6歳1月 川崎記念
いよいよ一年ぶりに川崎記念へと向かうその日。ワンダープログラムはまだ馬房にいた。実に平凡な顔をして、予定よりも早く川崎競馬場に向かったぼくを見ていた。ワンダープログラムらしい、優しいエリートの顔。その顔に見送られながら、ぼくは馬運車に乗った。
ほんのわずかだけ、気が緩む。ワンダープログラムの平凡な顔、それに吠え掛かっていい意味でのケンカ別れをしたヒガシノゲンブ。
どっちも素晴らしい存在だった。彼らに恥をかかせたくない。これはそのための戦いであり、一年前まで甘えていたぼくとの戦いだ。
川崎競馬場に着くや、ぼくは再び戦闘態勢に入った。まだ時間はあるとかそういう問題じゃない、もう今から戦闘だ。
「…………」
みんな無言かと思ったらヒソヒソ話も混じっている。この年になれば見知った顔も増えるけど、今のぼくにとっては文字通りの有象無象だ。全てが打ち砕くべき対象でしかない。食うか食われるかだった。
そして戸柱さんから、ひとつの情報を聞かされた。東海ステークスをグランデザートが取ったと言うのだ。次のフェブラリーステークスでどうなるか、答えは見えている。
必勝、それしかない。改めて、走る事だけを考えた。
「それで……今朝……」
「え?」
「いやごめん何でもない」
戸柱さんたちの声すら、耳に入らなかった。まだ走るまで三日以上あるのに馬場の方ばかり気にして、全力でグランデザートのいるだろう中京競馬場の方をにらみつけた。
そしてそのまま、いよいよ運命の日が来た。一番人気にはなっていない。好都合だ。
パドックでも、これまでと同じように目をたぎらせる。他の馬全てをヒガシノゲンブかワンダープログラムだと思い、名馬たちに負けてなる物かと血をたぎらせる。
次は本馬場入場だ。
「うー、うー、うー……」
本馬場に入ると同時に、戸柱さんに聞かせる気もないのに勝手に声が出た。足を出すリズムとは全く別の声が川崎競馬場に鳴り響き、他の十一頭の馬に届く。見栄も外聞もどうでもよかった。勝利のためなら誰だって泣かした。ファンの皆さんの姿が急に消え失せたのが見えたけど、そんな事はどうでも良かった。
戸柱さんが後頭部をなでてくれる。
落ち着けよの合図だろうけど、自分では落ち着いているつもりだった。口と目がこんなに燃え上がっていると言うのに、頭は冷えていた。一月らしい寒気が頭を覆い、ぼくを最高の状態に仕上げていく。闘志をむき出しにしながら冷静な思考をしている、つまり熱い心に冷たいハートだ。
もう、何も怖くなかった。
ゲートが開く!
いいスタートが切れた。いつも通りの位置につける。ペースは遅め、その上に川崎競馬場の直線は長くない。となれば早めに仕掛ける事になるだろう、今日はその時までじっと待てた。
隣の馬が動いたが、バカめそれは早すぎるぞと思えるほどの余裕があった。それから5秒後に、戸柱さんのゴーサインが出た。
今しかない、ここしかない!
突っ込んで行く、直線を前にして先頭に立った。焦りはない、それこそ持っている全ての力を使って十一頭から逃げ切ってやるしかない。ブリンカーもシャドーロールも要らないとばかりに、前だけを見ながら首を落として走った。ゴール板すら目に入らないまま走り、そして戸柱さんにまた後頭部をはたかれた。
「うああああああ!!」
ありったけの大声で、吠えた。いななきとか言う程度のそれじゃない、ただひたすらに吠えた。
ついに、勝ったのだ。ウイニングランをしながら、ぼくは吠えた。
栗東トレセンにも、中山競馬場にも、中京競馬場にも届けとばかりに吠えた。
ヒガシノゲンブに聞かれたら俺の真似かよと言われる事を承知で吠えた。
戸柱さんもファンの皆さんも、ぼくの事を祝ってくれた。たかが700万円の馬が、ついにGⅠに値するレースを勝ったのだ。やればできるでもないだろうけど、こうしてやってみせるとあまりにも気持ちいい。
これこそ、ぼくらが取り憑かれるべき願望なのかもしれない。その願望がぼくを動かし、ワンダープログラムを動かし、戸柱さんや浅野先生を動かしていた。ぼくは喉を涸らしながら声を上げ、そして笑った。
全力で笑った。
———―だがその馬房には、誰もいなかった。
浅野厩舎に帰って来たぼくを待っていたのは、空っぽになったワンダープログラムの馬房だけだった。
どうせ東京大賞典に負けた時点で間に合わないことはわかっていたのに。
この前の週で一月の開催が終了する中山競馬場で引退式と言っていた以上、当たり前の話なのに。
ぼくがここを出て川崎競馬場に向かったほんの数時間後、ワンダープログラムは中山競馬場に向かい、そしてここに帰らず北海道に帰ってしまった。
ヒガシノゲンブと同じ年度代表馬として、GⅠ五勝馬として。
かつて背伸びしてさかしらぶっていたいばりん坊は、もういない。
そのいばりん坊がこの雑草気取りの牡馬にどういう声をかけるのか。それを教えてくれる存在はいない。
勝利の味が、一挙に消えて行く。栄光は文字通り砂のように消え去って行った。その砂は目に入り込み、まぶたを簡単に開けた。
六歳馬のくせにとか、言いたければ言えばいい。他にもう、何をする気にもなれない。負けてじゃなく、勝って自分の無力を思い知る。三ヶ月前のみやこステークスと大して変わっていない。いやその時は自分はこんなに弱いはずじゃないと言うぜいたくな悩みだったからもっと悪い。
「ココロノダイチさん……」
「あ、ああ、ソウヨウアイドルかぁ……次は」
「ご一緒する事になると思います、ダートでも行けると思いますから」
「あっ、そう…………」
四歳馬にまともに返答する事も出来なかった。これで何がGⅠ馬だ。ヒガシノゲンブにもワンダープログラムにも全然追い付けていない。数とかダートとかそんな問題じゃなく、ただただ格が違う。
どんなに高笑いをして上からの立場に立ってもぼくには等身大の馬として接してくれたヒガシノゲンブ、肩ひじを張っていばっていた時から真面目な優等生として一定以上の信望を集めていたワンダープログラム。
そのどちらにもぼくはなれていない。
同じダート路線の先達として、今のぼくはグランデザートにこの栄光を誇れるのだろうか。悔しさが給水係になり、過労死するほどに働いている。無論その資源はぼくの元気だ。
ああ、放水が止まらないのにダムが閉まって行く。
ダムの裏では、ワンダープログラムがあのさわやかな笑顔で笑っている。年度代表馬の称号を片手に飛行機に乗り込んで行く。声をかける事も出来ない、まぶたばかりに神経を集中しているせいで口が動かないから…………。
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