間章-2 天皇賞を見た少女

 兄は、確かに変わっていた。あそこにいる兄は英雄だった。


 そう、あそこにいる兄は。






 私が生まれたのは、三月の二十五日。どうと言う事のない日だ。


 それからおよそ二ヶ月後、日本中を包み込んだのが、あの笑い声だった。


 兄はまったく、その笑い声の主の引き立て役でしかなかった。




「悔しいの?」

「当たり前です」


 ゼロ歳同士、同じ牧場で草を食んでいた仲間からそう言われた事は多々ある。当たり前だ、あれほどの舞台であれほどの耳目を集めるべきは本来兄であったはずなのだ。

 一番人気。それはファンの人からもっとも勝つ可能性が高いと思われていると言うことの証。その一番人気が、まったく手も足も出ない負け方をした。


「しょうがないじゃない、もしかしてあの笑い声聞いてなかったの?ショージキさ、ああいう馬が相手だと思うと恐ろしくてかなわないわよ。まあ私らがデビューする頃にはもう現役やめてくれてるだろうからね、それが救いって奴だよね」


 で、ほとんどの存在が毎回毎回私にそう言い返して来た。


 そう、毎回毎回。




 それからと言う物、兄は負け続けた。何度走っても、肝心な時にはあのヒガシノゲンブさんって馬が前にいた。いや、いなくても負けていた。

 そしてその度に、

「ヒガシノゲンブさんが相手だからしょうがないじゃない」

 とか言うまるで悪意のない言葉でみんな私をなぶりに来た。


 何がしょうがないだか!兄は、ヒガシノゲンブさんがいないレースでさえ勝てていない。それはまったく、兄が弱いせいだ。


 テレビ越しでも見ればわかる。菊花賞、有馬記念、春の天皇賞、宝塚記念……走れば走るだけ、兄は情けなくなってくる。

 負ければ負けるだけ弱くなるとか言うけど、兄に限ってはそんな事はない。元から弱いまんまだ。

 そう一度こぼしたら六着に負けた皐月賞の時のまんまなのとか言われたけど、皐月賞の時の兄はそれほど弱くなかった。後から見せられたその時の兄は、不甲斐ないなりにもう少しシャキッとしていた。


 だがその時の兄はまるで、あせりと怒りといらだちと、それからごう慢の塊だった。

 勝てるはずなのに。勝てるはずなのに。

 そんな事ばかり考えて勝てるのならば誰も苦労はしない。


 







 宝塚記念の後放牧にやって来た兄は、ずいぶんと目が据わっていた。

 狭い厩舎を離れ広い牧場でリラックスするのが放牧の意味のはずなのに、まったくその可能性を感じさせなかった。

 

「お前、もうそろそろ出るんだろここ」

「ええ、買い手が付きましたので」

「いいか」

「決して怠けるな、奢るな、相手を侮るな、むやみに恐れるなですか」

「……」


 いかにもな教訓を並べ立ててやったら一発で黙ってしまった。走っても走っても勝てない自分に嫌気がさすのはごもっともとは言え、妹に八つ当たりするような真似はやめてもらいたい。


「兄さんは一体何しに来たんです」

「少し疲れを取った方がいいって先生がね」

「浅野先生もひどい人ですね、そんな無茶ぶりを」


 仮にも生まれてから初めて会った存在だとしても、妹に向けてそんな事を第一声でいきなり言い出すなど、それが「いつもの自分」になっている何よりの証拠だ。

 

「浅野先生にそんな事言うんじゃない!」

「とりあえず先生のためにもほら笑って笑って」

「浅野先生に謝れ」

「すみません浅野先生」

「ハハハハハハ!」


 あまりにも無理矢理な笑い声だ。しかも流れからして私を屈服させたことに満足するようにさえ聞こえる。まあ実際そういう気持ちはあったのだろうけど、それでもしリラックスできるようならそれこそ見下げ果てたくもなる。


 レースの事なんか忘れてしまえと口にするのは簡単だけど今の兄はたぶんその言葉に耳を貸せるような状態じゃない。お前は僕らの本文を何だと思ってるんだとわめき散らされておしまいだろう。と言う枕詞を付ければ聞いてくれるかもしれないが、それでは結局何の意味もない。


「調教されるってのはそういう事なんですね」

「そうだそうだ、お前もちゃんと浅野先生の言う事をよく聞くんだぞ」


 だから少し皮肉を言ってやったなのにまったく応える様子がない。まったく、どうしてここまで弱り切ってしまったのだろうか。


 本当の事を言えば救いたい。だけどその方法などわからないことがどうにも腹立たしく、その上で兄の醜態を見せられる妹の気分にもなってみろと言ういら立ちが乗っかって来る。


 そしてそれきり牧場と競馬場の区別のつかなかった兄と私が引き離されたのはまったく正しい判断だろう。正確には、私の方が先に買い主に引き取られる格好で去って行った。その私を見つめる兄が何と言ったか、そんな事はわからない。わかっていたのは、この兄にはもう一生GⅠを勝つ日は来ないだろうと言う確信を抱いた事だけだった。







 故郷を離れ予備調教と言うべき段階に入っても、私はワンダープログラムの妹だった。だからオールカマーの時も、我先にとばかりに勝利を告げられた。


「ああそうですか」

「照れる事ないだろ」

「つまんないギャグはやめてください!」


 何も言う気がしない。下手をすれば対戦するかもしれませんからとか言う適当な言い訳を付けて逃げ回っても、びた一文の悪意もなくほめたたえて来る。むずがゆいとか言う代物じゃない、ただ恥ずかしいだけだ。


 勝者の取るべき態度と言うのをまったくわかっていない。ただただ流れ作業のように走り、そして喜ぶ事もしない。自己満足の塊だ。





 だったと言うのに。



 あの日、東京競馬場にいた兄はまったく別の馬になっていた。とてもさわやかな顔をして、それこそどこに出しても恥ずかしくない立派な名馬になっていた。


 誇らしいとは思わない。過去の事があるからではなく、誰かの力で立ち直ったのが見え見えだから。ダービーから一年四ヶ月、一体何をやっていたのか。


「遅いですよ」

「んな事言っても目は笑ってるじゃん」

「うるさい!」


 もっとも、嬉しい事に変わりはない。ようやく目を覚ましてくれたのだけは事実なのだから。それを隠す事ができないのがいささか恨めしく思える。では一体誰が変えたと言うのか。 

 ヒガシノゲンブさんとは思えない。たぶん、もう兄の事など視界に入ってなかっただろうから。他に誰か兄を変えた存在がいる。もう私の行先は兄と同じ浅野厩舎だと決まっている。おそらくそこにいるのだろう。


 見てやりたい。どれほどの物なのか。ただ、ブランドだけは中途半端にくっついていた兄に説教をしてやってマウントを取りたいだけの馬だったら、私はその存在を許さない。ましてやその事を自慢に思うような存在だったらなおさらだ。


 兄は自分の手によって汚名を背負い、自分の手によって栄光を得た。私は死ぬまで、いや死んでも「ワンダープログラムの妹」の名前から逃れる事はできない。それならそれらしく、やってやればいいだけの話だ。




 私は戦う。私のために。そして、兄を変えた存在に、会いに行くために。

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