家出決行

 夜空には満月に近い月がかかり、静かに地上を照らしていた。

 その中を、足音を忍ばせて歩く人影が一つ。

 小さな かばんを持ち、ふわふわした淡い桃色の髪を夜風になびかせ、決然と歩む少女。


 こんな夜中に一人で外を歩いた事は無かった。


(家を出たいとは、今まで何度も思ったけど、とうとう本当に実行してしまったわ)


 夜道を急ぎ足で歩みつつ目指すのは、近くの修道院。




 誤解が解けるどころか、待っていたのは、最悪の結末。

 エルシーがブライアンと温室で会っていたという話が公爵の耳に入り、厳しく 詰問きつもんされることになった。


 幸か不幸か、手紙のことは知られていなかった。

 しかし、こうして非難を受けるということは、アイリーンが手紙を読まなかったか、読んでも信じてくれなかったかのどちらかだ。


  公爵との不愉快なやりとりは思い出したくもない。

 母の辛そうな顔が心に残って、エルシーを痛めつけた。

 手紙を渡しても何の意味も無かった以上、自分の行動は愚行以外の何物でもなかった。

 苦々しい気持ちで、エルシーは 公爵家を去る決意をした。


 修道院へ入れば、ブライアンと結婚するつもりが無いのはわかるだろう。

 何よりも、もうあの家にはいたくない。母のため、 男爵家のためと我慢してきたが、こうなればまともに結婚することもできず、家を自分の代で終わらせてしまうことになる。母にとっても、自分のような娘がいない方がよいだろう。




 翌朝、早速公爵家から使いがやってきて、家に戻るように要求してきた。

 もちろん、自分のためなどではないのはわかっている。公爵家の体面のためだろう。彼らにとっても、このまま修道院に入れておいた方がよいのではないか?

 エルシーは無言で聖書を読み続けていた。


 ノックの音がして、修道女が「貴女とぜひお話ししたいという方がお見えですよ」と告げた。

 仕方なくエルシーは了承したが、暗い気持ちで固い椅子に腰かけて待っていると、よく耳に馴染んだ声が聞こえてきた。

 小さな修道院の部屋に案内された人を見て、エルシーは目を見張った。


「お母様!!」


 修道女が出ていくと、母はエルシーをしっかりと抱擁した。


「貴女が悪いのではないことはわかっているわ。あの家では本当のことは何もわかってもらえないのよ。ごめんなさい、貴女を守れなくて」


 愛情に あふれた声に、自然と涙が流れた。

 エルシーが落ち着きを取り戻すまで、母は待ってくれていた。


「お母様、どうしてあの方と結婚したのですか?」


 父を亡くした後、母に求婚してきた人は他にもいた。 

 公爵家ほど大きな家でなくても、もっと幸福に暮らせる家はあったはずだ。

 母は落ち着いた声でゆっくりと言った。


「貴女を連れて来ていいと言ったのは、公爵様だけだったからですよ」

「…………」


 娘がいれば、結婚させるのに金がかかる。持参金の額が少なければ、結婚を申し込む貴公子も少なくなる。

 経済的に苦しい家は、娘を養女に出したり、修道院に入れたりして支出を防ぐ。

 実の娘でさえそうなのだから、義理の娘など引き取りたくないという貴族がいるのは当然の事だった。

 政略結婚の こまとして利用しようとする者はいたかもしれないが、再婚相手に選ぶ気は無かったのだろう。

 そのような親が選ぶ結婚の相手は大抵、金持ちの老人である。


「貴女を手放すことができなかったから、公爵家を選んだのだけど、かえって辛い思いをさせてしまったのね」

「いいえ、そういうことなら、これで良かったのよ。一人で他の家に行く方がずっと辛かったわ」


 他の家に引き取られても、大事にされる保証はない。そのくらいなら、母と一緒に暮らせただけでも良かったと思う。

 しかし、これからどうなるのだろう?

 公爵家の人々がエルシーを許すとは思えない。


「貴女が大人になれば、領地に戻って暮らすこともできるでしょうけど……」


 それまでの時を、あの家で過ごすのか。

 考えただけでも、エルシーはうんざりした。しかし……。


「お母様は、私に戻って欲しい?」

「えぇ、でも無理にとは言わないわ」


 エルシーは思案した。

 このまま修道女になるとしても、母のことが心残りだ。

 修道院に入るのは、いつでもできる。


「帰るわ」


 公爵家に戻ったエルシーは、その後部屋に閉じ込められたまま暮らすことになった。




 そして、アイリーンとブライアンの 婚約破棄が発表された。

 ブライアンは 侯爵家を勘当。辺境の小さな領地に送られた。

 その後、ロッドフォード帝国の皇帝コーネリアスとエインズワース公爵家の令嬢アイリーンの婚約が発表される。

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