ヤージュダーク

「偽典……?」


 先程から聞き返すだけになってしまっているが、これはもう仕方がない。俺は普通四家の者なら知っていてしかるべきことを教えて貰っていないので、知らないことが多いのだ。


 ウェルデンはそんな俺に苛立つ様子も見せずに頷いた。


「偽典はね……平たく言うと、異端の書なんだよ。ラングレイズ家は、偽典の存在を知られないように、間違っても外に持ち出されないように、封印する役目を担ってるんだ。君も原典の危険さは知ってるよね?」


「ああ。確か、最初に書かれた各聖典の原本……原典はそれ自体が魔導書で危険だって話だよな?」


「そうそう。聖氷教の聖典は全部で十六巻……偽典の『ヤージュダーク』はね、聖典の十七巻目なんだよ」


 存在しないはずの、聖典の十七巻目。確かに、これが外に漏れれば大混乱を引き起こすだろう。特に、民衆にバレれば聖氷教そのものが揺らぎかねない……が。


「その……ヤージュダークには、一体何が書いてあるんだ?」


 聖氷教の司祭共にとって、聖典は非常に重要な────尊いものであるはず。奴らが聖氷教で伝わることについて、異論を示す所か疑問を持つことですら見たことがない。それ程の狂信者たちが偽典と、偽物の聖典と見なすほどの内容とは……?


 ウェルデンは更に声を潜めて、静かに囁いた。


「異教徒との共存」


「は?」


「内容と場所を探る途中で捕まっちゃったから、確かなことは言えないんだけどね。どうやら、ヤージュダークは共存と寛容について書いてあるみたいなんだ」


 思わず大爆笑しそうになった。偽典の内容にではない。聖氷教に対してである。共存と寛容、誠に結構ではないか。何が不満だというのだろうか?確かに共存は難しい。寛容になることは大変だろう。それを一概に良い、悪いと語ることは出来ない────少なくとも俺には。


 しかし、戦争をする事は良いのか、悪いのかと聞かれれば、悪い以外の選択肢はないだろう。ケット・シーは死ぬし、金はかかる。生活は苦しくなる。まあ一部の層は得をするかもしれないが、戦争に負けたらどうするつもりなのだろうか。その争いを無くそう、という至極真っ当な内容の書を偽典に認定し、隠す。あまりに馬鹿馬鹿しくて内心の笑いが止まらない。まさに狂信者。狂った信仰。


 俯いて肩を震わせている俺を流石に不自然に思ったのか、ウェルデンは怪訝そうにこちらを見つめた。


「……どうしたの?」


「いや、何でもない……それで、ウェルデンはどうして偽典について調べていたんだ?こうなることは分かっていただろう?」


 ウェルデンの表情が急に硬くなった。


「こんな事を言ったら変に思われるかもしれないけど……ねえエルラーン、君はおかしいと思ったことはないかい?」


「……何を?」


「全部。この国の全部。聖氷教の全部……迫害、差別……別にサラマンダーたちと争わなくたっていいじゃないか。他のモノを見下して、踏みつけたがるのはどうしてなんだろう……」


 その言葉に思わず笑みが零れた。自分の言葉を笑われたと思ったウェルデンがムッとした表情になる。俺は慌てて弁明した。


「違う、お前を笑ったわけじゃない!ただ、こいつと同じ事を言ってたから……」


 視線の先には、未だに目覚めないアルフェ。先を辿ったウェルデンが複雑な顔になる。


「そっか……僕だけじゃなかったんだね。僕が偽典を調べてたのはね、真実を知りたかったから。僕はただ、真実を知りたいだけなんだ」


「真実、か……」


 真実を知ることは、正しいことを知ることは、決して幸福なことではない。俺はそう思う。真実を知った時、真っ直ぐ立っていられるのはアルフェやウェルデンのような、強いものたちだけで……世界の大部分のいきものは、弱くて弱くて、きっと真実の苦しさには耐えられない。そしてきっと、俺もそちらの側なのだ。


 そしてウェルデンは、硬い表情のまま、更なる言葉を紡いだ。


「君はさ、デウス・エクス・マキナの契約者を狩る特殊部隊に所属してるんだよね?」


「そうだけど……」


 ウェルデンがそれを知っていることには驚いたが、軍に関わっていなくとも四家の者なら知っていてもおかしくない。それにしても、質問の意図が見えてこない。


 彼は次へと言葉を続けるわけでもなく、何故か上の服の裾を少しだけ捲った。反射的に目に飛び込んできたのは……白い傷の跡が無数に残る脇腹に刻まれた、何かの美しい花を象った紋様だった。


 普通のケット・シーが見ても何を意味するのか分からないだろうが、俺にははっきりと分かってしまう。これは、デウス・エクス・マキナとの契約の証だ。俺も模様は違うが、鎖骨の辺りに刻まれている。つまり、ウェルデンは、契約者。


「……ッ!」


 そのことが完全に理解出来た俺の頭の中には、真っ先に少し前の呪詛が蘇った。


 ────この、同族ケット・シー殺し。


 ぞっ!と肌という肌が粟立つような、凄まじい悪寒が身体に走った。怒りや憎しみではなく、紛れもない恐怖で俺は後ずさる。その仕草を見たウェルデンは、憤慨する訳でもなくただ顔を苦しそうに歪めた。


「信用されないのは分かってる。でも……協力してくれないかい? 僕はここで死ねない。死ぬわけにはいかないんだ────一緒に、ここから逃げよう」





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