いつ誰がその話を始めたのか、わからない。

 しかし気づいた時には、うわさはすっかり広まっていた。


 侯爵家の次男ブライアンと男爵令嬢エルシーの恋のうわさ

 婚約者を、義姉を裏切って相思相愛の仲となり、大胆にもアイリーンに対し婚約破棄を要求していると―――。

 社交界の人々は勿論アイリーンに深く同情し、婚約者と義妹に対して大いに憤慨ふんがいした。


 エルシーは何故、このようなうわさが広まったのかわからなかった。

 ブライアンと話をするのはいつも他の人がいるところであり、二人きりで会話をしたことなど一度も無かった。

 それでも、あらゆる人々が噂を事実と信じ、彼女の立場はますます悪いものとなった。




 公爵家と親しい貴族のお茶会でも、あちこちでエルシーとブライアンのうわさ話をする人々がいて、エルシーは肩身のせまい思いをしていた。

 うわさを知ってか知らずか、ブライアンはいつも通りの光り輝くような笑顔で話しかけてきた。

 それを見ていた紳士淑女しんししゅくじょ達がひそひそと語り合っている。


「やぁエルシー、元気が無いようだね」

「はい、お話しする余裕もございません。これで失礼致します」


 早々に会話を切り上げようとするエルシーをブライアンは引き留めた。


「どうしたんだい?何か嫌なことでもあった?」

「ブライアン様。あのうわさが耳に入らなかったのですか?」


 いつもより少し厳しい口調で話すエルシーに、ブライアンは笑って答えた。


「あぁ、全くの嘘なんだから、気にすることはないよ」


 ブライアンの無頓着な態度はエルシーの気に障った。


「誰も嘘とは思っておりません。こうしてお話しするのも今日限りです!」


 ブライアンを置いて歩み去ろうとしたが、エルシーは足を止めて尋ねた。


「お姉様とは、もうお話ししたのですか?」


 ブライアンが顔を曇らせた。


「それが、アイリーンが話を聞いてくれないんだ。だから、また相談に乗ってもらいたかったんだけど……」

うわさが収まるまで、わたくしとお話しするのは止めた方がよいでしょう。お姉様が誤解なさっておいでなら、その誤解を解くのが先ですわ」


 エルシーは考えて言った。


「直接お話できないのであれば、お手紙で本当のことをよく説明してください。誰か他の方と……ご両親にも一緒に書いて頂くとよいでしょう」

「わかった!早速手紙を書いてくるよ!ありがとう、エルシー!」


 ブライアンが張り切って走り去ったので、エルシーは思わず苦笑した。


(これで誤解が解けるといいのだけど……)




 それから数日後。

 うわさは収まるどころか、ますます広がっていった。夕食の席で、公爵はブライアンがわが家へ出入りするのを禁止すると宣言した。


「アイリーンへの手紙も突き返した。当分あの者と会う必要はない。良いな、アイリーン」


 父の言葉にアイリーンは動じる様子も見せず、淑女しゅくじょらしい落ち着きで返答した。


「はい、お父様。おおせのままに」

「お手紙くらいは読んであげてください、お姉様!」


 公爵はじろりとエルシーをにらみつけた。


「お前が口をはさむことではない。私は父として娘を守らねばならない」


 公爵のかたくなな口調に、エルシーは悟った。彼にとって「娘」はアイリーンただ一人。それは、この家に来た時から今までずっと変わらない。

 それどころか、自分はアイリーンに危害を加える「敵」と認識されている。


 ミュリエルが何か言いたそうな様子をしたが、すぐに口をつぐんでしまった。

 母の取り成しも、何の効果もないだろう。ますますエルシーの立場を悪くしてしまうだけだ。公爵と暮らした経験によって、それがミュリエルにはわかりすぎるほどよくわかっていた。




 暖かな午後の日差しに包まれた温室の中で、エルシーは一人花を眺めていた。

 今までと違い、いくら美しい花々を眺めていても、重く沈んだ心は少しも軽くならなかった。


 何故、このようなうわさが広まったのか?

 事実無根じじつむこんにも関わらず、誤解が解けないのは何故だろう?

 アイリーンもうわさを信じ、自分とブライアンに腹を立てているのだろうか。


 エルシーはうわさが広まり始めた頃から、アイリーンの態度が前にも増して冷たくなったことを感じていた。


(せめてお話しすることができればいいのに。これでは、誤解を解くこともできないわ)


「エルシー……」


 突然声を掛けられてエルシーは縮み上がった。

 花の向こう側に、ブライアンの申し訳なさそうな顔が見えた。


「ブライアン様!ここで何をしていらっしゃるのですか!?」


 こんなところを誰かに見られたらお終いである。エルシーはその後の修羅場を思い浮かべて震え上がった。


「いや、どうしても手紙を受け取ってもらえないから、エルシーの方から直接アイリーンに渡して欲しいと思ってね」

「難しいと思いますけど」


 ろくに話もできないのに、どうやって手紙を渡せというのか。確かに、ブライアン自身が渡すのは不可能に違いないが……。


「やっぱり、アイリーンが納得してくれないとどうにもならないし」

「…………」


 もうブライアンと義姉だけの問題ではない。うわさが嘘だと証明できなければ、エルシーの立場も無くなってしまう。

 これが最後の機会かもしれない。エルシーは手紙を受け取った。

 ブライアンは安心したようににっこり笑った。


「ありがとう!これできっと君は少しも悪くないってわかってもらえるよ!」

「それならいいのだけど…………」


 とにかく、アイリーンが味方になってくれれば誤解も解けるだろう。

 エルシーは手紙を隠して屋敷に戻った。




 かつて、アイリーンから声を掛けられた小部屋でねばること数時間。もちろん、ずっとその部屋にいたわけではなく、食事や勉強の合間に待機していた。一度、


(私は一体何をしているの) 


 と疑問を持ったりしたが、エルシーはねばり強く待つ。

 ようやくアイリーンが一人の時を捕らえ、部屋から飛び出した。


「お姉様!」


 驚いて声も出ないアイリーンに、エルシーは素早く要件を伝えた。


「ブライアン様からお姉様へお手紙です。もうこれが最後の機会です。読まなければ、ブライアン様とは終わりです」


 一息で伝えると、手紙をアイリーンの手に押し付けて、走り去った。

 廊下の角を曲がり、そっと義姉の様子を伺うと、じっと手紙を眺めて考え込んでいる様子。


 エルシーは、誰にも見つからないうちに部屋へ戻ろうと、速足で立ち去る。


(これ以上、私にできることはないわ。あぁ、お姉様、お手紙を読んでください!)


 後はいのるしかなかった。

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