6歳1月 調教
正月の第一週に、金杯と言う重賞レースがある。もちろん重賞以外のレースもある。
そこに向けて走る馬がいるため、厩舎に正月休みなんて基本的にない。と言うかぼくらを飢え死にさせたくない以上しょうがないんだろうけど、その人の事を思うと申し訳なくなって来る。
「ハァ……」
新三歳馬たちも、お正月をいろんな気分で迎えている。当たり前だけど全員が輝けたわけではなく、八戦も走って未勝利に終わった馬や、故障や調整遅れで一戦も走れなかった馬もいる。そういう存在、取り分け前者に取ってこのお正月と言うのはめでたくも何ともない、と言うより借金の督促状を突き付けられたか処刑宣告を受けた人みたいな物だろう。
「処刑宣告なんて、みんなされてるんだぞ。ぼくの方がずっと刑の執行は速いけどな」
くだらないジョークだ。この厩舎から追放される事を処刑と言うのならば、ワンダープログラムはすでに刑を待つだけの存在だしヒガシノゲンブは既に処置された存在だ。そして死刑と言う事で言えば、それこそみんな執行される運命から逃れる事はできやしない刑罰だ。
「それが執行される日を引き伸ばすのが私たちの仕事ですよ」
「ランザプログラム」
お世辞で笑う仔もいたし、どういう意味だと聞きたげにする仔もいた。その中で一番冷静だったのはやはりランザプログラムだった。
「お兄さんと何か話さないの?」
「何も話していません。兄は厳格な馬ですから」
「そう……」
「兄はまだもうしばらくはここにいます。引退式をやらねばならないので」
「どこでだい」
「中山競馬場です」
引退式。
ヒガシノゲンブの時は屈腱炎を患っていたのでなかったけど、ワンダープログラムは健康体だから行える。にしても中山競馬場とは、この栗東トレセンからするとあまりにも遠い場所だ、せめて京都競馬場でやればいいのに。
「何かないんですか」
「ぼくも引退式をやられたいもんだね、そのためには次は川崎記念だから」
「そうですね、私もGⅠで負けてしまって。今度の重賞を何とかしないといけませんから」
中山競馬場でやる理由は分かり切っている。あのヒガシノゲンブの影でくすぶり続けていた時代でさえも、中山競馬場ではGⅡばかりとは言え四勝もしていた。京都や阪神よりもよほどホームグラウンドだ。もちろん引退レースになった有馬記念の事もあるけど、ワンダープログラムにはそちらの方がいいと浅野先生は考えたんだろう。ああ、正しい判断だ。
「それで予定はいつなの」
「少々事情がありまして長引くそうです、何せ殿堂入りもあるかもしれない馬ですからその購入額も相当な物で、20億円単位になるかもしれません」
ヒガシノゲンブも20億なら、ワンダープログラムも20億か。ヒガシノゲンブの時はオーナーさんの牧場に戻っただけだからともかく、ワンダープログラムはオーナーさんが牧場を持っていない。どこかに種牡馬として買われて行く事になるんだろうけど、それこそ20億円となればよほどの人間でない限り一生かけても稼げないお金だ。そしてヒガシノゲンブは今年もまた、それだけのお金を稼ぐだろう。
そんな存在に競走馬として先の見えている六歳馬が並び立てる方法なんて、ひとつしか存在しない。その方法を行使するために、ぼくは年始から走る。もちろん浅野先生の指示ありきだけど、少しでも気を抜く事は出来ない。
「そりゃさ、東京大賞典の悔しさはよくわかるけどさ……」
川崎記念の結果次第では、フェブラリーステークスを走る事もあるかもしれない。
だがいずれにせよ、もう手遅れだろう。
ワンダープログラムは、まだ厩舎にいる。引退式と言うのが時間がかかるのかどうか知らないけど、もはや何をするでもなくただただ空や地面に目を向けて過ごしている。その顔には、名馬と言う肩書きはまったく似合わない。それこそただの隠居だ。
種牡馬って言うのは、生殖活動の時に三ヶ月ほどそれを行うだけであとの九ヶ月はほとんど悠々自適の生活を送れる。そう、六~二月の間適当に甘えたり、食事したり、運動させてもらったり。まさしくいいご身分である。仮にシャトルサイアーとかでオーストラリアに行かされたとしても、繁殖期間である九~十一月以外はやっぱり暇である。レースと種付けの疲労は多分別物だろうけど、それでも選ばれた存在ってのはその後もいい生活を送れる物だ。今ワンダープログラムがこうやって過ごしているのもまた、ある種の予行演習でしかない。
「一月だってのに発汗がすごいな」
「疲労しているわけではないようですがね」
それに引き換えぼくと来たら、今日もまた調教だ。特段そのつもりもないのに汗が噴き出し、ぼくの体を濡らす。冬の汗はすぐ乾く、そして寒い。寒いのは平気なのがサラブレッドだけど、ぼくを見つめる目は熱かったり寒かったりする。
「言っちゃ悪いけどちょっとくさいですよ」
「これもまた戦う馬のにおいだよな、憧れるっちゃー憧れるけどさ」
まったく無意識のうちに汗くささがにじみ出ていたらしい。その汗くささを尊敬する馬もいれば嫌がる馬もいる。ヒガシノゲンブもワンダープログラムも普段こんなにおいをさせるような馬ではなかった。レース後でさえも、負けた時でさえも無味無臭だった。あんなにヒガシノゲンブへの贖罪に取り憑かれていたワンダープログラムでさえもだ。
「何をやってるんですか」
「何って調教だよ」
「もう終わったんでしょう」
「今日はね」
ランザプログラムは平気ですり寄って来る。好き嫌いで言えば多分好きなにおいなのだろう。ヒガシノゲンブもワンダープログラムも自らそういうにおいを出す事はなかったが、出す存在は好きだったはずだ。と言うかGⅠレースなんてそういう戦いのにおいに満ちた存在の巣窟だ。それに慣れなければ栄光などもってのほかとか言うのも古臭い発想だろうけど、言い負かされるほど老害じみたそれでもないと思いたい。ヒガシノゲンブやワンダープログラムのような天才でないぼくらには、ただ努力するしか道はないのだから。
で、ぼくが目の前のレースに向けて必死になっている間に、競走馬として見切られたユアアクトレスは故郷へと帰って行った。言うまでもなく繫殖牝馬としての第二の馬生のためである。そう言えばユアアクトレスもまた、戦いのにおいを感じさせる事はなかった。威勢の良かった三歳から四歳春の頃も、すっかり衰えてしまった五歳になってからも。勝負事にたらればもない物だが、もしユアアクトレスがそういうにおいを出すことが好きな馬だったらもっと勝てたんだろうか。
走れる時は走り、そうでない時は去年走った川崎競馬場を思い浮かべ、そして展開と勝利のシーンを思い浮かべる。食事も睡眠も、そのために取る。川崎競馬場に一緒に行く馬はいないけど、それでも闘志をあえてむき出しにする。ワンダープログラムやヒガシノゲンブのように、出したり引っ込めたりする事は出来ないから。
「あの、えっと……」
「ソウヨウアイドルはどうするんだい」
「しばらく休養して、それでその後はフェブラリーステークスから高松宮記念って」
「そうなんだ、じゃあ当分一緒に調教する事はないかな」
「ユアアクトレスさんは7000万円で別のオーナーさんに売られたそうです」
「そうかいランザプログラム」
「はいそうです」
馬房と調教馬場の往復、それから馬房と調教馬場の往復だけで一日は終わる。そうでないならばそれに従うだけだ。レースを勝つためにここにいる、当たり前の事だろう。
「それでココロノダイチさん」
「ああ?」
「な、なんでもありません……ハイ」
ちょっとにらんだだけでこのザマとは。右横にいたランザプログラムの顔が実に悲しそうに歪んでいる。あの兄の強さを受け継いだ彼女には、ああいう柔弱な馬は耐えがたい存在に映るんだろう。ああ、大した馬だ。
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