絶対的正義

 異端告発とは、その名の通り「異端」としてケット・シーを処刑する前に行われるものである。もちろん、ただのケット・シーを告発する事は出来ない。その基準は曖昧だが。異端告発には一人の聖氷教に仕える司祭が必要で……目前のレイモンドは、どうやら自分を選んだらしい。


 なぜ私を選んだのか、そもそもレイモンドがエルラーンを告発する経緯など、分からないことが多すぎて困惑を隠しきれない。ちらりと顔色を窺う。


 最高級の椅子に腰掛ける彼の表情は読めない。しかしその視線はしっかりと私に注がれている。こちらの返答を待っているのだ。


 しかし、すぐに答えを口にするのを躊躇ってしまう。もちろんここは即答すべき場面だろう。エルラーンを告発すれば、まず間違いなく異端審問にかけられ、そこまで行ってしまえば、ほぼ確実に処刑が決まる。私は今は一介の司祭であるものの、司教への道も近い。信用されている自信がある。


 つまり私は……奴が処刑されることが嫌なのか?だから迷っているのか?


 冗談じゃない。思わず誰の前であるかも忘れて唇を噛みそうになる。さあすぐに返事をするんだ。たった一言。「はい」と、それだけで聖氷教に背く輩が一人消える。なんと喜ばしいことなのだろう。


 しかし身体がついて行かない。どうしても口が開かない。何も言わない、いや言えない私にレイモンドは薄い笑みを向ける。


「どうしたクライオジュニク。何を迷うことがある?」


 そうだ。何もかも彼の言う通り。何を迷うことがあると言うのだろう。それを頭では理解しているのに、口は勝手に言葉を紡ぐ。


「あの……一つよろしいでしょうか」


 レイモンドは答える代わりに、先を促すように尾を揺らした。私はまるで意味のない問いを投げる。


「なぜ彼を告発しようと……? 彼が何か聖氷教に背くようなことをしたのでしょうか?」


 ぞっとするような冷酷な視線が向けられる。


「愚問だな」


 全ての光を冷たく跳ね返す鏡の瞳が私と視線を合わせ、そこでようやく気づく。これではまるで、エルラーンを庇っているかのようだ。


「奴は存在自体が聖氷教に反しているではないか。奴はケット・シーとは呼べない。まあ、どちらかと言えば長耳どもに近いな」


 彼は薄笑いを貼り付けて囁く。


「シルヴィア。躊躇うことは無い。君の正義を、聖氷教の正義を、」


「証明したくはないかね?」


 私の正義を、証明する。


 その言葉は甘い蜜のような響きを纏って私の脳を揺らし、気づけば私はゆっくりと頭を上下に動かして、


 確かに頷いた。


 ◇◇◇


 たまたま任務に赴いていたイヴェルアでレイモンドに呼び出されたあと、一体どうやってアナスタシアまで帰ったのか覚えていなかった。


 それなりの道のりがあるはずなのに、私はずっとぼんやりと歩いていたらしい。どうにもすっきりしない、その理由は分かりきっている。未だに考えているのだ。本当に正しかったのかと。


 馬鹿なことを考えている自覚はある。私は異端告発を自分の利益のために使ったことはない。いつもトワイライトファーレンのことだけを考えていて、だから私は正しいはずなのだ。本来なら聖氷教に背くケット・シーが一人消える喜びで、足取り軽く雪を踏めるはずなのに。


 私は、正しい。


 何回目になるのか、そう自分に言い聞かせる。深く俯いたままふらふらと道を歩いた。外はもう真っ暗で、街灯のぼんやりとした灯りが道を淡く照らしている。昼から降り出した雪は重くて冷たい。


 報告だけして隊舎に帰り、全部眠って忘れたい。なぜかとても疲れている。隊長は起きているだろうか。あの人はいつも遅くまで働いているから、今日も起きているに違いない……


 大分回転の鈍くなった頭でそんなことを考えながら

 三階にある隊室の扉を開ける。一応魔道具である電灯が、少々頼りない光を散らしていた。まだ隊員は残っているようだ。重い扉を閉めつつ振り返った瞬間、


 全ての思考は飛び去っていった。


 部屋の隅の方に置かれた長椅子で、ひどく苦しそうにエルラーンが眠っている。乏しい光の中でもはっきりと分かる顔色の青白さ、小刻みに震える身体。自らを抱き抱えるようにして縮こまりながら、浅くて早い呼吸を繰り返す。


 大丈夫か。もしくは、可哀想。起こしてあげようか。そんな感情を、常の私なら抱けたはずだ。


 ここで苦しんでいるのがエルラーンでなければ。


 頭が真っ白になる、というのはこの事を言うのだろう。何も考えられない。正確に言えば、何を思えばいいのか分からない。ただ使い物にならない頭はどうしよう、どうすればをループする。


「ぅ……ぁ……」


 不意に彼が微かに呻き声を上げて、私は心臓が口から飛び出そうになった。ありえないほど緊張している、何に対して?どうやらエルラーンはまだ目覚めていないようで、何故かほっとした。


 どうにもならない思考はとりあえず、無難な所に着地した。隊室で寝るんじゃないと起こせばいいのだ……私のいつもの調子で。


 今から起こそうというのに、無意識に足音を忍ばせながら椅子に近寄って手を伸ばそうとすると、不意に空気が揺らぐような感覚に襲われる。氷力マナの気配、と同時に声が降る。


『起こしちゃダメだよ』


 いつの間にか空中には、無邪気な、同時に妖艶な美貌を持った紅い女が浮いていた。まさかこいつは。


「デウス・エクス・マキナ……!」


 唸るように言った私を気にすることもなく、恐らくエルラーンのデウス・エクス・マキナだろう彼女は愉しそうに笑った。


『私はデウス・エクス・マキナって名前じゃないよ。ちゃーんとスカーレットって名前があるんだけど』


 その言葉は無視して、顔を顰める。


「起こしちゃダメってどういうことです?」


『本当に起こすつもりだったのシルヴィアちゃん? 聖氷教に背くものがいくら苦しもうと知ったこっちゃない……むしろ万々歳じゃないのかなぁ?』


「っ……!」


 ぐさりと痛いところを突かれて反論の言葉を紡げなくなる。さっきからいつもの調子が取り戻せない。そもそもどうしてエルラーンを起こそうとしたのかも分からない。自分の事であるのに、分からない。無言で睨みつける私を意に介さず、スカーレットは続けた。


『で、なんで起こしちゃいけないのかだっけ? それはね、今払ってもらってるからだよ』


「払う……?」


 相変わらず魘され続けるエルラーンに起きる気配はない。スカーレットはちらりとそちらを見てから私に答える。


『そうだよ。払ってもらってるの、力の代償を』


「代償……何の……」


『意外と鈍いねシルヴィアちゃん。私たちデウス・エクス・マキナと契約するのに、なんの対価もいらないと思ってたの?』


 ついに私は黙り込んだ。ぐるぐると頭の中が混乱で渦巻く。代償。対価。デウス・エクス・マキナの力を使うには、何かを差し出さなければいけない。


 おかしい。


 私はそう胸中で呟くしかなかった。別におかしい所などどこにもない。しかしスカーレットの言葉は私をばらばらにして余りあるものだった。


 だって、エルラーンはなんの努力もせずにデウス・エクス・マキナの力を手に入れた「はず」なのだ。少なくとも私の中ではそういう事になっている。いや、そうでなければならない。でなければ私はどうなってしまうのだ。


 大丈夫。代償がどうであろうとも、エルラーンの瞳の色が琥珀で、彼の魔法が炎であることに代わりはない。だから異端告発は正しい。私のしたことは正しい。正しい。正しい……!


 必死に言い聞かせる私に構わずスカーレットの言葉は続く。やめろ。黙れ。これ以上何も聞きたくない!そう叫びたいのに声が出ない。


『私が貰うのは大切な記憶。私と契約したケット・シーは悪夢の中でひとつづつ記憶を失うの。昔契約したケット・シーからは戦死した恋人の記憶を貰ったんだけどね、一年半くらいで狂って死んじゃったねぇ』


「この外道ッ……!」


 押し殺した叫びにもスカーレットは嗤うばかりだった。


『だからさぁ、なんで怒ってんのシルヴィアちゃん? 別にエルラーンがどうなろうと……それこそ死のうときみには関係ないじゃない。むしろ喜んで然るべきじゃないかなぁ。それともほんとは死んで欲しくない? 傷ついて欲しくない?』


「黙れっ!」


 私はついに激情が抑えられなくなり、スカーレットに掴みかかった。実体がないのだからそんな事をしたって意味はない。しかしもう我慢の限界だった。今すぐにこいつの口を閉じさせたかった。


 スカーレットは揶揄うように手をするりとかわした後、姿を消した。眠り続けるエルラーンがまた呻く。


 ここにずっといる訳にもいかないし、だからといってどうすればいいかも分からない。とりあえずこの部屋から出たい。このまま彼と同じ空間に居続けるのは余りにも苦痛だった。ようやく行動方針が固まった所で扉に向き直ろうとした時────


 彼の薄く開いた唇から絞り出されるように、うわ言が流れた。


「……ごめ……な、さ……」


 びく、と身体が固まった。今、なんて……?首さえ動かすことができない。震えるようにもう一度。


「……ぅ……ごめ、なさ、い……」


 居てもたってもいられなくて走り出した。扉を乱暴に開ける、ばたん!と勢いよく音を立てるが気にすることもできない。


 人目も気にせず廊下を全力で走る。何かから逃げたかった。迷いたくない。私の選んだ道を後悔したくない。罪の意識に囚われたくない。


 私は、私は……本当に正しかったのか?


 もはや自分に言い聞かせることさえできなくなっていた。大した距離でもないのに冷たい汗が吹き出ていて、息の乱れを抑えられない。柱に寄りかかって外の景色を見る。


 雪はまだ止みそうになかった。
















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