

「ええ」

 今更なにを言い出すのだろうかと、マリアンヌは首を傾げる。

「その、名前を呼び捨てにしたり、軽々しい話し方をしたら駄目なんだよね」

 今、側にいる人は、高貴なお方なのだ。

 こんな特殊な状況下でなければ一生会話を交わすことはなかった筈だ。

 それを気が付かなかったとはいえ、馴れ馴れしくするなど、許されることではないだろう。

 途端に怒ったようにマリアンヌの顔が強張った。

 やっぱり失礼だったんだと、飼い主に叱られるのを予期した子犬のような気分で叱責が飛んでくるのを覚悟するが、しかしマリアンヌはすぐに元の優しげな表情に戻り、気楽な調子で否定する。

「マリアンヌで良いですわ。友達は名前で呼び合う者です。念の為に付け加えておきますが、敬語も必要ありませんわ」

「あ、うん。ありがと」

 無礼な行いを咎められなかったことよりも、何気無く付加された言葉が嬉しくて、オットーの顔は輝いた。

 友達。

 それは万人にとって特別な人に称される言葉だ。

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