8歳12月 引退レース

「当然だろ」




 あの時だ。あの時ワンダープログラムは、何を言ったか。










(「強い馬の子供は強いのが当たり前みたいに……」

「当たり前なんじゃないのか?」)




 そう、彼はあの時こう言って巧まずしてヒガシノゲンブを煽った。あくまでも親切な僚馬の顔をして、その顔相応に彼を元気付けようとした。結果として彼の行いはある意味で成功し、同時にある意味で失敗した。

 一応、去り際に言いたい事を言い合って和解出来たはずだ。でも人間は否応なくふたりの第二の馬生である、種牡馬と言う存在としてもまた対決させたがる。




 ヒガシノゲンブ。種付け料1500万円。種付け数207頭、受胎数160頭。

 ワンダープログラム。種付け料1200万円。種付け数213頭、受胎数177頭。




 こんな記事はそれこそ日常茶飯事レベルにあふれ返っている。

 他にも産駒のセリ市での最高額だの、繫殖牝馬のラインナップだの、海外馬産家の購入だの、ありとあらゆるやり方でふたりは比べられ続けている。こんなんでノーサイドなどできるはずもない。

 ふたりの仔がダービーに出よう物ならばそれこそ父子制覇vs親の仇討ちと言うシナリオが書かれる。またあの人も、この流れから逃げるには死ぬだけでは無理で、それこそ競馬と言う存在を滅ぼすしかない。

 いや例え今日滅んだとしても、ヒガシノゲンブはあの高笑いだけであと十年は生きられる。その笑い声により、ふたりとも後に引けなくなった。お互いがお互いの鼻っ柱を折り合うために戦い続け、勝者と敗者が生まれた。












「名馬の名を父と母に持つと言う事は、名馬を種付けされて生まれたと言う事だ。それこそがオーナーさんたちの期待の証であり、スタートから背負わされて来た負担重量だ」

「……」

「ヒガシノゲンブの仔はこんな物なのかよなんて言われたい?ヒガシノゲンブの仔なんて他にもたくさんいるからだなんて発想はダメだよ。他の仔に置き去りにされたいのかい?」

「…………」

「だからこれ以上、恩を仇で返すような真似をしちゃいけない。ワンダープログラムだってランザプログラムだって、ちゃんと期待に応えて来た訳だ。もちろんソウヨウアイドルだってね。名馬ってのはそんな馬だよ」

「………………」

「わかったらちゃんと頑張るんだ、メソメソしてないで調教にでも行ってさ、気持ちを整えた方がいいよ」



 稚拙なコピー&ペーストだ。証人がいないのをいい事に、この劣化コピーでぼくはノーザンスザクに斬りかかる。つまらない剣だけど、それでも振るわないよりはいいだろう。







「それが年長者の意見ですか?」

「ああそうだよ」


 思惑通り、彼女の顔がピンク色に染まって行く。顔に血潮がたぎり、初めて出会った時のような顔になって行く。


「老害って言う単語をご存知ないんですか!」

「はぁ!?」

「あなたはもうあとひとつで終わりでしょう!」

「…………」

「名馬気取りの年寄りは早く出て行ってください!」




 予想外だと言わんばかりになるべく背筋を正して、ゆっくりと静かに去って行く。後ろからとんでもなく懐かしい視線が来るけど、それもまた気合が入る。

 とりあえず、成功はしたらしい。その「成功」の結果がどちら側に向かうのかまではわからない。

 わかったのは、ヒガシノゲンブがあの思い出を消化していると言う事だけだ。








 芝とダート、二歳と八歳。そして何より作為と自然。


 これらの違いがどれほどまでにこの猿まねを有効な手段にするのかはわからない。

 それでもぼくはやらなければならなかった。親になるからだ。選ばれた者の楽しみを味わうには、それなりの準備が必要だろう。

 親として、悩み苦しむ娘の悩みを聞いてやるのは義務のはずだ。種牡馬のくせに出過ぎた真似であることはわかっているが、それでもやってやるに越したことはない。







 そしてその為のもう一つの義務も、果たさねばならない。


「ずいぶんと気合が入ってるなー」

「まだ来年も現役でいけるんじゃねえか?」

「本当に甘くないってわかるよな世の中、オレこの前オープン馬になったばかりだってのにさ」


 あと一つ。あと一つのために、ぼくはどこまでも戦わなければならない。戦わねばその言葉は上っ面になる。それではたぶんノーザンスザクは勝てない。

 本番はまだ後だとわかっていても気合が入る。自分としては馬なりレベルの走りだったのに、気が付けばいっしょに走っていた三歳馬に二馬身差を付け、四歳馬に半馬身差を付けていた。賞賛と恐怖と不安が入り混じった声、それはたぶんヒガシノゲンブにとっては日常茶飯事だったのだろう。


「フン……!」

「おいノーザンスザク!」

「何ですか!」

「何ですかじゃねえだろお前」

「誰だろうがライバルになりかねないのがこの世界ですから」

「まあまあ、今週はあなた休みでしょ。本番に向けてもう少し休んでおかなきゃ」

「わかってますよ!」


 あまりにも急激な回復ぶりに、後輩たちは大笑いしていた。わずか二日でどん底からいつも通りにまで復活したのだから、前向きな意味でも喜んでしかるべき話だ。そのからくりは、あの時と同じくどうやら他の誰にも気づかれていないらしい。でもまあ、約一名簡単に気づく存在はいるだろう。だとしてもその存在から仕掛けが漏れる事はないはずだ。ぼくは安心して馬房へと戻った。







 で、その約一名ことランザプログラムまでも、ぼくより先に厩舎からいなくなる。


「あなたが偉大な存在だと言う事は改めてわかりました。若い頃は兄からあなたの話を聞き、兄がこの厩舎を去ってからはずっと私自身があなたを見て来ました」

「で、どう映ったんだい」

「とりあえずは有終の美を飾って下さい、最後まであなたらしく」

「ぼくらしくか……」

「ええ。最後まであなたに心折れずにいてもらいたいとか言う安っぽくって子どもっぽいわがままですよ。本当にご迷惑をおかけいたしました」


 彼女もまた、有終の美を飾った。GⅠ三勝の勲章を武器に、新たな戦いの場へと向かう。


「それで、あなたなんでしょう?」

「何がだい」

「あの仔ですよ。あの仔はおそらくあなたが」

「へこんだんなら立て直せばいいじゃないか。キミだって」

「最後に文句があるとすれば、フェルスラヴァーの事です。彼女はあれ以来マーメイドステークスの一発以外まったく振るわないまま引退してしまいました」

「それまでって事なんだろう」


 それもまた事実だ。フェルスラヴァーがもしぼくのせいで消えてしまったと言うのならば、そんな存在は山といる。




 積み重ねて五十戦十五勝、前でゴールしたと言う理由で行けば負かした馬は何頭になるかわからない。

 ぼくはその全ての馬の夢を奪い取り、騎手や調教師の人たちを泣かせ、馬券を買ってくれた人を泣かせて来た。それが勝負と言う物だ。


「まだあなたが勝負師で安心しましたよ。ではさようなら」


 ランザプログラムは満足した顔をして、厩舎を去って行った。







 もう残るはぼくひとりだ。最後の最後まで勝ち続けて終わった彼女のようにならねばならない。


「負けませんからね」

「そうだそうだそれでいい」


 若い彼女の檄に応えるかのようにぼくは走る。ランザプログラムがいなくなってから三週間、毎週のように気合を込めて走った。追い切りの日もまた、ぼくはいつものように気合を入れた。


「これでダメならあきらめるしかないな」


 浅野先生からのお墨付きももらった。もはや準備は完璧だ。あとは結果を出すしかない。




「勝てるんでしょうね!」

「やってみせるとも!」


 ありがたい言葉をちょうだいすると同時に、あの顔が浮かんで来た。普段は人のいいおぼっちゃんのくせに、いざ戦いになると誰よりも恐れられるあの存在が。

 その存在が飛ばしてくれた檄に応えねばならない。それがぼくの競走馬としての最後の義務なのだ。









「五十一回目のレース。鉄の馬ココロノダイチ、いよいよ最終戦です」


 枠順は末広がりの八番。ちょうど真ん中の上に後入れの偶数枠だと浅野先生ははしゃいでいたけど、ぼくとしてはとくにどうと言う気持ちはなかった。



 五番人気。さすがに年と思われたのか、ここ二戦負けすぎたのか。人気だけはあったつもりだけど、それでもファンの皆さんはある意味で誠実だ。


 応援馬券とか言うけど、どうせそんなのは百円単位で倍率に関係はしない。ワンダープログラムが三年前の有馬記念で単勝一.四倍になったのはあくまでも実績と実力である。

 若い馬たちもまた、一生に一度かもしれないチャンスを狙っている。みんな目に血がたぎっている。実に頼もしい。こうでなければいけない。

 でもぼくだって譲れない。


 後入れの偶数枠だけど、何の変わりがある訳でもない。ただこれまでの五十回のように、普通に入って待つだけだ。ぼくの順番が来る前に一頭いきなり暴れ出してほんの三十秒ほどゲートインが遅れたけどどうと言う事はない。






 ゲートが開いた。

 予定通り、六番手辺りに入った。

 でもどうも流れが怪しい。予想より早いのではないかと思ったが、やっぱり早かった。

 そうでなければ、戸柱さんが控えろとばかりに手綱を絞るはずはないから。


「勝負は八〇〇からだ!」


 蹄の音や他の騎手さんたちの声が飛ぶ中、戸柱さんはぼくに呼び掛けてくれる。これまでの五〇回、ずっと守って来てくれた人のためにもぼくは勝つ。


 そのために、走る。走る。走る。

 ぼくの色をむきだしにしながら、走ってやった。

 ヒガシノゲンブとワンダープログラムから見れば、まったくの雑草血統。

 雑草ならば雑草らしく、貪欲にかつたくましく走ってやる。







 さあ勝負の時が来た。前のハイペースで飛ばした馬たちが崩れて来る。

 ほんの一瞬だけ前が塞がりそうになったが、そんなの知った事かい。

 ぼくは馬をよけながら、前へ前へと進んで行く。




 最後のコーナーだ!鞭が入る。早仕掛けも何もあった物か、一挙に突き抜けてやる。


 ぼくはココロノダイチだ。GⅠレースを七勝した「鉄の馬」だ。最後の最後までそれにふさわしい事をするだけ。

 中京の直線は東京ほどじゃないけど長いとか知った事か、ほんの一瞬でも早くゴールすればいいだけだ!


 残り二〇〇の看板が見えた。そこで左目に映ったのは、黒鹿毛の四歳馬。

 一番人気、前走のJBCクラシックでぼくを負かした馬。


 だけど、今のぼくにはヒガシノゲンブにしか見えなかった。


 彼が走った事もないダートを凄まじい勢いで、逃げ馬だった彼が後ろから迫って来る。

 そう書くとまったくおかしいのだけど、ぼくの中では紛れもなくヒガシノゲンブなのだ。そのヒガシノゲンブにならとか言う邪心を捨て、ぼくは気合を入れ直す。

 首を前に突き出しながら「ヒガシノゲンブ」を振り払わんと願う。

 気合を入れる訳でもないのに叫びながら、競走馬としての全てをぶつける。

 相手の息遣いが聞こえる。現役時代競馬場では全く絡む事のなかったふたりの英雄のうち一人、ヒガシノゲンブの形をしたその馬の息遣いは、ワンダープログラムのそれだった。

 その息遣いは根拠のない自信を浮かび上がらせ、ぼくの脚を動かさせた。


 それとともに音がすべて消え、目の前には先ほど入ったばかりのゲートの幻影が見えた。












「世代交代か!それとも有終の美か!!」




 次に聞こえて来たアナウンサーの人の声により、ぼくの運命がまだ決まってない事を知った。

 もう待つしかない。どっちでもいいけれど、それでも欲しい物は欲しかった。


 顔の引き締め方を、急に忘れた。延々六年もしかめっ面をして来たのに、急に顔が緩んだ。

 およそ鉄の馬らしからぬおじさんの顔になり、親の顔になって行くんだろう。

 その顔を見た四歳の彼は不服そうな顔をしていたけど、これもまた勝負と言う物だ。

 たとえ負けたとしても何の悔いもない。こんな気持ちになった事すら、今日初めてだった。










「写真判定の結果、一着は八番ココロノダイチ……」




 そして、つかみ取れた。

 延々十分にも及ぶ写真判定の結果、ぼくは見事有終の美を飾る事に成功した。




 口から笑い声は出なかった。思いっきり笑ってやるつもりもなかったけど、それでもちょっとぐらいは勝者らしい顔ができる物だと思っていた。

 鉄の馬と言う肩書きに染まり切った存在が、ただその肩書きのまんまのレースをした。

 鼻差勝ちなんて生まれて初めてだと言うのにココロノダイチらしいと言われてしまう事も、もはやあきらめがついていた。


 ぼくは結局、ヒガシノゲンブやワンダープログラムのようにはなれなかった。

 元からなろうと言う気もなかったが、ココロノダイチのようになりたいと思わせることはできたかもしれない。


 笑う人もいる。泣く人もいる。笑いながら泣く人もいる。ただただぼくの名前を呼んでくれる人もいる。




 知っているのは、ぼくらをこうして応援してくれる人がいると言う事だけだ。

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