8歳夏 ヒガシノゲンブの娘

「あなたが鉄の馬こと、ココロノダイチさんですか」

「キミは?」

「ヒガシノゲンブの娘、ノーザンスザクと申します」







 ヒガシノゲンブの娘だと言う栗毛の少し大きめな二歳牝馬は、ぼくの顔を見据えながら頭を下げた。


 その首付きと来たらただ単純に素直なだけではなく、かと言って極端に媚びる訳でもなく、上っ面を感じさせるほどわざとらしくもなかった。


 何よりその目付き。紛れもなくヒガシノゲンブのそれだった。


「その馬は危険よ」

「フェルスラヴァーさん、名馬と言うのはみなある種の危うさを秘めています。私の父も母もしかりでしたから」

「キミのお母さんって」

「あなたより二つ年上でオークス馬です、それから私の姉は牡馬相手にGⅡをふたつ勝っています、兄は」

「ちょっと、いきなり身内自慢?」

「でも時には目も当てられないような惨敗もしました。そういうのを繰り返してみんな強くなるんです。フェルスラヴァーさんだってこの前はおめでとうございます」


 この前のマーメイドステークスで二年半ぶりの勝ち鞍を得たフェルスラヴァーの顔に、かつての輝きはない。牝馬クラシック路線で惨敗し、古馬になって短距離に回ったりダートを走ったりいろいろさ迷い、この前のマーメイドステークスは負担重量が五一キロまで減っていた。


「ランザプログラムには会ったかい?」

「その前にあなたです。父から聞きましたよ、のほほんとしているけどその実タフでお強い方だと。とりあえず間違っていなくて何よりです、今後ともよろしくお願いします」


 のほほんとしている、か。ヒガシノゲンブからはそう見えていたんだろう。フェルスラヴァーが目を丸くする中、ノーザンスザクは父親に生き写しの顔をして馬運車に向かって行った。体型も毛色も似ていないけれど、紛れもなくヒガシノゲンブの娘だった。




 そのノーザンスザクはぼくが四歳の夏を過ごした函館へと渡り、そこでソウヨウアイドルと同じように新馬戦に出て四馬身差の大差をつけて勝利した。


「かなり懐かれてるみたいですね」


 彼女の後押しをするわけでもなく歯を食いしばって一番を勝ち取った帝王賞の時以来、より一層人間のお客さんは増えたけど馬の話し相手は減った。

 若い頃の苦労は買ってでもせよとか言うけど、今やその苦労は負担重量にならずに鎧になっていた。まとわりついた鎧はトゲを生やし、他の馬を遠ざけてしまう。そのトゲに耐えて話しかけられるのはごく一部の存在、例えばGⅠ馬であるこのソウヨウアイドルやランザプログラムぐらいになっていた。


「そうなの?」

「ここに来る前はかなりの暴れ馬だったそうで、ポテンシャルは間違いないんですがそのせいで買い取り手が付かない可能性すらあったそうで。ご存知の通りの目付きでその振る舞いですから」

「ヒガシノゲンブの初年度産駒だからってプレッシャーもあっただろ?」

「そんなのは一六二頭もいますから参考にはなりません。まともに走れば間違いないはずなんですけど新馬戦でもかかりっぱなしだったそうで、抑えるのに苦労したとか……」


 ますます、ヒガシノゲンブに似ている。もちろんダービー以後のそれであり、それ以前のおぼっちゃんのヒガシノゲンブではない。


「なあ、彼女に友達はいないのか?」

「いませんよ、あの性分ですから。僕はココロノダイチさんに当てられたか彼女の事を好ましく思ってますけどね、いい年したおっさんがあんな若い仔に声をかけるだなんてできませんからね」

「種牡馬になれば二〇歳にして四歳や五歳の牝馬に種付けするのがこの世界だよ。ぼくだって童貞を捨てる相手が四歳かもしれないしね。ランザプログラムももう決まってるらしいよ初年度のお相手、何でもヒガシノゲンブのお父さんだって」


 おっさんは、あくまでもおっさんでしかない。ぼくだって二、三歳の時には年上の馬たちにお世話になったけど、一番大事な存在はヒガシノゲンブでありワンダープログラムだった。同い年ってのは自分と似たような道を進む事ができる、たとえ方向が違っても似たような思いを共有できるのだから。それを繰り返して気が付けばGⅠ七勝、あるいは今が全盛期じゃないかと言う気持ちさえして来る。


「まあ僕もさすがにこの辺でってのが本音でしてね、安田記念でやらかしちゃって。ココロノダイチさんは元気ですよね」

「ぶしつけだけど何着だったっけ」

「着順こそ四着ですけど斜行して騎手さんに罰金二万円の処分を与えちゃいましてね、こんなのは初めてですよ」


 でも全盛期なんてのは終わりがあるから全盛期だ、太陽だっていつかは沈む。こうして若い仔と一緒にいる間は、元気なつもりでいられる。この前のようにGⅠをさらりと勝つこともまだまだ可能かもしれない。


「まあね。それで若い仔ひとりかふたり紹介してくれないか、いろいろ教えられる事もあるかもしれないし」

「冗談はいい加減にしてください」


 で、そんな下心に満ちた言葉はすぐ見抜かれる。当たり前だ、ただでさえGⅠ馬ぐらいしかまともに話してくれないような存在に若い仔なんか寄って来ないのに。ソウヨウアイドルは芝もダートも走っているおかげかかなり顔が広く後輩たちからの人気も高いけど、その後輩たちをぼくに回してくれる事はない。

 おととしのフェブラリーステークスの頃までは何頭か引っ付いていたけど気が付けばひとり減りふたり減り、いつの間にかソウヨウアイドルとランザプログラムだけになっていた。


 そのひとりである六歳馬のソウヨウアイドルが笑いながらぼくから離れて行くと、ぼくはひとりぼっちになった。別に死んだわけでもないが、みんなほとんどいなくなってしまった。







(ねえヒガシノゲンブ、今のぼくはキミやワンダープログラムと互角の存在かい?)

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