淑女教育の始まり

 いつも通り堅苦しい雰囲気の中で、息が詰まるような食事を終えた後、エルシーは自分の部屋でぐったりとしていた。


 食事の時間は当然のごとく、厳しいマナーを叩き込まれる時間だった。

 教育係の鋭い視線、公爵親子の軽蔑けいべつした態度、母の狼狽ろうばいする気配で生きた心地がしなかった。

 出される食事は皆上等な物だが、どんな味がしたかも覚えていない。

 だが男爵令嬢として、公爵の義理の娘としても、マナーを覚えて一人前の淑女しゅくじょにならなけれないけないのだ。


 エルシーは、男爵家でのくつろいだ食事の時間を懐かしく思い返した。

 料理は質素なものだが、暖かな雰囲気の中楽しく会話しながら食事を取る。

 食欲だけではなく、心まで満たされるようだった。




 公爵家へ来てもうすぐ一月。


 慣れない勉強と周囲の冷たい視線のため、エルシーは既に疲れ切っていた。

 元の気楽な生活が恋しかった。

 そんな彼女に、公爵家の人々は事あるごとに感謝の気持ちを要求した。


「貴女は旦那様にみじめな生活から救い出されて、分不相応な贅沢をさせて頂いているということに、感謝しなくてはいけませんよ」


 その厳格な教育係の背後には、侍女たちの冷たい視線がある。

 使用人らしく表面だけは丁重に振舞っていたが、その目が本心を語っていた。


「貴女とアイリーンお嬢様は違います」


 周囲がめそやすのも無理はなく、アイリーンは十三歳にして完璧かんぺき淑女しゅくじょだった。

 立ち居振る舞いには非の打ちどころがなく、淑女しゅくじょに必要な教養も既に身に備わっていた。

 同じ年頃のどの少女より優秀であると、大人達も皆アイリーンをたたえた。


 義姉の前に出ると、エルシーは気おくれがして、思うように振舞えなかった。

 アイリーンが冷ややかな態度で、義妹との間に壁を作っているのがよく分かっていた。




 彼女によく似た公爵家の最初の妻の肖像は、広間のよく目立つ場所にかかげられていた。

 冷たさを感じるほどに整った目鼻立ち、気品のあふれる仕草、豪奢ごうしゃな衣装にも負けない美貌びぼうの貴婦人。

 アイリーンの母について公爵家へ来た侍女がさげすむような目をしてエルシーに教えた。


「前の奥様は、非の打ちどころのない淑女しゅくじょだったのですよ」


 貴女の母と違って。

 と、内心付け加えたに違いないとエルシーは確信していた。

 母だって立派な淑女しゅくじょだと言いたかったが、そんなことを言っても鼻で笑われるだけだろう。




 世を去ってから何年も経つが、未だに屋敷中の人々が「前の奥様」を女神のようにあがたてまつっていた。

 そして、彼女に生き写しのアイリーンを大事にしていた……少々度を越す程に。


 アイリーンが父の再婚を不快に思っていて、母と自分を受け入れることができないのをエルシーは感じ取っていた。

 そして、使用人達もアイリーンのために、新しい夫人とその連れ子の娘を憎んでいることを。

 彼らの敵意はエルシーに集中した。


 母には公爵の庇護ひごがあった。公爵自ら母との再婚を望んだという。母の方には、公爵も気を使っていた。だが望んで再婚したからといって、その連れ子にまで愛情が向かうわけではない。

 新しい妻のため前夫の子であるエルシーを引き取ったものの、彼女をうとましく思っていたふしがある。エルシーが屋敷中で嫌われていても冷ややかに黙殺した。


 母は新しい公爵夫人として馴染もうとしている以上、いつもエルシーの味方をすることはできなかった。立場上、前妻の子を優先せざるを得なかった。


 彼らの前でエルシーを可愛がっても「母親のいない可哀想なお嬢様の前で酷い事を」という視線が飛んできた。使用人から、時には公爵からも。そうしたわけで、次第に人前で仲の良い様子を見せることはなくなった。

 仕方のないことだとわかっていても、エルシーには辛かった。


 何よりも辛いことは、思うように母に会えないことだった。

 母には公爵夫人としてしなければいけないことが、あまりにも多かった。


 夕暮れ時、義務や仕事から解放されて母と楽しく会話する時間は、エルシーにとって何より貴重な一時だった。

 赤みを帯びた日差しの中で庭をそぞろ歩きしたり、夕日の差し込む部屋の中で語り合う時、元の生活を取り戻したようで母娘とも心が和んだ。


 だが今夜は、母は他家の夜会に招かれていて不在だった。

 エルシーはぼんやり椅子に座ったまま、星空を眺めていた。

 一人きりになると、抑えきれない苦痛が心を占領する。




 公爵家に入りこんだ図々しい小娘。

 そのような視線を向けられるたび、エルシーは言いたくてたまらなかった。


(私だって、来たくて来たわけじゃないわ!)


 なぜ、ここの人々は昔の私達が不幸だったと決めつけているのだろう?

 エルシーは疑問だった。


 男爵領の人々の方が余程生き生きとしていて満ち足りた表情をしていた。

 公爵家の人は皆、いつも厳格げんかく強張こわばった顔をしている。

 無愛想な公爵の影響か、それとも自分にも人にも大変厳しかったと言われる前妻の影響か。


 早くここから逃げ出したいとエルシーは切望していた。

 大人になるまで、後何年もかかる。


 エルシーは溜息をついて、ベッドに潜り込んだ。

 はらいきれない憂鬱ゆううつを抱えながらも、厳しい淑女しゅくじょ教育の疲れでたちまちぐっすりと眠ってしまった。




 …………深夜。


 静かに扉が開き、夜会から戻った母が、エルシーのベッドに近づいた。

 エルシーに劣らず疲れた顔の母は、しばらく髪を撫でながら娘の寝顔を眺めた後、小さく呟く。


「ごめんなさい」


 そして、悲痛な声で祈りをささげる。


「神様、どうかこの子をお守りください」


 そっと足音を忍ばせて、母は部屋を出、静まり返った室内には、安らかな寝息だけが響いていた。


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