6歳2月 後輩牝馬たち

 涙を涸らし切ったぼくが目を覚ますと、浅野先生が飼い葉桶を持って馬房に寄りかかっていた。ヒガシノゲンブが最後のレースから実質三週間もここにいた時点で本来は特別な話だったのに。

 ヒガシノゲンブの場合、海外遠征帰りによる検疫の問題、そして屈腱炎による突発的な引退の決定だった。ごたごたがあって当たり前だったろうに。


 それに対しワンダープログラムと言う最初から引退が決まっていた、大したケガもしていないような存在が四週間もここにいたのがまずおかしい。







「ヒガシノゲンブと同じ牧場にはどうしてもって事でね……ワンダープログラムとヒガシノゲンブを独占しちゃったらそれこそ不公平極まる話だからさ……それでちょっと難航してさ……本当、人間の勝手な都合でごめんね……」


 浅野先生は頭をなでながら、当歳(ゼロ歳)の仔馬に言い聞かせるように真相を話してくれた。確かに浅野先生はこの三年間、ずっと競馬界の中心にいた。紛れもなくヒガシノゲンブとワンダープログラムのおかげだ。それをまた同じように独占する事になったらそれこそ不公平と言う物だ。ましてやヒガシノゲンブは生まれの牧場に戻るだけとしても、ワンダープログラムは別の牧場の馬だった。

 まあいずれにせよ、同じ牧場に置けば結局またこのやり直しになる。名馬が名種牡馬になるとは限らないにせよ、もしそうなったら独占と言うか寡占が進む。成功が栄光を生むとは限らないなんて、結局人間も馬も同じだって事か。


「川崎記念は本当によくやってくれた、これからがお前の順番だ。頼むぞ、よろしく頼む……」

「はい……」


 浅野先生が夜通し構ってくれていたのか、朝一で来たのか、それとも目を覚ます頃を見計らって来たのか、そんな事はどうでも良かった。

 どうでも良くなかったのは、お腹が空いたことだけだ。先生が持って来てくれた飼い葉とグラスキューブにかじりつき、そして水を飲んだ。







 腹ごしらえを終えたぼくは、レースの翌日だと言う名目で時間を無為につぶす事もなく軽く引き運動した。冬だと言うのに空気は川崎競馬場に比べむやみやたらに温かく、そのくせ鋭い。その空にヒガシノゲンブを思い出していると、ひとりの牝馬おんなのこに声をかけられた。


「ココロノダイチさん、川崎記念おめでとうございます」

「ありがとう」


 その牝馬ことランザプログラムは、ありきたりな言葉しか言わなかった。ランザプログラムに聞いた所で、しょせんそれはワンダープログラムの返答ではなくランザプログラムの返答だ。ランザプログラムがそんなありきたりなセリフしか言わなかったのは、今のぼくには単純な賛辞を贈るのがベストだと言う正確な判断の為せる業だろう。実際その通りなのだ、その単純な賛辞がものすごく有難かった。ランザプログラムにワンダープログラムの妹だとか言う理由でその代わりをやらせるような暴挙などできるはずもない。

 GⅠレースを勝つこと。それは競走馬にとって最高級の勲章。ファンの人も、浅野先生も、戸柱さんもほめてくれた。でもワンダープログラムはここにはいない。


(「大したもんだよなあ、お前は!」)


 ヒガシノゲンブならばそうやって大仰にほめてくれたかもしれない。あるいはその後またあの笑い声を聞かせてくれるかもしれない。いずれにせよ、ぼくにとってマイナスの反応をしてくれる事はなかったはずだ。




「ねえランザプログラム、そういうのってないと思うけどなー」

「フェルスラヴァー、何が問題なの?」


 そのランザプログラムの友達のような存在がフェルスラヴァーだ。デイリー杯二歳ステークスと言うGⅡを勝ち阪神ジュベナイルフィリーズで銀メダル。うちの厩舎の期待の新星だ。陽気でおしゃべりな性格で、厩舎内の人気者だ。

 ぼくと同じマイナー血脈で、セリ市でいくらで買われたのかは知らないけど、新馬勝ちの賞金だけでお釣りが来ると言っていたことからそういう額なんだろう。ランザプログラムのそれとはケタが一つ違うかもしれない。


「あまりにも反応が淡泊すぎないってぇ話ー」

「フェルスラヴァー、今度のクイーンカップだけど」

「GⅠよGⅠ、GⅠを勝つなんてめったにできる事じゃないんだから。あーあ惜しかったなあ阪神ジュベナイルフィリーズ。まあそんなもんより桜花賞やオークスを勝てばいいのとか考えてる馬もいるんでしょうね、デビューから二連勝できるのに。ったくお兄様に似てご立派なお方よね」


 もし去年の十一・十二月ごろ少しでもテンションがまともだったら、彼女の明るさに癒されていたかもしれない。

 だがその時のぼくにはそんな余裕はなかった。あったのはワンダープログラムと言う桁違いの存在に対して抱いていた劣情と勘違いのライバル心、そして焦りだけだった。


「私には私の道がありますから」

「へぇー、どこ行く気?まさかダービー狙いとか?それともココロノダイチさんみたいにダート路線?別の道って言うからには桜花賞とオークスに来ないでよね。まあNHKマイルカップだったら別にいいけど」

「静かにしてくれる?」

「ああココロノダイチさん、川崎記念おめでとうございます!次走はやっぱりフェブラリーステークスですか、GⅠ連勝目指して頑張って下さい!私」

「キミはどれだけ偉いんだよ」

「ハァ?」


 ヒガシノゲンブやワンダープログラムと同じGⅠの舞台に立てるようになっただけで、勝てだけで、自覚症状もないままにうぬぼれられていた。まったくいい年をして何をやっているのだろう、派手に泣きじゃくるよりずっと恥ずかしい話だ。



「確かにキミはGⅡを勝った。素晴らしい事だよ。でもあくまでもGⅡはGⅡでしかない。ましてやまだ三歳だ、競走生活があとどれだけあると思っている?」

「さ、さあ……」

「しょせんはひと時の栄光に過ぎない。その栄光にしがみついて生きるにはまだ早すぎるんだよ、栄光ってのは得たすぐ後から負担重量に化ける。ぼくだって重賞勝ち、GⅠ二着二度の栄光から抜け出すのに一年かかったんだ。もちろんキミが強くてその栄光を得られ続ける可能性もあるけどね。そんなのは可能性に過ぎないし勝てば勝つほど挑んでくる相手は強くなる」

「ココロノダイチさん!」

「ぼくはこの前、川崎記念を勝った。でもこの後不甲斐ない真似をすれば、あれはフロックだったのかと後ろ指を指され続ける。単純な話、そんなのは嫌だ。だから僕は行くんだよどこまでも、競走馬なんてだいたいがそんなもんなんだよ」




 ぼくの出世が世間的に言って速いのか遅いのかはわからない。初勝利こそ三歳五月とかなり遅いけど、それから一年でオープン馬になったのはそれなりに自慢できる話だと思う。でも出世が遅いからと言って長続きする保証はどこにもない。


「ぼくは次のフェブラリーステークスも気を抜く気はない。GⅠとかそんなのは関係なくね。キミはもう自由にレースを選べる立場かもしれないけど、一戦一戦気を抜いてちゃいけない。疲れた?それは先生を信用していないからだよ。先生はちゃんとローテーションを組んでくれる、次が桜花賞なのか何か挟むのかわからないけど。おそらくクイーンカップでは一番人気に」

「もうやめてください」

「キミには言ってないよランザプログラム?ああ別にワンダープログラムの妹だからとか言う理屈を振りかざすつもりはないから」

「ごめん、完全に有頂天になって我を忘れてた……もういいよランザプログラム、あたしが全部悪かった。本当ごめんなさい……」


 フェルスラヴァーはぼくの長話に疲れてしまったのか、すっかりしおれてしまった。ぼくの言った言葉は、すべてぼくへのブーメランになりうる。受け止められるように強くなるしか方法はない。それが競走馬だからだ。


「ココロノダイチさん……」

「何だいランザプログラム」

「フェブラリーステークスは勝って下さいね」

「言われるまでもないよ」


 これは自分への覚悟のメッセージでもある。彼女の兄(ワンダープログラム)と言う存在を見ておきながら、ぼくは一年近く失敗を引きずってしまった。お前の目はどこについているんだとか言われても何も反論できない。ワンダープログラムに対する冒涜でもあるとさえ思っている。


「キミの兄さんの名前を汚したくないからね」

「頼みます」


 棒読みで返された事に対する動揺は別にない。ワンダープログラムの答えを求めていないくせに、ワンダープログラムの名前を使うような真似をしたからだ。見捨てられても驚きはしないつもりだ。



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