4. A priori
ㅤお腹を空かせた二人は、マンションではなくダイナーへと向かっていた。
「で、あなた、名前は?」
「──イレアよ」
ㅤそれが彼女の名らしい。
ㅤイレアにも名を聞かれたので、仕方なくユークと一言だけ答えた。
ㅤ扉を開くと、早朝の耳に優しい洋楽が流れていた。客はまばらで、ボックス席が点々と空いている。心地の良い朝を感じた。
ㅤ席に座って、注文をし、料理を待つ。
ㅤその間に、ユークはソルテへの弁解を考えていた。
ㅤすぐに運ばれてきたサンドイッチをユークとイレアは黙々と食する。
ㅤそんな中、店主がおもむろに点けたラジオから、昨夜の騒動の報道を耳にした。
「これって私たち……」
「ですねぇ」
ㅤ
ㅤ顔を見合わせた二人は、ともに笑ってしまった。
ㅤ彼らは沸点において、気が合うのだった。周囲の客たちも思い思いに朝を過しているため、彼らが目立つようなことはなかった。
ㅤ
「これからどうするつもり?ㅤ僕のところはあれなんだけど」
ㅤあれとは、と訝しげな彼女に、ユークは説明を試みる。
「いや、魔窟ですから」
ㅤあぁ、とイレアは納得したようだった。
ㅤ吸血鬼にとって、住処が人間にバレることは社会的な死に繋がる。自分たちの身を隠すため、吸血鬼たちは集団で生活し、ハンターに警戒されれば皆が皆散り散りとなって真夜中に街を転々とするのだ。
ㅤしかし、現代では街には多くの監視カメラが配置され、一度吸血鬼と疑われた者は他所の街へ行こうがハンターに殺される。そのため、現代の吸血鬼はコネクションを明日の血よりも重視している。
ㅤとはいえ、今ではユークがその災難をマンションにいる吸血鬼たちに持ち込もうとしている。仮にそうするのであれば、あそこから脱する覚悟をする必要があるだろう。
ㅤそのように思考を巡らせていると、どうしてこうなることがわかっていたのにも関わらず、イレアを助けたのか、ユークには己の矛盾を感じざるを得ないのだった。
ㅤふとユークの頭に、その昔吸血鬼の女に救われたことがよぎる。
──関係のないことだ。
ㅤされども、決断は定まらない。
ㅤ
「イレア、君自身はどうしたいのさ」
ㅤ意見を訊かれるとは思っていなかったのか、彼女はびくっとユークの方に目を向けた。
ㅤユークは、彼女の事情を一切知らない。その方が、お互いに楽だと思うから。
ㅤ当の彼女は、額にしわを寄せながら目を瞑り考え込む。
「どうしたいかは、わからない。けど、ユーク、あなたに着いていくのが一番手っ取り早くて楽そう」
ㅤあなたは、もうそれを見込んでそうだから、と彼女は微笑んだ。
ㅤユーク自身、それは思いもよらないことだった。
ㅤなぜ、──現代の吸血鬼は、己の利益集団から抜けてしまえば、他所の街では暮らせもしない生物なのに──自分に不利な物事を、当然のように心の中で引き受けているのか。
「──なら、決まりだね。さぁ、さっさと食べてしまおう」
ㅤ形容し難い蟠りを、ユークはサンドイッチとともに飲み込んだ。
ㅤ二人は、ユークの住まうマンションの元にたどり着いた。彼は、イレアにそこで待っているようにと言い残し、ひとりマンションの中へと入っていった。
ㅤ自室の向かうまでもなく、ソルテは壁に寄りかかってユークを待っていた。
「お前みたいなやつが、まさか仕出かすとはなぁ。発狂したとしか思えない」
「ソルテたちに迷惑をかけるつもりはないよ。すぐに、ここを出る」
「当然だ。ささっと失せろ」
ㅤソルテはユークを横目で睨みつつ、普段のように舌打ちする。暴言の後のゆったりとしたソルテの仕草は、彼に話の続きがあるときの癖だ。
「ここ数日の事件の連続で世間様は騒がしい。街の人間、吸血鬼、ともに喧しくて適わない」
ㅤ近いうちに、二種の闘争が起きるかもな、と。狩り尽くすか、支配するかを決めねばならないと彼は続ける。
ㅤそうか、と無感情で返し、ユークはソルテの横を通り過ぎた。自分とイレアに必要であろう物だけをキャリーケースに詰め込み、今度は彼と顔を合わせることなく、ユークはマンションを後にした。
ㅤもう頼れるものは、何もない。だがユークは今日という日を経て、理解したことがある。
ㅤこれまで自分は、怒りを押し殺してきたことだ。
ㅤキーをひねり、エンジンをかける。
「どこに向かうの」
ㅤと、イレアに尋ねられる。
ㅤ彼女の方を向くことなく、ユークは答えた。
「ここじゃない、どこか」
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