8歳11月 去り行く者として
連続での惨敗に、いよいよぼくは競走馬として本当の晩節を迎えたらしい事を実感せざるを得なくなった。
「安心しろ、種牡馬入りのめどが立った。お前はここまで本当によくやってくれたよ」
ぼくの行き先は、ヒガシノゲンブと同じ牧場らしい。名門中の名門だ。
改めて、ほんの少し前まで実感できなかった瞬間がやって来る。種牡馬なんてそれこそ子どもの顔なんぞ生涯一度も見ないで過ごすことも珍しくもない仕事だが、それ以外にサラブレッドが数を増やす方法なんかほぼない。
そんな仕事で子どもへの責任うんぬんなんておこがましいかもしれないけど、それでもいい父親悪い父親と言うのはどうしても出る。
スピード、スタミナ、距離適性、馬場適性、気性、丈夫さ、成長度合い……そういう基準がぼくらを支配する。
そして、競走馬以上に自力でどうにもならない世界だ。現役時代名馬と呼ばれるに値する成績を上げ、その上で一年で二〇〇頭以上種付けされながら産駒がまったく活躍しなかった馬だっている。それは一体誰の責任なんだろうか。
「まあずいぶんとひどいレースでしたね」
「そうだったね」
「やっぱり終わりなんでしょうか」
「もう一度で終わりかもね、あと何回こう言うかわからないけど」
安っぽい強がりでしかない。ぼく自身、種牡馬などと言う未来を認識したのは本当にごく最近だった。
それこそこうして連続で惨敗とでも言うべき結果を残してしまわなければ、まだいくらでも走ってやる気になっていただろう。
「最後ぐらいきちんと締めて下さいよ、兄がそうしたように」
「言われるまでもないけどね」
繫殖牝馬だなんてのは、それこそ種付けに来た相手と適当にそういう作業をしてそれっきりの存在である。そこにはたぶん親密な会話はない。種付け相手なんて毎年変わってもおかしくない物だし、続いて付ける事があったとしても次の機会は来年だ。顔を合わせるとすれば同じ牧場にいる同士ぐらいだ。種牡馬がビジネスであるように、繫殖牝馬だってビジネスだった。
ランザプログラムもまた、ほどなくこの厩舎を去って繫殖牝馬になる。繫殖牝馬ってのもまた、自力でもどうしようもない役目だ。健康に気を使い、なるべく長く子どもを産み続けられるようにするのができる精一杯。
なんとももどかしく、そして長い戦いだ。受胎して、産んで、競走馬になって、それが彼女と同じように三歳の内にGⅠを勝つ。そこまで五年かかる。五年間も競走生活を続けられる競走馬などめったにいない。
「いら立ちでもあるのかい?」
「ありませんよ!」
やけに分かりやすく声を荒げた。自己責任とか言うけど、それは自分の失敗を全部自分のせいにできると言う意味である。何もかも自分が悪いと逃げられる、実に便利な逃げ道だ。それを塞がれてしまうと言うのはとても辛い。だからそういう反応はむしろ健全で健康的だろう。
「そうやって無駄に口を動かすんなら、次のレースの事を考えて下さい!私だってそうしてるんですから」
ただただ微笑ましく、元気を与える振る舞い。いい年して揃いも揃ってこんな事をやっているんだから、可愛くない訳がないじゃないか。ふてくされるその姿もやたらに可愛い。頬が緩みそうになるぐらい可愛い。顔が緩むのも当たり前だ。
そうこうしているうちに、ぼくの引退レースが決まった。
チャンピオンズカップだ。
四度目となる中京競馬場での戦い。ぼくが一度も勝てなかったレースであり、それこそ最後のチャンスだった。
「もう何をするかはわかっているよな」
浅野先生の言う通りだ。
これまでのレースを踏まえ、残る力の全てを出し切る。競走馬としての残りカスを全て搾り取り、叩き付ける。負けるのはともかくまだ残りカスがこびりついた状態ではぼくは本当に先に進む事は出来ない。それが種牡馬として大先輩であるヒガシノゲンブやワンダープログラムに対する礼儀と言う物だろう。
若い仔たちへのお手本とか、そんな言葉は元より捨ててしまっている。古馬になってからずっと前ばかり見て過ごし、お手本になれそうな地位を得てからもさあこれからと言う所で盛大につまずいた。あとはもう今までずっとそのまんまだ。
今さら年長者ぶる必要なんかないじゃないか。ぼくはいつもの日曜日、レースのない日曜日を過ごしていた。厩舎に残って、見慣れ切った空や地面を見上げる。戦うため、最後の戦いのために休む。
「ちょっとココロノダイチさん!」
「何だよいきなり」
「ノーザンスザクが木端微塵になりました」
「はあ?」
そんなぼくを呼び付け、早すぎる戦いへと引きずり込んだのはノーザンスザクの名前だった。
木端微塵と言う四字熟語がどういう意味を持っているか、それは馬運車から降りて来た彼女の姿を見れば一目瞭然だった。
————ただの仔馬だ。
この二戦で見せた圧倒的な暴威をはぎ取られた馬体は小さくしぼみ、足取りを刻む事にだけ集中していたせいか木彫りかお人形さんのような顔をした少女。
それが、今のノーザンスザクだった。
ゲートが開くと同時にこれまでのように先頭に立って一気に飛び出したノーザンスザクを追いかける馬は、やはりこれまでと同じように誰もいなかった。
そして直線に入るや、ノーザンスザクの姿はやはり掻き消えた。ただし今回は前にではなく、後ろへとだった。
あっという間に沈み込み、そのまま馬群へ溶けて消えた。一着どころか、ビリから二着。まったく見るも無残と言うべきそれだ。
「ああ……ああ…………」
ノーザンスザクはまったく元気をなくしていた。単勝一倍台の一番人気であんな負け方をすれば無理もないとは言え、これまでのレースで見せた圧倒的な強さもなければ、ぼくの前で見せていた強い少女の姿もここにはない。
か細いあえぎ声を上げながら、ただ漫然と歩いている。馬房に押し込められても表情は変わらず、ただ人形の真似っこをしている。
「食事をちゃんと取れよ」
「えっ?」
案の定、夕食もまともに食べようとしなかった。次の日の朝も夜も、そのまた次の日の朝も、流れ作業かお義理のように口に運んだだけで、ぼくらからの呼びかけにもまともに答えようとしない。たった一戦の敗戦でここまで落ち込めるのかと思うぐらい落ち込んでいる、ぼくのマーチステークスの後のようだ。
「あー、速いですね……」
調教に連れ込んでもこれが精いっぱい。厩務員さんに引きずられてぼくの真後ろにまでやって来たけど、馬場に出てもまったく気合が入っていない。
「ダメですね、途中から完全に走るのをやめています。先週レースを使ったとは言えこれはさすがにちょっと」
惰性で足を前に出しているだけ、ぼくから見てもまったく走るように見えない。前走に勝っても負けても次走は阪神ジュベナイルフィリーズと決まっていたが、これが勝てるようなGⅠなどこの世のどこにもない。
ランザプログラムのように、最初から最後まで気を抜かず整然と走らなければ勝てるはずがない。
「大人と子供だな、年齢差とか言う問題じゃなく」
全く、調教助手さんの言う通りだった。だけどその言葉はノーザンスザクの耳に入っているのかどうかすらわからない。
ならば、はっきり聞かせてやるしかない。
ぼくはなるべく自分の顔を真顔に近付け、ノーザンスザクの馬房へと向かった。
「ココロノダイチさん……」
「ノーザンスザク」
「ココロノダイチさんのお母さんって有名なんですか」
「ぼくのせいでね。現役時代は未勝利戦を勝っただけだよ」
だから、ぼくは700万円なのだ。それに対しノーザンスザクのお母さんはオークス馬で兄には重賞勝ち馬もいる。だから1億1000万円と言う値段が付けられた。
「いいですねそれ」
「何が?」
チャンスだと思った。ここでやらねばぼくは親になれないかもしれない。男親として、悩める娘に叩き込んでやらねばならない。
「私なんか、強い馬の娘や妹は強いのが当たり前みたいに言われて、その上に父さんの事もあって」
「当然だろ」
早仕掛けかもしれないけど、今を逃したら次のチャンスがいつか分からない。そう感じたぼくは、一気に自分のお尻に鞭を叩き込んだ。
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