外伝-3 競馬記者と5歳になったココロノダイチ
「ワンダープログラムは届かなかった!」
そんな事を言われた有馬記念だったが、その馬体に悲壮感はなかった。ワンダープログラムは大人になっていた。その結果多くの人間の財布を軽くしたのもまた事実だが、それでも来年以降が楽しみだと思わせる程度には彼は輝いていた。
秋の天皇賞のパドックにいたワンダープログラムは、オールカマー以前の彼ではなくなっていた。これまでのようにただ一生懸命でありながら、同時に機械的にも思えたぎこちない彼の姿はそこにはなかった。
ずっと自分にのしかかっていた
何より、京都大賞典の取材の時に私が見たのは何だったのだろうか。
「先週ワンダープログラムはココロノダイチと一緒に併せ馬やったんだけど、本当に切れが増してたね。いつも調教は走る馬なんだけど今度はかなり決まってたよ。仕掛けるタイミングを変えてみたんだけど素直に反応してね」
かつてワンダープログラムはワンダーではないただのプログラムのように、必要なはずのコマンドをいくら入力してもタイミングと言う条件を満たさない限り本来の力が実行されない存在だった。いつもそのせいでヒガシノゲンブに勝てず、差も詰まらない。スローペースに落とされた宝塚記念など、もう少し早く仕掛けていれば逆転はともかく差は小さくなっていたはずだ。
競馬と言うのは、現実よりもっと急速に物事が動く。有馬記念こそ一番人気だったワンダープログラムだけど、秋の天皇賞では四番人気だった。ヒガシノゲンブさえいなければと言うのが言い訳であることを示す、あまりにも残酷な数字だった。
もちろん、もっと残酷なのはワンダープログラムの走りだったのだが。これまでと違っての最後方待機直線一気に賭けたそのやり方がまったく大当たりし、期待に応えながら裏切りを演じた。
「日本の競馬が世界に追い付いたのかどうか、それはまだわからない。確かなのはヒガシノゲンブと言う馬が凱旋門賞と言うレースを一着でゴールした事だけであり、それが他のサラブレッドにどのような影響を与えるのか。ヒガシノゲンブは、ただその驚異的なスピードとスタミナ、それにある種の狂気によってのみ名馬足らんとしている。だがそれは決して特別な存在ではなく、ひとつならば山といる。ふたつならば時々いる。三つ揃うのが珍しいだけだ。もちろんヒガシノゲンブはまごう事なき名馬ではあるが、その存在がもし他国に生まれていればその国に栄光をもたらしただけにすぎないと私は思っている。」
ヒガシノゲンブに対しこんな論評を下した元調教師の方もいる。スピードとスタミナ、そして狂気。何より狂気と言う部分こそヒガシノゲンブの中心なのかもしれない。そしてその狂気に当てられた存在は、ほぼ間違いなく道を狂わされる。
「JBCに気持ち行っちゃってワンダープログラムを見てなくて、そのせいでJBC当てないと旅費がヤバいんだよね、ちょっと貸してくれない」
「貸すほどありませんよ」
野上さんのように、ワンダープログラムを見切ってしまって大損をしたファンは多い。こっちだってワンダープログラムを本命にしながら二着が抜けていたせいでお金ないんですけどと言う言葉を無視しながら、野上さんはうちの他の競馬担当記者と共に酒をのどに流し込んでいる。
「でさあ、ココロノダイチってどうなのって思ってるんでしょねえねえ」
「ココロノダイチですか、とりあえずGⅠレース初挑戦って事でまあ場慣れしてからでもって事で。一勝クラスこそ一発合格でしたけど二勝クラスは三戦、三勝クラスは四戦かかっていますし」
「と言っても一応印は回すんだろ」
「まあ一応三角ぐらいは打つつもりですけどね」
ココロノダイチについては私自身よくわかっていない。ヒガシノゲンブ・ワンダープログラムの両方と懇意な存在だって事だけはわかっているが、どうもそれほど目立つ馬ではない。
強いて言えばダート路線らしくやや大柄であまり長く休まず使っている程度にはタフな馬ではあるが、着順を見る限りどうもクラス慣れが必要なタイプに思える。確かに近走は好調だが、それはあくまで近走にそれにすぎない。
「あれはたぶん、いい仔よ。とってもとっても真面目ないい仔。でも太田さんが言う通り当分は勝てないよ。だから私は太田さんの言う通り当分は頭じゃなくてヒモ扱い、まあ私の買う馬券の大半は単勝だから当分買わないだろうけどね~、そんなお金ないもん」
酒を飲むお金はあるんですねとは言わない。
基本的に地方競馬回りをしている野上さんはダートの成績は私よりずっといい。もちろんライターとしての収入もあるだろうが、それこそ植木等がいないよと言っていた「馬で金儲けした奴」なのだろう。酒代のみならず交通費や光熱費さえも馬券で払っている。絶対にまねのできない話だ。
とにかく私は、ココロノダイチにJBCクラシックでもチャンピオンズカップでも東京大賞典でも、二着ならあるかもと言う△の印を回し続けた。その間にワンダープログラムが有馬記念で負けた時にも同じように扱い、二勝二敗の結果を残した。
「大井って十二月三十一日まであるんでしょ」
「そうなんだよ、それで勝っても負けても競馬場で越年なんだから」
東京大賞典にまで駆り出されクリスマスをまともに楽しめなかったのは参ったが、それでも財布の中身を空っぽにして女房子供にプレゼントをやった事で少しは機嫌も良くなった。
かつて中央競馬を担当し今は地方競馬担当に回されている先輩などはこの時期になると家族とのコミュニケーションが取れないと嘆いており、その愚痴を聞くのもまた恒例行事になっている。今年はまだ東京大賞典を当てたので機嫌がいいが、負けた時はそれこそこちらまで越年させられそうなぐらいに付き合わされるからたまった物ではない。
「でもどっこいどっこいだと思いますけどね、陸上担当と」
「だよなあ、あそこはニューイヤー駅伝と箱根駅伝だろ?十二月三十一日までオーダー変更とかって駆り出されるからさ、正月がめでたくないどころか一番の修羅場だよ」
「お年玉を一月五日まで待ってくれって土下座した人もいますからね」
「しかしさ、独身者は気楽なもんだよね。ここにいる連中と同じようにさ」
中央競馬でさえ種牡馬になれる牡馬は一%未満だ。地方競馬で走っているようなのは、それこそ中央に転厩するなり交流GⅠを勝つなりして名を上げなければまずその見込みはない。その点では後先を考える必要もなくてお気楽に思える。
「そんでさ、野上さんとお前よく飲んでるだろ?」
「ああまあ、誘われたらあまり断らないだけですけど」
「言われたんだよ、ワンダープログラムは変わったって。有馬記念はこけたけど来年は絶対主役になるって」
確かにあの天皇賞、いやその前の調教を見る限りその可能性は高い。でも四歳秋と言えば晩成型でもない限り馬は固まる物だ。私だってまさか競馬記者になるとは思わなかったにせよもうそろそろ新聞記者になろうと言う現実的な夢を見ていた時期の話だ、そこからさらに変わるようなことが何かあったと言うのか。
「とっても真面目なおぼっちゃん」
その言葉は、勝負の場においては絶対に褒め言葉じゃない。優しすぎて勝つ意欲に乏しく、負けてもまあいいかで済ませてしまいそうな存在。たまに本気になったとしても、育ちの良さゆえに相手を悪く言ってはいけないと思い絶対に責める事はしない。
そう書くとカッコよく聞こえるが、実際はそれゆえに仲間にすら迷惑をかけられないと思い、自分だけの中で負のスパイラルにハマって行く危険な流れである。それを変えるような存在と言うのは一体何なのか。
その疑問を抱えたまま正月三日間だけの家族団らんを過ごして金杯の予想に向かい、そしてまたエンジンをかけ直している間に川崎記念の時期が来て、それでようやくその疑問をぶつけられそうな相手との時間も取れた。
「で、サラリーマンギャンブラーがなんでまた私を誘いに?川崎記念のことでも聞きたいの?」
「まあそれもありますけど、野上さんって確か生まれは」
「ああこれでもお嬢様だったのよ、今じゃ見る影もありゃしないけど」
あなたと同じように普通に就職したのにそこで競馬担当に回されて興味を抱いてしまったのが運の尽きとか言いながらシラフのまま高笑いするその姿に、お嬢様の二つ名はあまり似合わない。そう、あくまでもあまり似合わない。
「それもありますけど」
「それもありますけどって、ったく面倒くさいなぁ。ああまずはお酒でしょ」
「今日は一杯もらいますよ」
「そうじゃなきゃね、サラリーマンをたまにはやめなさいよ」
酒を飲むのもサラリーマンの仕事とか寝ぼけるつもりもないが、それでも結局の所必要なのは紛れもない話である。私がぐっと日本酒を飲み干すと、野上さんはようやく酒を口にした。
「ああうまいですねえ」
「たまにはいいじゃないのねえ、鬼嫁もらっちゃったわけでもあるまいし。それでワンダープログラムの事でしょ?あれはあくまでもおぼっちゃんのまんま。天皇賞の一発屋だなんて言うんじゃなくて、おぼっちゃんのまんま強くなったの」
「あのココロノダイチについて」
「ったくもうせっかちなんだから、確かにワンダープログラムはおぼっちゃんよ、でもそれはヒガシノゲンブだって同じ。おぼっちゃん同士秘かにあったのかもね、同族嫌悪って奴が。そんで先に誰かがヒガシノゲンブの心を傷つけちゃった訳よ、それであのハンマーは振り回され出してね。その結果ワンダープログラムは、まあ自分がどれだけ悪いのかはわからないけど全部自分のせいだと思い込んじゃったの」
「それで自分で何とかしなきゃ自分で何とかしなきゃと」
「ああそういう事、そのおぼっちゃんを変えたのは多分全く別の存在。おぼっちゃんではなくただの馬として触れていた存在、そういう存在しかあれを変える事は出来なかった」
「それがココロノダイチだって言うんですか?」
「もう、アルコール医者に止められてる訳?」
「ただ酒ほどうまい物もないんですよ、逆もしかりで」
「情報だってただじゃないんでしょ新聞記者さん、私を甘く見ちゃダメよ」
ロングヘアーが私に向かって飛びかかるように流れ、肌とのコントラストがきれいに輝いている。どれほど手入れされているのかはともかく、おそらくは生まれつきとおぼしきその両者が野上さんに説得力を与えていた。
「まあおそらくはそうでしょうね、でもココロノダイチはあなたが思っているほど苦労人じゃない、重賞勝ち馬の時点であれはもうエリートなの。そしてGⅠ初挑戦から二ヶ月足らずで二着、それに浮かれ上がれる程度にはワンダープログラムと同じおぼっちゃんよ。ワンダープログラムがそうだったように、一度つまずくとなかなか立ち直れないかもしれないわね」
情報料とばかりに二杯目と言わずに三杯目の酒をあおると、ようやく野上さんはココロノダイチについて話してくれた。超エリートと言うべきワンダープログラムやヒガシノゲンブに比べればココロノダイチは雑草血統だが、それでも確かに四歳秋に重賞を勝つと言う時点で紛れもないエリートなのである。エリートが打たれ弱いと言うのは一般論だが、それでもココロノダイチは初勝利まで時間がかかってはいるが後はほぼ一直線の出世ぶりである。
まさかそういう所が似ているからこそ仲良くなれたとでも言うのだろうか。ワンダープログラムはヒガシノゲンブと違い厩舎内ではかなりモテていたが、それでもなお本当に大事にしてくれたのがココロノダイチと言うまったく遠いはずの存在だとすると、結局類は友を呼ぶ物なのかもしれない。
それから三ヶ月後、またもや勝てはしない物の健闘と言う結果を二度繰り返したココロノダイチがマーチステークスに出走登録した。
だがそこにいたココロノダイチは、すっかりしなびて無気力状態になっていた。
で、レースはと言うと案の定チャンピオンズカップやフェブラリーステークスで見せた時のようなたくましいと言うかふてぶてしい走りはなく、ただただ動いているだけ。重量や連戦とも違う物がココロノダイチからやる気をはぎ取っていた。
「ひどい走りね」
「ええ……無印で良かったですよ」
ブービーに終わったその姿は、ダービーの時についでで見た未勝利戦の時よりずっとみすぼらしかった。
そしてそのみすぼらしい姿はかしわ記念でも、シリウスステークスでも変わらなかった。デビュー戦を除けばゲートをいつもすんなり出ていた馬が、かしわ記念では大出遅れ、シリウスステークスではかかって暴走。まるで背中に気力がない。
ワンダープログラムが緒戦の阪神大賞典こそこけたものの、肝心のGⅠで楽勝を繰り返しヒガシノゲンブの後追いで凱旋門賞に向かう中、ココロノダイチは地べたを這いずり回っていた。
「ひどいもんですよね、脚のこなしはともかく気力が伴ってない感じで」
みやこステークスの追い切りも同僚の言う通りの有様で、これはいくら何でも無理だなと言う空気をかもし出させるには十分すぎた。
だが、空気なんて読むもんじゃないと言わんばかりに結果は一着。何が終わっただよと勝手にファンを怒らせ、その分だけ私たちに被害が来た。しょうがないじゃないか、だって浅野先生さえや戸柱騎手さえもまだ気力が戻ってないって言ったんだから。
「まさかと思うけど小川さんが」
「そう小川さんが買ったのよ」
で、JBCに張り付いていたはずの野上さんはこれだ。今回はWINSに来ていたと言う小川さんとやらのおかげで、野上さんは秋のGⅠ連戦の資金ができたと満面の笑みで缶ビールを渡してくれた。苦みが一層引き立つ、まったく実にタイムリーな味だ。
そしてその好調と不調を引きずったまま秋が終わり、年が終わろうとしていた。
「本当に財布は空っぽ同然でしてね」
「ああそう?」
野上さんにまた缶ビールをおごってもらいながら、マフラーを首に巻いて手を震わせる。今年の最後の仕事であるこの予想が終わったら、それこそあとは休むしかない。この仕事納めを何とかしなければ、本当の本当に四月から危ないかもしれない。
「下手するとこれが最後の出会いになるかもしれないんですから」
「まあねえ、その時はまた連絡ちょうだいよ、ただ酒ごちそうするからさ」
「ありがとうございます」
前走の無気力ぶりに逆に感心し、あれでも勝てるんならばここではと言わんばかりに本命にした。馬券も新聞に載せた以上の額に買い込み、それこそダメなら残り年末まで無一文同然で過ごすしかないと言うつもりでの大勝負だった。
「私も本命なのよ、ココロノダイチには頑張ってもらわないとねえ」
野上さんも付いているんだ、何を恐れる事がある。さあ、大勝負だ。
行け、行け、来い、来い!前走と違い気合に満ちたココロノダイチに向けて私は声援を飛ばす。サラリーマンギャンブラーからサラリーマンを捨てて、ギャンブラーになった。ギャンブラーとしてとなりの女性と共に、目一杯はしゃいだ。
だが、届かない。二着では意味がなかった。
ココロノダイチが悔し涙を流しているであろう一方で、私も泣いていた。馬連でしか買わなかったからちょっともったいなかったかなーと舌を出す野上さんと、馬単で買ってしまった私。丈が倍ほど違ってしまった中年男女が、年末の競馬場で泣き笑いした。
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