竜の宴
「
誰かが呆然と呟いた。あまりの衝撃に、時間でさえ沈黙してしまったかのように全員動けない。そんな事を竜が気にするはずもなく、黒竜は首を擡げるやいなや、その口を大きく開いた。その喉の奥に巨大な魔方陣が瞬いた瞬間、俺は必死で魔法を発動する。
「
間一髪で空中に発動した魔法は青い爆風を産み、俺たちの軽い身体を瞬時に吹き飛ばした。それとほぼ同時に、黒竜の放った魔法が先程まで俺たちが立っていた場所で荒れ狂う。俺の魔法などとは比にならない轟音が耳を激しく打った。次いで、ただの余波に過ぎないにも関わらず、骨の芯まで凍えるような冷気が背中を撫でていく。
「ぐっ……!」
地面に激突する寸前になんとか受身を取るものの、背骨にひびくらいは入ったかもしれない。不意に爆風を食らった他の三人はもっと酷いことになっているだろうが──────
「……ッ!?」
立ち上がった俺は息を呑んだ。黒龍の魔法が抉った地面は大穴が開いていた。その破壊力も然ることながら、その地面の表面には分厚い氷が貼っていたのだ。一体どれほどの冷気だったというのか。少なくとも、ケット・シーにはこれ程の力を持つ者はいない。あれを食らったら最後、あっという間に氷柱へと変えられてしまうのは明らかだ。
攻撃を外した竜は、苛立ったように唸り声を上げると再度顎を持ち上げた。その血のような色の瞳は俺たちではなく、後方を見据えている。何をする気か、と身構えた瞬間、ウェルデンが叫ぶ。
「出口を塞ぐ気だ!」
意味を理解して血の気が引いた。俺たちが逃げるためには先程入ってきた所を通るか、巨大水晶の奥にある通路を通るしかない。が、進行方向には黒竜が陣取っており、そうやすやすと通らせてくれるとは到底思えない。つまり、今出口を塞がれれば……逃げられなくなる。
『スカーレット!』
呼びかけると、彼女は珍しく俺の意図を察し、無言で術式を組み立てる。俺も
「
炎剣が俺を灼かんとばかりに強い光を放つ。蒼炎が凄まじい速度で黒竜に向かって飛翔していき……竜の魔法と真っ向からぶつかり、衝撃音を立てて激しい水蒸気が立ち上った。両者の力は一瞬拮抗したように見えたが─────それは一瞬だけだった。
炎鳥はあっさりと絶対零度に喰い破られ、空に霧散する。多少勢いが落ちた黒竜の魔法は、それでも圧倒的な力で出口の通路上部の壁を崩落させた。その衝撃に迷宮全体が揺れる。粉塵に紛れて、俺は急いで仲間のもとへ走った。
「どうしよう、出口が……」
「……あの竜には敵わない。こうなったら、なんとかして向こうの通路に飛び込むしかない」
俺の言葉に頷いたアルフェは歌い始めた。身体の動きを何倍にも速くする「氷歌」だ。走り出しながら、シルヴィアも祈りを捧げる。
「
ずがん!と俺のすぐ側の地面が深く抉られるのを見てゾッとする。竜の動きは予想外に素早いが、その巨体からか自分の体の近くには狙いをつけられないらしい。このまま上手くいってくれ、と俺は願うが、そんなに甘くはなかった。黒竜は大きすぎる翼を持ち上げる。それだけで風圧が起こるような有様だが、問題はそれではなかった。竜が唸ると魔法陣がぐるぐると回転し出し、翼の裏にびっしりと生える長く鋭い棘が輝き始める。俺は咄嗟に一番近くにいたアルフェを庇うと、またしても空中に向かって魔法を放った。
「
直後、一斉に棘が放たれ、翼の下にいる俺たちを串刺しにせんと殺到する。蒼風は真上の棘達を吹き散らすものの、全ては防げない。何本かは到達したが、シルヴィアの作った防壁に阻まれて俺たちまでは届かなかった。
「ありがとう!」
アルフェは短く俺に礼を告げると、また走り出した。彼女の歌の効力が切れる前に向こうまで辿り着けなければ死ぬしかない。俺も走りながら他の二人はどうなったかと見渡すと、二人は運良く翼の下には居なかったらしく難を逃れていた。胸を撫で下ろした瞬間、
翼を振り下ろした黒竜が三度目の咆哮を上げた。が、それは今までのものとは格が違った。視界がぐるぐると回りだす。
「あ、ぐ──っ!?」
それはもはや音とは言えなかった。自分の咆哮を媒体に魔法を発動したのだろう、暴力的なまでの純粋な力が俺の身体中を蹂躙し、内蔵がぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような感覚が襲う。口から血が吹き出る。耳鳴りが止まらない。気づけば地面に倒れ込んでいた。立ち上がれ、と脳は必死に命令を送るのだが、平衡感覚が失われた身体はぴくりとも動いてくれない。辛うじて目だけを動かして黒竜を見ると、竜の真下の地面で今までとは一線を画す大きさの暗い光輪が集っている。あのような大魔法を食らえば命はないだろう。しかし身体は逃げるどころか、時間が経つにつれて意識が希薄になっていくような気さえする。
ああ、死ぬのだ。俺は不意にそう思った。不思議と何も感じなかった。もうどうしようも無いからかもしれない。きっとこれを絶望と呼ぶのだろう。そんな事よりも眠かった。じわじわとせり上がってくる眠気にも似た終末が、俺の脳を支配していく。黒竜の魔法か、恐ろしいほどの冷気が周囲に降りてくる。目を閉じようとした時──────衝撃と暴風が、辺りを満たした。俺は最後の力を振り絞って目を開ける。風は一直線に黒竜へと向かって突っ込んでいく。
衝突は計画的だった。黒竜の翼に直撃した物体は、体勢を崩すような事はせずにその首に向かって
「なにが……」
起こってるんだ、と思わず呟いて、俺は聴力が回復しつつあるのに気がついた。耳を澄ますと、僅かにアルフェの掠れてはいるが美しい歌が聞こえてくる。
「ぐ……うッ」
立ち上がろうとすると鋭い痛みが走るが、それでもかなり苦痛が和らいでいる。心の中でアルフェに感謝しつつ、争う竜たちに視線を戻す。白銀の竜も傷を負っているものの、初手で翼をへし折られた黒竜が劣勢のようだ。半ば麻痺した耳に、ひっきりなしに衝撃音や、二頭が唸る声が聞こえてくる。そもそも、白銀の竜が勝利したとして、俺たちはどうなるのだろうか?敵の敵が味方であるとは限らない。今のうちに逃げた方がいいのではないだろうか。そう思って口を開こうとした瞬間だった。後ろから強烈な光が差し込む。思わず振り返ると─────巨大な氷水晶が眩いまでの光を放っていた。俺は気づく。その中心に何かが埋まっていることに。
あれは……本?
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