最終レース 親友の娘
「二度目の最優秀ダートホースかもな」
今年だけで中央地方合わせてGⅠ三勝。実績は十二分だ。何を今更と思うような潔い考えはしない。もらえるならばもらっておきたいと思うほどにはぼくは意地汚かった。
大井競馬場にも、川崎競馬場にも、東京競馬場にももう行く事はない。
あの後散々いったいいつまでやるのか、引退レースはどこになるのか、九歳馬のGⅠ勝ちが見たいだの騒がれたが、もう浅野先生は心を決めていたようだ。
まだやれるかもと思わせる程度には、勝ちタイムは優秀な物だった。皮肉だけど、それが最後のつもりで走ったからだ。
四歳の秋から八歳まで、ぼくの競走生活の中心にあったのはダートのGⅠ級レースだった。それを約四年かけて回り続け、このチャンピオンズカップでついに総なめにしてしまった。
勝てなかったのはドバイワールドカップだけだけど、執着はなかった。
「本当にお疲れ様だったね」
種牡馬として生きることが既に決まっている。それで予定は100万円×一二〇口らしい。最大で1億2000万円。
ヒガシノゲンブやワンダープログラムの20億円単位と比べれば大した額じゃないけど、ぼくなりには満足な金額だ。
「でもまだもう一度だけ、競馬場で頑張ってくれるかな」
「わかっていますよ」
浅野先生の手は、やけに温かい。二年前のぼくなら、やけどをしていたかもしれないぐらいには温かかった。でも今はただ、単純に気持ちがいいだけだった。自分が競走馬でなくなって行くのだという事を、はっきりと思い知らされる。
こうやって甘やかされるのも六歳の川崎記念の時以来だけど、その時と違って悔しい気持ちはない。月並みだけど何もかもやり切った、そんな充実した気分だった。
走り慣れた調教馬場を見ると、月曜日のせいか誰もいない。目に見えないような虫とかならいるかもしれないけど、馬や人は全くいない。
仲良しこよしの同期の名馬ふたりも、ふたりに振り回された同期の女の子も、可愛がっていた後輩も、何かと世話焼きに情熱を燃やしていた実の妹のような親友の妹も、みんないなくなってしまった。
唯一残ったグランデザートも、オープン特別で入着を繰り返すばかりで引退と言う名の戦力外通告を受けるのも時間の問題らしい。彼ともあの時以来、二年以上何の言葉も交わしていない。
他に何十頭と馬がいると言うのに、文字通りのひとりぼっちだった。
そのはずなのに、きれいに整えられたはずの馬場にはやたらたくさんの蹄の跡が見える。六年間自分が付けて来たそれなのか、仲間たちが付けて来たそれなのか、それはわからない。わかるのは、ぼくもまたここからいなくなると言う事だけだ。
「…………」
「どう、どう」
そしてある意味の最後の一頭が、ぼくを強く睨み付けている。あの時と同じ顔をして。あの馬たちの中で真っ先にいなくなった存在が、真っ先に戻って来たかのように。
もしぼくが同期の牝馬であれば、真っ先に気を付けるか怯えるか逃げるかしていたような存在。憧れの舞台を、恐怖の舞台に変えてしまうような存在。その存在だけが、ここにいた。
日曜日。
ぼくは阪神競馬場にいた。
もちろんレースなどではなく、引退式のために。
重賞十一勝、GⅠ級レース八勝。初めての栄光も二度目にして最大の挫折も、この阪神競馬場に詰まっている。
「さあ、最後の出番だ。ゆっくりとその姿を見せればいい」
浅野先生の言葉に従い、およそ六年ぶりに午前中の競馬場に飛び出した。冬だと言うのに日差しはまぶしく、まるで三歳未勝利戦を走っていた頃を思い出す。
ただその時に比べ、お客さんの数だけが変わっていた。
「ココロノダイチ!ココロノダイチ!」
「ありがとう鉄の馬」
「戸柱騎手最高!」
声援が、ぼくの耳に入る。横断幕も目に入る。六年前にはまったく誰も想像しえなかった場所を今のぼくは走っている。おじさんもいれば、おじさんとおばさんもいる。おじいさんもいる。若い人までいる。みんながみんな、ぼくのためだけにこうして早くから来てくれた。
「いい笑顔だな、本当にお前は偉い馬だったよ」
戸柱さんには、あえて言わない。この笑顔はファンの皆さんの声援のおかげでもあり、戸柱さんのおかげでもあり、浅野先生のおかげでもある。でもそれ以上に大きいのは、また別の馬のおかげだと言う事を。
ぼくはこの時、既に確信していた。あの仔が、次の日先頭で阪神競馬場のゴール板を駆け抜ける事を。もしぼくが人間だったら、これまでに稼いだ全部のお金をあの仔の単勝馬券に変えたいぐらいだった。
「ったくもう本当になんていうか、ここまで暴れなくてもいいのに……」
実際には声は出ていないけど、ウウ、ウウと言う声が聞こえてきそうな程に顔をしかめているのを見てますます確信した。
浅野先生がため息を吐きながら笑っていたのには少し調子に乗りすぎたかと最後の反省をしてみたけど、まあもうどうでもいい話だ。
果たして、ぼくがコースを去った五時間後。
競馬場に、またあの笑い声が響いた。
「アッハッハッハッハッハ……ハーッハッハッハッハ……!」
ファンタジーステークスは何だったんだと言わんばかりの、大逃げから大外一気に切り替えての四馬身差。
もちろん戸柱さんの腕前もあるけれど、彼女が強かったのもまた事実だ。その圧倒的な強さにあの笑い声。彼女は阪神ジュベナイルフィリーズと言うレースでその力をいかんなく示し、その血筋と力を見せつけた。
その件に関して、ほんのちょっとだけいばる事ができるのならばいばりたい。わかり切っていた事だって。
年寄りが分かった風な口をと言うならば言えばいいじゃないか。
今度の場合もまた、最初に誰が煽ったのかはわからない。誰も煽っていないかもしれない。間違いないのは、ノーザンスザクが紛れもなくヒガシノゲンブの娘だって事だけ。
もちろんヒガシノゲンブの娘なんて山といるけれど、僕が知っているのは今の所彼女だけであり一番その名前にふさわしいのもまた彼女。それでいいじゃないか。
「いや本当とんでもねえニュースになってますよ」
「何がだい?」
「ノーザンスザクですよ。どこの誰だか知らないけどとんでもねえ人もいるもんですよねえ、単勝で1000万円ドバーッと注ぎこみましてねえ、予知能力の持ち主じゃないですかねえ」
ファンタジーステークスの惨敗で二十三倍ぐらいまで上がっていたノーザンスザクの単勝倍率はこの超大口購入でいったん九倍ほどまで浮上し、最終的に十三.四倍で落ち着いていた。
1000万円の十三.四倍は1億3400万円、ぼくが種牡馬として最初の一年で稼げるだろう最高額より多いじゃないか。あるいは大笑いすべき話なのかもしれない。
確かに笑いはした、あくまでも小声で。その1億3400万円の裏で、一体どれだけの人間が泣いただろうか。その人がぼくらに何をしたのかとか言う事はわからないしどうでもいい話だ。
ワンダープログラムがこの勝利をどう思っているのか訊ねる機会は来ないだろう。ぼくのようなマイナー血脈の馬が、種牡馬として成功した試しは多くない。
ましてやぼくの場合、晩成のダート馬だ。ダート馬はともかく晩成型と言うのは、手っ取り早く賞金を稼ぎたい零細牧場には好まれない。だからぼくは簡単に消えるかもしれない。それでも必要とされている内はせいぜいしがみついてやるつもりだ。
「GⅠ八勝ですか、そんなの越えて差し上げますから!」
「楽しみに待ってるよ」
「ったくどこまでも年寄り気取りなんですね?そんなにいばりくさって楽しいんですか?ああ楽しいんですね、そんなに笑っちゃって!わかりましたよ、ヒガシノゲンブの娘って所をこれからたっぷり見ててください、いいですね!」
ノーザンスザクの勝利を見届けたぼくは、彼女と入れかわるように最後の馬運車に乗り込む。百何十何回と乗ってきたこの車ともお別れであり、この少しだけ狭くて揺れる空間にも不思議な郷愁を覚えるようになってしまった。
そんなぼくにノーザンスザクは最後までこっちの方を見ようとしないまま、ドアが閉まるまで言いたいことだけを言っていた。もし五年前の父親と同じ構図だなと言ったらどうするだろうか、それを考えると面白くて仕方がない。
最後まで競走馬であり続けたヒガシノゲンブ、お坊ちゃんの上にうまく競走馬を被せたワンダープログラム。ぼくもまた、ふたりと同じように勝って引退する事に成功した。
来年にはワンダープログラムの初年度産駒も二歳になる、これからがふたりの第二ラウンドの本番とも言える。ぼくだってせいぜい横から軽く見守るぐらいの権利はあるだろう。三頭の中でGⅠ級レースの勝ち鞍が一番多い存在として。
車が走り出した。おそらく途中で飛行機に乗る事になるだろう。その先には四年半ぶりの北海道の大地と、ヒガシノゲンブが待っている。
北海道は雪だろうけど、それでもきっと空は高くて青いはずだ。
青くなければ、白いだろう。
白くなければ、ダートのような灰色だろう。
いずれにせよぼくを迎えてくれる、温かい空が待っている。
それだけでも、第二の馬生は面白くなりそうだ。
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