久しぶりの帰郷

 春の陽光が降り注ぐ午後、エルシーは真新しい旅行着に身を包み、母と男爵領近くの親類をたずねて行った。

 久しぶりの母と二人だけの時間である。エルシーは一分一秒を楽しんだ。

 頭上には鳥が楽し気にさえずり、道には色とりどりの花が咲き乱れて、目を楽しませてくれた。




 親戚しんせき宅で一泊した後、母がエルシーに尋ねた。


「エルシー、前の家に行ってみたい?」

「行きたいわ!ずっとそう思ってたの!あぁ、お母様、行ってもいいの?」


 母は頷いた。


 馬車は男爵領へ向かい、懐かしい景色が見えるにつれ、エルシーは弾む心を抑えきれず、窓をのぞき込むのであった。

 今日は「お行儀良くしなさい」といさめる者もいない。


 馬車を降り、さび付いた門がきしみながら開くと、エルシーは真っすぐに小さな花に彩られた小道を走り、わが家へと向かった。

 背後の母が不安げな顔をしているのも気づかなかった。


 家の前に飛び出したエルシーは、息を整えるためしばらく立ち止まって休みを取った。

 顔を上げ、わが家に挨拶あいさつをしようとしたかの彼女の目に映ったのは…………。


 荒れ果て、伸び放題の草に囲まれた、古いつたに埋もれた屋敷。

 季節の花々が美しく咲いていた庭は、雑草におおわれて、かつて駆け回って遊んだ庭と同じものとは思えなかった。


 片隅に、小さな薔薇ばらの花が身をすくめるように咲いていた。

 エルシーの髪とよく似た色合いの淡いピンクの花は、エルシーの誕生日に贈り物として与えられたものだ。

 エルシーが自らの手で植え、毎日水を与えて育ててきた。

 エルシーはしゃがみ込んでその小さな花を眺めようとした。

 目の前がかすんで、あれほど見たいと思っていた花が見えない。


「エルシー……」


 母がゆっくりと歩いてきた。

 エルシーは、何を言えばいいのかわからなかった。


 鳥のさえずりは何も知らぬように相変わらず春の喜びを歌い、木の葉の風にそよぐ音が、二人の間を吹き抜けていった。




 やがてエルシーは立ち上がり、母の方を向いた。

 母は娘に手を差し伸べ、二人手をつないで家の外を回った。


 つたのからむ井戸。木々のまばらに生える果樹園。先祖たちが眠る墓所。

 エルシーは父の墓に先程の薔薇ばらを供えた。


「家に持って帰りましょうか」


 母の言葉にエルシーは頭を振った。


 自分の大事な薔薇ばらを公爵家の人々に見られたくなかった。

 広い庭園の立派な花と比べて馬鹿にするに違いない。

 そんな目にうのは自分だけで十分だ。


「私達はここで、とても幸せに暮らしたわね」


 母の優しい口調にエルシーは沈んだ声で答えた。


「えぇ、でももう二度とここには戻れないのね」

「いいえ、貴女が大人になれば……」


 母はふいに口をつぐんだ。


 子供時代の幸福な日々、それはもう決して戻ってくることはないのだ。

 例えもう一度ここで暮らす日が来ても、その時には何もかもが変わってしまっている。

 

 エルシーはその変化を感じ取っていた。

 彼女はもうここに来る前の無邪気な子供ではなくなっていた。

 かつては見られなかった厳粛げんしゅくな表情が、その目のうちに現れていた。


 もう一つの変化に気づいたのはそのためか。

 エルシーは母の手が、昔のように荒れておらず、なめらかに美しくなっているのに気づいた。


「お母様は幸せ?」

「えぇ……」


 エルシーの問いに母は穏やかな微笑で答えた。

 その笑みには、単純に「幸福」というにはあまりに複雑なものが含まれていたが、まだ彼女の娘はそれに気づくほど大人ではなかった。


「お義父とう様は、お母様の王子様なのね」


 母は笑った。

 エルシーは、勇敢に言った。


「それなら、私も頑張って立派な淑女しゅくじょになるわ」

「いずれ男爵家を守るのは、貴女の役目になるわ。貴女ならきっと立派にやっていけるでしょう」




 夕日に染まるかつてのわが家を離れて、母娘は歩み去った。

 エルシーは子供時代に別れを告げ、決意を新たに淑女しゅくじょへの道を歩み始めていた。

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