霧雨の森

 夜明け前に降り出した雨は、夜が明けても止まず、昼過ぎには濃い霧が漂い始めた。

 鬱蒼うっそうとした木々は、霧の中にたたずみ、涙のように雨のしずくこぼしていた。


「不気味な日ですね。幽霊でも出そうです」

「幽霊なら、外にいくらでもいるじゃない」


 ルビィの呟きに、ナナミは事も無げに答えた。

 この「死霊の森」は、亡者の彷徨さまよい歩く森として有名だった。


 窓からのぞけば、いくつもの人影がうろうろと暗い森を徘徊しているのが見える。

 その中に、生きている人間は一人もいないに違いない。


「ここには入れないから、安心ですね」

「幽霊よりも、生きてる人間に警戒しないと」


 「死霊の森」に逃げ込んだ聖女ナナミと小妖精ルビィ。彼女らが恐れるのは、生者だ。


「ここに逃げてから、もう一か月になるわ」


 ナナミは壁の印を見て言った。


「まだ安心はできませんね」

「見つからずに済むかしら」

「難しいでしょうけど……ここより安全な所はなさそうです。それに今、外へ出たら捕まる可能性が高いかと」


 ナナミは憂鬱ゆううつそうに降り続く雨を眺めた。

 窓ガラスに映るのは、赤みがかった金色の髪に緑の目、薄いピンクのドレスに身を包んだ美少女。


 フリルとリボンで飾られた新しいドレスが、可憐な容姿を引き立てていた。

 そんな衣装に身を包み、最初は機嫌良く過ごしてたナナミだが、窓の美少女を見つめているうち、落ち着かない気持ちを感じていた。


 ―――この姿は、偽物である。


 元の「聖女ナナミ」もまた、同じ。

 偽りの姿で手に入れた恋を失うのは、当然のことか。


「こうなったのは、当然かしらね」

「逆ハー詐欺にあってざまぁされることがですか」

「そこまでじゃないけど!元々違う人が聖女に選ばれていたのよね」


 ずっとナナミの心に残っていた疑問。最初に聖女になり、シナリオを途中まで進めていた少女がいる。

 まだ半分も進んでいなかったけれど、攻略対象も彼女を聖女として信頼し、協力していた。

 個別イベントでも、アルフレッドのイベントのみが進んだ状態。前の聖女は王太子に好意を持っていたのではないか。


「構いませんよ。まだはっきり恋愛と言えるような段階でもなかったし、途中でプレイヤーが変わったようなものです。シナリオから大きく逸脱しない限り、ヒロインとして扱われるのは当然です。元々デフォルトネーム(公式が決めたヒロインの名前。大抵は変更可能)も台詞も無く、性格も固定されていないヒロインですから、演じるべき人格もありません」

「そういうものかしら……」


 乙女ゲームに限らずゲームでは、プレイヤーができるだけ感情移入しやすいように、主人公の性格が完全に決められていないものも多い。

 優しいとか正義感が強いとか、シナリオから外れない程度の設定はあっても、選択肢によって行動的か慎重、強気か弱気など、性格に幅が出たりする。


「貴女は女神様自身が選んだ、本物の聖女なんです。それに、恋愛成就が世界を救う必須条件じゃないですか!乙女ゲですからね!!」


 得意顔でルビィはびしっと杖をかざした。

 小さな星が、キラキラ光っては消えていく。


 ナナミはルビィの話を聞いてからずっと、前の聖女の事が心に引っかかっていた。

 王太子ではなく別の人を選んだ方が良かったのかもしれない。

 好感度だけは十分あったが、エンディングまでたどり着くには、いくつものイベントをこなさなけれなならない。期間限定のイベントや前のイベントから一定期間を置かなければ発生しないイベントもあり、失敗する可能性のあるルートを選ぶのは危険だった。


 誰も攻略できなければ、世界が滅ぶバッドエンドか、現状維持のまま危機的状況が続くノーマルエンドになる。

 バッドエンドになれば、ヒロインも含めて全員死亡。

 ノーマルエンドの場合、攻略対象のうち誰かが必ず死亡する。その後ヒロインは世界を維持するために一生閉じこもって祈りを捧げることになる。

 ルビィの解説。


「死んだ攻略対象は、夜だけ幽霊になって会いに来ますよ」

「…………」


 そんな結末を避けることができて良かったとナナミは改めて思った。




 だが、やはり前の聖女のことが気にかかる。


「前の聖女には、女神様ができる限り補償ほしょうするとおっしゃってます。この世界の聖女には戻れませんから、他の乙女ゲーム世界への転移を勧めるか、便利スキル付きで異世界へ転送するとか」

「聖女になったら、他の世界へ行けないのではなかったの?」

「えぇ、聖女はこの世界の中心ですから、死ぬまで離れることはできません」


 ナナミは疑問を持った。


「この世界から離れることはできないのに、何故消えてしまったの?」

「女神様に聞いてきましたが、前の聖女は今現在この世界のどこにも存在しません。ですが、他の世界にいるわけではない」

「…………?」

「まだはっきりとはわかりません。女神様でさえ、『ナナミ』の行方はつかめないのです。しかし、まだ彼女との絆は切れていないとおっしゃっています」


 謎めいた話にナナミは頭を悩ませつつ、ルビィの話に耳を傾けていた。


「異世界から召喚された聖女も、普通の人間に戻れば帰ることができます。しかし帰りたいと言う人は一人もいませんでした。元の世界にいられない、帰る気も無い人が選ばれるのですから。この世界に居づらいのなら、他の世界で安楽に暮らしていけるように女神様が取り計らってくださいます」

「…………」


 ナナミは前の聖女の気持ちについて考えた。もし、戻って来ても他の者が自分の代わりに聖女として暮らしている様子を見るのは辛いだろう。「聖女の盾」の皆の気持ちが彼女の方に向いていないのなら、新しい世界でやり直した方が幸せかもしれない。王太子達は、今誰を想っているのだろう?


「乙女ゲーマーなら他にも好きなゲームがあって好きな攻略対象もいますからね。そもそも……」


 ルビィはナナミを真っすぐに見据えて言う。


「確実にハッピーエンドを見られるのは、王太子のルートだけだったから、仕方ありません。他のルートでは時間切れになる恐れがありましたので」

「どうしても気になるのよ。王太子殿下から見たら、私は偽物じゃないかって」


 ナナミは考えた。

 前の聖女が消えたからといって、攻略対象達に真相を話すことなく聖女に成り代わったのは、やはり良くないことであろう。


 そんな自分にアルフレッドは最後まで誠実であろうとしていた。

 他の四人もできるだけ、自分を傷つけないように配慮していた。

 冷静に話し合うことができていたら、何も悪いことは起きなかったかもしれない


 でも、それならなぜ女神は「逃げろ」と警告したのか。


「既に世界は狂い始めています。敵がどんな手段でヒロインを排除しようとしているのかわかりません。警戒しすぎるということはないでしょう」


 それでも、ナナミには王太子達が悪意で自分をほうむり去ろうとしていたとは思えなかった。


「私は、殿下に謝らなくてはならないわ」

「……大丈夫ですかね」


 ルビィは急に真剣な表情で尋ねてきた。


「聞きたいのですが、ナナミは……いえ、貴女はまだ、王太子の事が好きですか?」

「え…………」


 自主的に選んだわけではなく、必然的に「攻略」することになった相手。

 強制的なものでも、恋をしたのは本当だ。でなければ、ハッピーエンドにはならない。

 突然の心変わりに傷つけられたけれど、彼自身が悪いのではない。


「もし、王太子が復縁を願っていたら、どうしますか?」

「アルフレッド様のお気持ちが変わってしまったのなら、断るけど……」


 義務感で結婚しても、二人共不幸になる。

 王太子に相応ふさわしい相手なら、聖女の他にいくらでもいるはずだ。


「だけど、もし……」


 ただの義務でなかったら?


(戻れるものなら……)


 楽しかったあの頃に戻りたい。

 アルフレッドの気持ちが変わらないのなら、きっと―――。


「断れないでしょうね」


 ナナミは苦笑する。だが、すぐに表情を引き締めた。


「でも、きっとそんなことは起きないでしょう」

「はい。すみません、こんなことを聞いて」


 珍しくしおらしい態度のルビィに笑顔を見せ、ナナミは、


「もう、ゲームは終わったのね。しばらくの間、楽しい思いができたのだから、もう現実に戻らないと」

「乙女ゲームは終わりました。ですが……」


 二人は気づいた。

 家を取り囲むように複数の人の気配がする。


「これから始まるのは、どんな物語なのでしょう」


 控え目なノックの音が響く。

 ナナミは足音を忍ばせ、ドアの前に立つ。ルビィは姿を消した。


 ナナミはゆっくりと扉を開く。


(もう戻れない)


 優しい乙女ゲームの世界は既に過去のものとなった。

 追憶を振り払うようにナナミは扉の向こうを見据みすええた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る