8歳10~11月 晩節
「ですから彼女はあなたが必要なんです、父親として」
父親!まったくランザプログラムとは思えないようなジョークだ。笑う事も出来ない。いい年してまだ一頭の馬の親でもないぼくがヒガシノゲンブの代わりだとでも言うのだろうか。サラブレッドの牡馬なんて九五%以上は親になれない物だが、その残り五%もまた選別されて行く。
確かに今のぼくではヒガシノゲンブやワンダープログラムには勝てない。勝とうと思っていない訳じゃないけど、他の馬に勝つためには何らかのアドバンテージがなければ無理だ。
でもそんなわがままをわめいているような時間は、もうぼくにはない。
その事を思い知らされたのは、南部杯を大きく負けた事じゃなく、ソウヨウアイドルが引退すると言う事だ。
「種牡馬になります」
弟分気取りで可愛がってきた存在が、自分よりも早くここからいなくなる。五歳の時に勝った高松宮記念のタイトルを武器に、彼は新たな戦いへと身を投じる。
「悔いはありません」
「ぼくなんかありっぱなしだよ」
「すごい向上心ですよね」
何が向上心だか、ただの未練だ。でもぼくはその未練のおかげで今まで戦えて来たのかもしれない。
今思えばあのマーチステークスの惨敗も、いい年をしてまだ競馬と真摯に向き合って来なかった自分への鉄槌なのかもしれない。
ちょうどいい具合に降りて来た鉄槌はぼくの心身を鍛え直し、ここまで持って来させてくれた。そう思えるほどには、未練と言うのも悪い物ではないのかもしれない。その未練を捨て去ったソウヨウアイドルは、競走馬の顔から種牡馬の顔になっていた。
ソウヨウアイドルの退厩を見送ったぼくは、ぼくのそばにいて何も話すことなく黙って見送っていたランザプログラムと鉢合わせした。その彼女のそばには、目を輝かせながらひとりの栗毛の牝馬が立っていた。
そう、ノーザンスザクだ。
「ココロノダイチさん…………」
「ランザプログラム」
「鉄の馬ももはやこれまでですか」
鉄の馬と呼ばれるほど、ぼくは走っていない。適当に休み、適当に息を抜き、適当に怒ったり泣いたりしている。
だがそれはつもりに過ぎず、結局は競馬場の上での走りや戦績から来るイメージの方が強いのかもしれない。しょせん二つ名を付けるのは人間であり、ぼくらの成績を判断するのも人間である。その人間の意向に馬が逆らうのは無理なのもまた事実だ。
「まだいけると思いたいけれどね」
「その調子だとやはりもう先は見えたと言う事ですね」
「そんな言い方ないと思いますけど」
親友のつもりでいた二頭の内一頭の娘がここにいて、もう一頭の妹からの攻撃そを守っている。どこか痛々しくも思えるけどそれでいて美しい、どこか奇妙な少女だった。
「どうして?」
「ほんの三ヶ月前に見せたあれはまさしく鉄の馬と呼ばれる物だったと思います、たったの一戦負けただけで」
「鉄の馬はいつ鉄の馬になったと思ってるの?ほんの最近よ?まあほんの最近と言っても今年の正月辺りからだけど、それまでこのひとは幾度となくみっともない所を見せてた」
ランザプログラムの物言いが厳しいのはいつもの事だ。自分に向かって必死になって言い聞かせているせいでもないだろうが、彼女の口から甘い言葉が出たのを聞いた事がない。だがそんな時でも、目は笑っている。ワンダープログラムの妹だと言う事を、情け容赦なく披露する。
「八歳にもなればいろいろあるでしょう、すべて若い時の話じゃないんですか」
「いいえ、五歳の頃でもよ。ココロノダイチさんはあの時の事を覚えていらっしゃらないんですか?」
「あの時?」
「三年前兄が凱旋門賞に向けてフランスに旅立った時です。どうしてずっと話していたソウヨウアイドルさんの声もわからなくなってたんです?」
「あれソウヨウアイドルだったの?」
三年前、まったく自分がダメな存在だと思い込んでいた時期に行われたワンダープログラムの海外遠征。
その時に明らかに年下の馬に向けてかけられた言葉。あれがソウヨウアイドルの声だと気づいたのは、今が初めてだった。
「あの時のような情けない存在にまた戻る気ですか?」
「ちょっと待ってくださいよ!誰だって弱ってる時はあるのに、そんな過去の事をいちいちウダウダグチグチゴネゴネと!ランザプログラムさんって案外性格悪いんですね!」
「だとしてそれがノーザンスザクちゃんに何か」
「うぬぼれアピールならばよそでやってくださいって言いたいだけです」
「ハハハ……アハハハハハハハハハ!!」
納得すると同時に、笑い声が口から堰を切ったかのように飛び出した。
勝負師なんてみんなそんなもんだろうけど、ランザプログラムも相当な意地っ張りだったと言うわけだ。その事を思うとこれまで以上に憎まれ口ばかり叩くようなこの仔がいとおしくなって来た。どうあがこうが彼女がワンダープログラムの妹であり、まさしく兄の生き写しだと言う何よりの証拠を彼女は自ら告白してくれたんだから。
「笑い過ぎです!」
「だってさぁ、だってさぁ……」
「ランザプログラムさんだってひとの事言えないじゃないですかー」
「私は引退レースが決まったので失礼します」
ノーザンスザクまで釣られて笑い出した。ランザプログラムはさっきまでよりずっと力弱い目でぼくらをにらみ、明らかな逃げ口上を吐いて去って行った。その後ろ姿はまったくワンダープログラムのそれであり、思わず郷愁をも感じてしまいまた笑ってしまった。
それで、さんざんランザプログラムを笑った後のJBCクラシックはと言うと、またもや掲示板外だった。
ほんの四ヶ月前のぼくはいったいどこに行ってしまったんだろうか。
戸柱さんと浅野先生の顔は暗い。もう、これまでのようにぼくは戦えない。その事を実感するぐらいには、四度目のJBCクラシックはつらいレースだった。
これまでと同じように先頭四、五番手に立ち直線で一気に抜け出し押し切る。それだけのはずだったのに、外からも内からも後ろからも他の馬が突き抜けて来る。去年の二着馬の姿を、浦和競馬場のファンに見せる事は出来なかった。
急激な老い。そんな物がもし来たのだとすればあるいは幸福なのだろうか、八歳馬になるまで走る事自体ごくまれなはずなのだから。先週だって、調教タイムそのものはまだ落ちていない。
「いよいよだな……」
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