間章 第二部に向けて

間章-1 天皇賞を見た青年

※第二部までの間の二日間、間章として第二部のメインキャラを主軸とした話を掲載いたします。







 正直、印象に残らない馬。それがボクの抱いていた印象だった。


 誰だって、自分の頭の中に理想ってのを描いていると思う。どんな風になりたいか。どんな馬になりたいか。


 その候補として、ワンダープログラムさんの存在だけは頭になかった。




 正直な話、あの馬から何を感じ取れるのかと言う質問に対して、ボクは何もとしか言いようがなかった。


 弥生賞、セントライト記念、中山記念、そしてオールカマー。GⅡを四勝もしているのは立派かもしれない。そして勝てないとは言えGⅠで二着五回三着二回、まず普通の馬はそんなに走る資格なんか与えられない事もボクは知っている。

 そして厩舎の中で決して暴れる事もなく、浅野先生や滝原さんたちの事もよく聞く。とても真面目で、そしてレースに対して真摯な存在。勝負師らしく少し無愛想かもしれないけど、それでも大した事はないはずだった。

 でも、それ以上の物があったのかと言われると思いつかない。


 ヒガシノゲンブさんの方が、ずっと魅力的だった。


 ダービー馬とか、菊花賞馬とかそんなのは関係ない。とにかく、一緒の厩舎にいると面白い。


「なあなあ、お前浅野厩舎から来たんだろ?」

「浅野厩舎って言えばヒガシノゲンブさんのとこだよな!」

「教えてちょうだいよ、どんな馬なのか」


 新馬戦で函館に行った時、ボクは質問攻めに遭った。ヒガシノゲンブさんって言うとんでもないスケールを持った馬の事をみんな知りたがっている。そんな馬といっしょにいるだけで自分まで大きくなれる気がして来る。




 そのおかげかわからないけど、ボクは新馬戦を勝てた。


「なあお前、凱旋門賞ってどんなレースだ」

「知らないよ」

「お前なら知ってんじゃねえかなって思ったのによ」


 それで生まれて初めてやって来たウイナーズサークルから帰ろうとしたボクに、また質問が飛んでくる。凱旋門賞って何だろう?って訳で正直に答えたら少しがっかりされた。


「ねえココロノダイチさん」

「何だい」

「凱旋門賞って何ですか」

「フランスでやってるGⅠレースだよ。ヒガシノゲンブなら勝てるんじゃないかって言う事で浅野先生が挑戦する事になってさ」

「そ、そうですか!どうもありがとうございます!」


 だから函館に一緒にやって来たココロノダイチさんに聞いてみたけど、その間にもボクは全身が震える物を感じた。


 GⅠってのがすごい物だって事ぐらいはボクも知っている。

 フランスって国がある事もボクは知っている。

 凱旋門賞については知らなかったけど、今こうして知ることができた。


「ぼくはこれからしばらくここで休んで九月には厩舎に帰るよ。いい夏が過ごせたしこの調子なら次こそ重賞もいけるかもしれないと思ってるんだよ」

「いいですね、ボクだっていつかヒガシノゲンブさんみたいに」

「誰だってそうなりたいよね」

「あんなに強くて速くて、そして耳目を集める存在になりたくって」

「ただあいつはあまり丈夫じゃないからね、そこだけは真似しちゃダメだよ」

「確かにそうですけどね、いや本当ありがとうございました」


 ココロノダイチさんからヒガシノゲンブさんについていろいろ聞く事もできた。この後に挑んだ重賞はダメだったけど、それでも勝ち鞍を上げられた事も含めてものすごく有意義な時間を過ごせたと思う。





 だが浅野厩舎に戻って来た所で、当たり前だけどヒガシノゲンブさんはいない。そんなボク、いやボクらにとってココロノダイチさんは大事なコネだった。

 ボクを始め二歳、三歳馬たちはいろいろヒガシノゲンブさんについて知りたがっていた。あの強烈な走りと、強烈な高笑いはどこから来ているのか。いろんな事を知りたがった。


「ねえココロノダイチさん、ヒガシノゲンブさんはどうしてあんなに逃げるの?」

「そんでGⅠ勝ったから嬉しいだろけどさ、なんであんな笑うの?」

「たぶん、それが一番勝てるからじゃないかな。大阪杯を見ただろ?

 で、あの笑い声についてはわからないよ。ある種のパフォーマンスかなと思うけどね。というかさ、帰って来たらじかに聞いてみればいいんじゃない?あいつはけっこうフレンドリーだよ」


 でもココロノダイチさんだって、何でもかんでもわかっている訳じゃない。ヒガシノゲンブさんを呼び捨てにできるような馬でも、わからない事があるんだろう。


「ヒガシノゲンブさんに話しかけろだなんて、そんな!」

「恐れ多いだなんて、ぼくがまだ未勝利馬だった時でもあいつは別に差別なんかしなかったよ。ターフの上ではああだけど、オンオフの切り替えってのがうまいんだろうね」

「でもさあ、確かに言われてみればさ、ワンダープログラムさんよりはねえ」

「確かに、あの馬はいっつもピリピリしてるもん」

「この前まで放牧されてたらしいけど、そこでもきっとレースの事しか考えてなかったんだろうなってわかっちゃうよ」

「それもそれで正しいんだろうけどね」


 去年の年末にけがをし、そして今は遠いフランスに行っているヒガシノゲンブさんと違って、ワンダープログラムさんが厩舎を離れるのはそれが初めてだったらしい。もちろん、馬房は空っぽになっていた。

 でもそこは、まるでゲートの中のような空間だった。ヒガシノゲンブさんの馬房は本当に空っぽだったけど、ワンダープログラムさんのそれはまさしく戦場だった。リラックスするのも仕事のひとつだって浅野先生たちは言ってたけど、あんな場所でリラックスなんかできやしない。あんな所で過ごしてたら息が詰まってしまう。それだけでも勝てない理由ってのが分かった気がした。







 そう、そんな馬だったはずなのに。


 


「あんなにカッコイイ馬だったっけ」

「何て言うかさ、ついに勝てたからそれであんなに」

「バカ言いなさい、パドックの時からだいぶ違ってたでしょ」


 ヒガシノゲンブさんの凱旋門賞と、自分の次のレースの事ばかりに頭が行っていたボクはワンダープログラムさんのに気付けなかった。




 あそこにいたワンダープログラムさんは、ワンダープログラムさんじゃなかった。

 いつも真面目くさった顔をして自分の世界に閉じこもっている馬は、そこにはいなかった。


 直線に全てを賭ける追い込みと言う戦法もさる事ながら、その結果見せたあの脚もさる事ながら、それ以上に変わっていたのは顔だった。


 苦しんでいない。実に楽しそうだ。こんな走り方をしてみたいと思わせるぐらいに楽しそうだった。


「すっごくカッコイイよな、あんな走りしたいよな」

「うん」


 とくにグランデザードなどはものすごくワクワクしている。どうしてあの馬があんなに急に変わってしまったのか。


 ヒガシノゲンブさんが凱旋門賞を勝ったからか。それともヒガシノゲンブさんが引退してしまうからか。ライバルであったはずの存在に大差を付けられ、そしてもう二度と逆転できないとなればもう立ち直れなくなるのが普通じゃないんだろうか。



 と、まで考えた所でボクはひとりの馬に思い当たった。



「ココロノダイチさん!」

「ああソウヨウアイドルか」

「何かワンダープログラムさんにしたんですか?」


 ヒガシノゲンブさんの親友にして、ワンダープログラムさんとも仲の良い馬。この前重賞を勝ち、勢いのある馬。


「何もしてないよ。ちょっとおせっかいを焼いただけでね」

「おせっかいだけで重賞って勝てるんですね」

「何、情けは人の為ならずだからね。ぼくだって半ば自分のためにやったようなもんだからさ」

「ぼくはこれから遠征だからね」

「遠征って」

「盛岡だよ」

「ボクもいずれは」

「やめてくれよ。ライバルなんて弱いに越したことはないのに」


 弱音に聞こえない弱音だ。

 それだけレースに真摯なのかもしれない。


 ボクがこの先、どこまで苦労するのかはわからない。だからこそいろいろ、この馬には教えてもらいたい。


 結局ヒガシノゲンブさんに話しかける事ができなかったのを、恨む気にはなれない。あの馬にはなんとなく超然としていてもらいたいってのはただの欲張りなんだろう。

 ヒガシノゲンブさんだってかつては情けなかったとか聞いたけど、それでもデビュー二戦目で重賞を勝ったエリートだ。




 一方でこの馬は八戦かけて初勝利を挙げ、十六戦かけてオープン馬になり、二十戦目にして重賞を勝った馬。二戦二勝のボクとはいろいろ訳が違う。


 いろいろな存在との出会いが、ボクにもココロノダイチさんにも待っている。そう言えばダート路線って長く現役を続けられるらしいし、来年からも楽しみだ。

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