7~8歳6月 鉄の馬ココロノダイチ

 ぼくはもう、七歳になっていた。しかし去年もらった最優秀ダートホースと言う勲章、年度代表馬に比べれば軽いけど最優秀三歳牡馬や最優秀四歳上牡馬と比べれば大差ないはずの肩書き。それに負けたくはない。







 でももらった所がピークでしただなんてあってたまるかいと言う意気を持って臨んだフェブラリーステークスでは早仕掛けをしたせいか、残り一〇〇で捕まってしまった。


「あの、悔しいんですよ……ね?」

「……」

「ああそうですよねーハハハハ……」


 単勝18050円の数字を見た戸柱さんがこれは特別だからとなだめてくれたものの、目と口が一瞬で乖離してグランデザートに引かれてしまったのは不覚でしかない。

 本当なら十一着に沈んだ彼を励ますなり叱咤するなりすべき所だったのに。目で敗北を証明しながら口でこのショーを楽しんだ気持ちを表すだなんて、我ながらまったくおかしい。


 どんな相手であろうと負けてしまえばその結果だけが残る、それが競走馬だ。ヒガシノゲンブだって「皐月賞を負けた馬」だし、ワンダープログラムだって「ダービーを負けた馬」である。それこそ死んでも消えない烙印だ。


 その烙印をかき消すべく中央で軽く重賞を取ってから本気で挑んだつもりの帝王賞だったが、結果は二着。



「次は次はってかなり意気盛んですよ、何せ鼻差でしたからね」

「でもまだかなり時間があるからな、今度こそGⅠ六連戦と行きたいし。ったく本当にタフな馬だよ、こっちの予測を超えるほどにはね」


 走る事が仕事であり、宿命であり、役目であり、天命。そしてストレスを解消する手段もあり、得てしまう手段でもある。

 この春、ソウヨウアイドルもランザプログラムもGⅠ制覇を成し遂げたのに自分はできなかった。それがまたぼくを不愉快にする。




「浅野先生もおっしゃっていましたよ、少し休めと。もしかして勝手に調子を落とすおつもりですか?それは天才のやり方です」


 大一番が終わり、軽いはずの調教でぼくは無理矢理全力を出す。同じように宝塚記念と言う舞台に向けて本気を出していたランザプログラム以外には狙いを見破られる事もなく、自分の力が抜けて行くのを感じる。


「あなたが何と呼ばれているかご存知ですか?「鉄の馬」ですよ。最近つとにその二つ名にふさわしくなっておいでですけど、それで良いのですか?」


 沈黙をもって肯定に代えたぼくに従うかのように、ランザプログラムもまた沈黙した。その目は相変わらず、笑っている。口がどんなにしかめっ面を決め込んでいても目が台無しにしている。わかりやすい仔だ。


「何て言うかさ、本当にこの馬が鉄の馬な訳?」

「口の利き方には気を付けろよ、お前GⅠ勝てるのか?」

「……」

「おいおい謝れよ、お前いい年して見た目だけでしか判断できねえのか?」

「勝手にぼくの心を推理するのやめてくれる?」

「ああすみません!」


 ランザプログラムの言う通りぼくは気を抜いて、稽古さえもまともにしないでぐったり柵にもたれて夏を過ごした。


 空は青く、雲は風に吹かれて誰が一番速いか競走を繰り広げている。誰が一番速く吹き飛ばされるのか、ついそんな事を考えてしまうのはもはや性だろう。


 空ばかり眺め、若い馬や人間たちに囲まれながら過ごす。それだけなのに若い馬たちは勝手にぼくの所にやって来ては騒ぐ。長年のこの生活のせいか目付きは鋭くなっているが、だから怒っているだなんて短絡的すぎる。ありふれた正論のはずなのになぜ騒ぐんだろうか。

 こんな風に穏やかに過ごす日々もまた全ては競争のため。競走ではなく、競争。そのために走り、そのために休む。それだけの話だ。

 そのおかげで、ぼくは去年勝てなかった南部杯をもぎ取ってやることに成功した。




「すげえよな、本当鉄の馬って感じだぜ、まったくどこまでカッケーんだか」

「……」

「ああいうのって憧れるよな、本当勝っても負けても動揺もせず余計なことを何も言おうとしねえ。まさに英雄だぜ」


 英雄だって、まったくおこがましい。

 その英雄とやらは、JBCクラシックもチャンピオンズカップも〇.一秒に跳ね返されたじゃないか。英雄崇拝とやらに勤しむぐらいなら、勝つ方法を考えていた方がよっぽどいい。

 走るしかない。走るしか。それしか能がない以上、その事だけを極めるしかない。




 だから今年最後のレースである東京大賞典。ぼくは勝ってやった。




 四度目の挑戦でついにこのレースを制したぼくは、もう八歳になっていた。


 同期は、もう誰も残っていない。七歳馬すらもう三頭しかこの厩舎にはいない。かつてヒガシノゲンブやワンダープログラムのいた馬房にいるのは三歳馬であり、まともに言葉を交わした事もない。








「まだ続けるんですか」


 年が明けて八歳になるや、浅野先生だけでなくぼくにもその言葉が投げ付けられまくった。自分が疲れているとは、まったく思っていない。

 疲れているんならば、川崎記念になんか出ようとは思わない。川崎記念にも出て、フェブラリーステークスにも出て、その後もまだまだ走り続けるつもりだ。


 フェブラリーステークスで引退?バカバカしい。引退なんかいつでもできるじゃないか。もちろん最終的な決定権はオーナーさんと浅野先生だけど、ぼく自身がやれるんだと言う証拠を示している限りはそうそうできるもんじゃないだろう。




 それで挑んだ川崎記念だが、残念ながらその栄光が手中に収まる事はなかった。中京や東京に比べればずっと短い直線で早めに仕掛けて先頭に立ったが、内からやって来た五歳馬に足元をすくわれてしまった。


「年を取って重たくなったと思って、早めに仕掛けたんですがやってしまいましたね」


 戸柱さんの言う通りだと思いたい。勝ったおととしと比べ一秒、三着だった去年と比べ〇.五秒も早いタイムだったのに早仕掛けしてしまって差されてしまった。






 そしてフェブラリーステークス。

 四度目のこの舞台で見事に二番人気を裏切り、あのシリウスステークス以来の掲示板外。


 前が空かない、空いた時にはもう一〇〇mも残っていなかった。これで着順が上がる訳もない。それだけのことだ。それだけのはずだ。ぼく自身、自分にそう言い聞かせた。



「ココロノダイチさん」

「ツイてなかったなー、キミと枠順が逆ならねえ」

「あははは……」


 グランデザートに対しド下手くそな上にピント外れな言い訳をして笑いを取りに行ったのは、断じて強がりではない。そう、強がりではないはずだ。

 ついにココロノダイチは終わった――そんな雑音を聞きたくはなかった。雑音の放ち手をアホにしたくなかったから。そう思える程度には、ぼくはまだ若いつもりだ。




 だから五月、ぼくは過去の存在であることを拒否した。川崎記念の悔しさとフェブラリーステークスでの悲しさをぶつけるかのように船橋競馬場の馬場を踏み荒らし、ココロノダイチ健在を見せつけてやった。

 一馬身差の勝利。中央競馬と地方競馬を一緒にするわけにも行かないけど、これでGⅠ級レース六勝目。







 ついに、ヒガシノゲンブとワンダープログラムの五勝を越えてしまった。


「すごいですよね、ココロノダイチさんって」

「何か秘訣でもあるんですか」

「逆にフェブラリーステークスは何だったんです?」


 記者さんや同厩の馬たちはともかく、よその馬さえもぼくに寄りかかって来る。

 健康とか、長生きとか、そんな物の秘訣があるんならこっちが聞きたいぐらいだ。


 この時ちょうど殿堂入りしたヒガシノゲンブとそれに匹敵するようなワンダープログラム、そういう名馬二頭と仲よくすれば行けるんじゃないかだなんて意地悪な答えを返してやっても良かったかもしれないけど、それで全てうまく行くんならば浅野先生は今頃日本の競馬の支配者だ。


「調教を怠るなよ、それだけだ。さあ次は帝王賞だ」


 こんな一般的な答えで逃げるのがぼくの精一杯だった。他に何が言える訳でもなかった。まだやれることが分かった以上、次のレースの事を考えなければならない。


 実際、ぼくの次の予定は帝王賞だった。六歳の時も七歳の時も勝てなかったレースだ。


 年を感じさせないと言う枕詞が付きまとう事にも慣れていたし、このローテーションにも慣れていた。八歳になって初めてのくせに、体はよく動いているし覚えている。

 もしこれが年齢から来る経験だとしたら、それこそあの二頭が到達できなかった境地じゃないんだろうか。最近ではぼくがただ歩くだけで、他の馬が路を開けるようになった。レースの時もそうしてくれればいいんだけどなーとか軽口を叩けばそうしてくれそうにさえ思えて来る。この考えをごう慢と思えない程度にはぼくも競馬ずれしてしまったと言う事だろうか。

 ヒガシノゲンブはあらゆる意味で尊敬されていたように思える。ワンダープログラムはアイドルであったように思える。その一方でぼくは恐れられているのかもしれない。


「今度どこ行くんだい?帝王賞?」

「マリーンステークスですよ、あなたが四年前に取ったね……」


 でもグランデザートもまたぼくがごう慢でない事を証明するかのように、坂路への路を開ける。この坂路もまた、一体何十回上って来たかわからない。みんなの汗とか涙とか、あるいは余計なものまで染み込んでいるかもしれないこの場所。

 今日もまたいつものように向かおうとすると、一頭のサラブレッドがそこにいた。





「あなたが鉄の馬こと、ココロノダイチさんですか」

「キミは?」

「ヒガシノゲンブの娘、ノーザンスザクと申します」


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