6歳2月 フェブラリーステークス

 クイーンカップの結果は、一着ランザプログラム、フェルスラヴァーは九着。


 圧倒的一番人気だったフェルスラヴァーの惨敗により、馬券は馬連万馬券三連単30万円越えとかなり荒れた。




「スタートからまったく無気力で、終盤ムチを入れたけどペースはまともに上がらず。ハイペースで崩れた馬をかわしただけです……何が悪かったんですかね…………」



 フェルスラヴァーがそうだったように、滝原さんも顔も上げられないほどに落ち込んでいた。昨年ワンダープログラムの主戦騎手としてリーディングジョッキーになったとは思えないほどであり、期待と失望のほどがぼくの目から見てもすぐわかった。







「ココロノダイチさん、あれは少しやりすぎでした」

「何がだい」


 で、三日後の水曜日フェブラリーステークスに向けて調教に行こうとしていたぼくにランザプログラムが並びかけて来た。まるで隠し事などするだけ無駄だと言わんばかりの顔であり、ワンダープログラムと言うよりヒガシノゲンブを思わせる顔だった。


「フェルスラヴァーはせっかく目先の栄光を三歳馬らしく楽しんでいたんです。浮かれ上がるには十分な理由がありました」

「ランザプログラム、ぼくはキミがああやって浮かれていたって同じ事を言ったよ。お兄さんは真面目だった、その上である程度意図的に浮かれられていた。地に足のついた浮かれ方をしている事ができたんだよ、天才だから。あんな天才の真似はするもんじゃないよ、ぼくだって同じ真似をして痛い目に遭ったんだから。落ち込む事も知らないでね」

「兄さんはそこまで落ち込んでいたんですか」

「ああ、わざとらしいぐらい自分勝手に落ち込んでいたよ。それを無理やりに叩き起こしたのがこのぼくだ。その事は絶対に取り消すつもりはないよ」


 薬が強すぎたとか言うつもりはない。ヒガシノゲンブですらワンダープログラムが投与した薬で立ち直ったぐらいだ。そんな薬を服用せずに栄光を得られるのは、天才ではなくただの奇跡だ。奇跡が何度も何度も続くはずはない、ヒガシノゲンブは天才であっても奇跡にすがるようなことはせず自分の力で全てを勝ち取った。奇跡頼みでいたらダービーの一発で終わっていただろう。


「私とてフェルスラヴァーのことまで面倒を見る余裕はありません。でもあなたのやった事は残酷です」

「わかっているよ」

「私だってあのレースを見て半ば彼女に失望したのも同じです」

「ぼくだって失望したよ」

「あの言葉は、川崎記念を勝った馬の言葉なんですからね。それが他の馬に聞こえていないとでもお考えですか」

「まさか」


 動揺がなかった訳ではないが、紛れもない真理だ。世の中は弱肉強食であり、優秀な成績を残した優秀な血の持ち主が生き残って行くのが競馬だ。多くの馬がそれに打ち勝ったり敗れたりして来た、自分だけ逃げようだなんて虫のいい事ができるかい。


「フェブラリーステークスを勝って下さいね」

「もちろんだよ」


 三日前と同じ事を言って来たのは、そうでなければ許さないと言うランザプログラムの怒りなのだろう。

 上等じゃないか。

 ぼくはもうこれ以上浮かれ上がったり舞い上がったりはしない。栄光をつかまねばならないのだ。


「さすがにその後はお休みですか」

「だろうね」

「その間にいい夢が見られるかはここ次第です。去年の東京大賞典の事を悔やんでいるのでしょう?」

「言われるまでもないよ」


 何度も何度もしつこいぐらい訴えかけて来る。あの時は気力が抜けていた。お客様のまんま惰性で過ごしたツケを支払わされた結果でありただの自業自得だ。


 ワンダープログラムに勝利を報告できなかった事を悔やんでいるのは変わらない。その悔しさをぶつけるとか言うありきたりな事を言う気もないけど、他に何ができる訳でもないのだから。










 フェブラリーステークス、一番人気。


 自分史上初めての話。GⅠとかじゃなく、デビューしてから初めての一番人気。とくに何かを思う訳でもない。これまでと同じように戸柱さんを乗せて走るだけ。


「一番人気より一着を下さいとか言うのはただだけど、人気だけは他人がくれなければダメなんだよね。一着を自分で取るしかないようにね」

「はい」

「はい……」


 できるのはそれと、後輩二頭に適当な説教を垂れる事だけ。ぼくと、ソウヨウアイドルと、グランデザート。

 ソウヨウアイドルはずいぶんと元気そうだけど、グランデザートは緊張しているのか五〇〇キロ越えの馬体がぼくと同じぐらいに見えて来る。


「お前変わったよな」

「どなたですか?」

「おや、ナンダカイケソウじゃないか」




 そして、四歳の頃にオープン格上げ初戦のオアシスステークスで一緒に走ってからもう二十ヶ月近く経つナンダカイケソウもまたこのフェブラリーステークスにいた。

 なんでも五歳になるやすぐ地方競馬に移り、そこで勝ち星を重ねて交流重賞にも出ていたと言う。すれ違わなかったのはすっかり短距離路線に転向していて、マイルがギリギリになってしまっていたかららしい。馬も変われば変わる物だ。


「そういやあの事」

「誰だっけそいつだってさ」

「ああそうだよなあ、これでほんのちょびっとでも思い出してくれりゃ幸いだけどなあ、単勝二〇〇倍越えが何を言っているのかっつー話だけどよ」

「フェブラリーステークスを単勝二七〇倍で勝った馬をご存知ですよね」

「ああ知ってるよ、でも四歳だったんだろ」

「遅すぎる事ってのはないですよねー、ねーココロノダイチさーん」

「ハハハハ」


 もちろんふたりはナンダカイケソウの事をよくは知らない。一時期ヒガシノゲンブがのを彼のせいにされていた時期もあったけど、今ではもうまったく過去の話だ。そんな過去を忘れたかのようにぼくは笑い、ソウヨウアイドルも続いた。ナンダカイケソウも笑っていた。


「まあレースに関しては恨みっこなしですからね」

「そうそう、お互い期待に応えなきゃね」


 グランデザートもいい笑顔をしていた。これなら大丈夫だろう、東海ステークスを勝ったおかげか二番人気になっているし、いずれGⅠ勝ちのチャンスも巡ってくるかもしれない。もちろんぼくの出ないレースで取ってもらいたい物だけれどね。



 ゲートが開いた。ピタリとスタートを決めて絶好の四番枠からいつもの位置に構えたぼくは、戸柱さんと共に外へとゆっくりと向かって行く。

 川崎記念と何の違いがある訳でもない、確かに砂の硬さとか直線の長さとかいろいろあるけど結局は同じだ。同じように走るしかない。


 直線に向いた。鞭がお尻に入る。


 ここだ!ワンダープログラムへの無念を武器にして、改めて彼に自慢できるような本物の栄光を掴むために。

 川崎記念のような焦りやたぎりはなく、あったのは自信と前へと進める空間だけだった。突っ切れる、先頭に立てる。あとはもうわき目もふらず走るだけだと思うと足が軽くなった。もう何を考える必要もない。







 ――二着ソウヨウアイドルと二馬身半差、四着のグランデザートとは四馬身差。全て内枠のおかげだろう。

 今年最初の中央競馬のGⅠレースの勝ち馬になったぼくに、目一杯の賛辞が投げ付けられた。快感を覚えずにいられない。馬も人も、この時のために日々を送っている。

 ウイニングランをしながら、もう一回泣いた。本当の本当に、ついにGⅠ馬になれたんだと言う自覚が、この時ようやく芽生えた。




「今のあなたは兄に似ています」

「朱に交わって赤くなったのかな」

「そうでしょう、でも兄もあなたも超一流です。その事をお忘れなく」


 ランザプログラムは目だけを笑わせながら、ぼくたちを迎えてくれた。そこにはワンダープログラムの妹と言う証はなく、ただ一頭のサラブレッドが自分の意志により動いている姿があった。

 ぼくは彼女がGⅠ馬になると言う未来を見ている事に彼女は気づいているのかいないのか、結局目以外は笑わないまま口を閉じた。

 公としてはもっとも正しい態度なのかもしれない、では私としての答えはどうなんだろうか?二ヶ月前のまだGⅠを勝っていなかったぼく。ひと月前に川崎記念を勝った喜びを伝えられなかったぼく。そして今、中央のGⅠ馬となっているぼく。それぞれのぼくがワンダープログラムにどれだけ似ていたのか。その答えを探し求めるのは、ただの野暮だろう。



「ソウヨウアイドルー」

「ああココロノダイチさん、次走が決まったみたいですよ」

「高松宮記念?」

「ボクのじゃなくてココロノダイチさんのです」

「そう、それでグランデザートは」

「当分ココロノダイチさんに会いたくないそうですよ、にしてもフェブラリーステークスは本当に強かったですからね、本当に圧倒的でしたよフェブラリーステークスは」


 栄光を得ると言うのは、孤独になる事でもある。これからは重荷にもなるのだ。ぼくはもう立ち止まれない事を、ソウヨウアイドルは教えてくれた訳だ。




 そんな風に覚悟を決めていたぼくは、いきなり飛行機に乗せられる事になった。










 行先は――――ドバイ。

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