外伝-2 競馬記者が見た春の天皇賞と宝塚記念

「大阪杯の悪夢」と言うタイトルで、延々五日分のスペースが埋まった。

 そのための取材で桜花賞のそれがなあなあになってしまったのはまずかったが、その中で一頭のサラブレッドの存在が再び浮かび上がって来た。




 ココロノダイチだ。あのダービーの日に初勝利を挙げた彼は、これまで三度ほど本命にして一勝二敗の結果を私にもたらした。



「それでどうなんです今度の天皇賞」

「さんざんお叱りをもらったからね、今度ばっかりは逆らわずに逃げさせるよ」

「本当にやるんですか」

「やるしかないだろ、滝原騎手はワンダープログラムに乗る事が決まってるし。あの後滝原騎手も相当に参ってたからね」

「それでふたりの仲はどうなんです?厩舎の中では案外仲良しだとか」

「皐月賞まではそうだったんだけどね、あのダービー以来最悪でね。ヒガシノゲンブにはココロノダイチぐらいしか寄って来ないし、ワンダープログラムはヒガシノゲンブに近寄ろうとしない。ココロノダイチとはそれなりに仲良しなんだけどね」




 ワンダープログラムが他の馬に迷惑をかけた話を私は一つも知らない。非常に温和で、それでいて競馬には非常に熱心。王子とか、紳士とか、貴公子とか、そんな風に呼ぶファンもかなりいる。


 一方でヒガシノゲンブは、同じ良血のはずなのに怪物だの肉食獣などおよそそこから遠い言葉ばかりが並ぶ。







 春の天皇賞。その肉食獣ことヒガシノゲンブはやはり私たちを悩ませる。



「ヒガシノゲンブは既に終わった、そうでないとしても当分かかりそう」

「前回は一年前の感覚で乗ろうとした滝原騎手のミス、今度は鞍上が戸柱騎手に変わり大丈夫」

「大丈夫かどうかとりあえずもう一回見てみたい、その後の事はその後考える」



 この三通りの意見が、ファンのみならず専門紙ですらごちゃごちゃになっていた。



「増減なしですね」



 馬が検量室に入る姿を見届けられるのは競馬記者の特権だ。

 調教を終えた姿を一般のファンが見られるのはそれこそパドックとかで、その頃にはすでに予想を検討する時間はない。その分だけ予想は正確になるはずなのに、それでも当たらないのが現実である。


 それでその時のヒガシノゲンブの姿と来たら、馬体重に増減がないように毛ヅヤにもたてがみにも尻にも何の変化もなかった。大阪杯の時のまんまだ。ダービーや菊花賞の時のように殺気立っておらず、むしろやたらにおとなしい。その姿を見た上でヒガシノゲンブを本命にする記者もいるし無印にする記者もいた。


 私は結局ワンダープログラムより上の対抗評価にしたが、新聞の中で八人が予想印を付ける中で対抗にしたのは自分一人だった。後は本命か無印しかない。本命ワンダープログラム、対抗ヒガシノゲンブすらいない。土曜日の時点で馬単一番人気の組み合わせなのに、十紙近い他紙全てを合計してもそんな組み合わせは五人もいない。


「プロの目から見てヒガシノゲンブは今回どうなんです」

「勝つか負けるかでしょうね、もし勝つとすれば大差、負けたとしても大差でしょう」

「それで先生は勝つと」

「はい私はね、滝原騎手が少し大事に乗りすぎたのがいけなかったと思っています。思いっきり振り回して全てを叩き潰すぐらいでいけば勝てると思っています」

「でもその一方でこちらは無印ですけど」

「正直ね、調教に覇気がなかったんですよ。タイムはいいですけどなんていうか流しているって言うかやっつけ仕事って言うか。それでもダービーの時はうまく行きましたがちょっとあそこから一挙に浮上ってのは難しいと思います、本番は宝塚記念でしょうね」


 テレビ番組に出ている記者や大御所評論家までこれだ、もう訳が分からないと言う事以外何もわからない。


「で、ワンダープログラムは?」

「今回もまあこれまで通りに走るだろうね」

「そうだよな」

「それでヒガシノゲンブを捕まえられないと見て対抗にしたけど」

「ぼかぁヒガシノゲンブは来ないと思っているけど」

「来ないだろうね、逃げ切るから」

「逃げるのかね、まあ浅野先生は逃げるって言ってたけど」


 その一方でワンダープログラムには「いつも通り」と言う表現がおそろしくよく似合う。ギャンブルに関係しているとは思えないほどに堅実で決して期待を裏切らない。実際、この天皇賞でも全員が本命か対抗の予想印を売っていた。これより下に落ちる事は絶対にないと言う信用の証だ。


 けれど、話題の中心にはなれない。ワンダープログラムの話はすぐにヒガシノゲンブの話になる。私が振ったのがその原因なのかどうかは分からないけど、この点では両者の実力差は歴然としていた。そんなもんで勝って何になるってのもごもっともなお話だが、それもまた現実だった。






 それで当日。単勝倍率で二.〇倍と四.三倍と倍以上の差があった両頭の人気差は、当日になるや急に縮まった。


「そうなのよ、あの小川さんなのよ。朝一番でやって来てヒガシノゲンブの単勝を100万円買ってってね、それからあっという間に京都競馬場でね、ああ東京やあちこちのWINSでもって」

「小川さんの画像は」

「ああ取れなかったのよ、何せ私も一度しか見た事なくって今回も又聞き。とりあえず大阪杯の負けを取り返すべく電車賃以外全部ヒガシノゲンブの単勝に突っ込んだから」


 新聞記者ってのはフットワークの軽いもんだろと思われているが、実際はそんなにうまい話もない。何に付け一人では対応しきれない事態に備えるために、じっと本社に残って待機してなきゃいけない人間もいる。それが今週は私だ。

 だけどインターネットって奴は恐ろしい、あっという間に情報が広まる。新聞ってのは夕刊があったとしても十二時間はかかる。その十二時間の間に情報は更新されあっという間に置き去りにされて行く。私も最近、死ぬまで新聞記者でいられるかどうか自信がなくなって来た。

 しかし何だと言うのだ。自分たちが丹精込めてしたはずの予想が、よくわからない男性一人によって簡単に覆されて行く。馬券とは大人の趣味であり余裕をもって買う物だとか言う建前などとっくの昔に空文化しているとは言え、そんなきっかけでみんな馬券を購入して良いのだろうか。私だったらそんな事は独身だったとしてもできない。もし私の価値観がアナクロニズムだと言うのならばそれでもかまわない、ただ責任は取れないと言うだけの話だ。まあ正午になるとほぼ同時にヒガシノゲンブが一番人気になった以上、子どもにも言えない繰り言でしかないのだが。







 そしてワンダープログラムもまた、あまりにもあっけなくヒガシノゲンブによって蹂躙された。


「これこそ本当のヒガシノゲンブ!ワンダープログラムは今回もまたまったく相手になりませんでした!」


 菊花賞と二〇〇m距離が違うだけのレースは、ほとんど同じように決着した。結局前走を過剰に気にし過ぎた人間がバカを見たと言うだけの話だ。

 極めて穏やかな顔でパドックを回り、返し馬をして、ゲートが開くや否や隠していた闘志をむき出しにする。そして三分ほどかけて絞り切り、ゴール板を通過するやすっとその前のおとなしい姿に戻る。


「ワンダープログラムなりに完璧なレースはしました。でももう少し早く仕掛けようと思ってもどうにもいざという時が来るまで動かなくって、ゴーサインを出すべき時に出せば確実に伸びているんですけど……」

「ヒガシノゲンブについては」

「とにかく無事平穏に、一戦でも長く現役を続けて欲しいなと思っています……」


 そして、あの高笑いで他馬やライバル騎手の心を打ち砕く。あの滝原騎手がインタビューに涙声で答えていた。目は濡れていないが、それがリーディングジョッキーとしてのせめてもの矜持なのだろう。

 栄光を失った存在だけでなく、与えられた存在である浅野調教師もまた苦しんでいる。天皇盾の授与式と言う圧倒的な栄光の場なのに、視線は下を向き口は堅く結ばれている。かろうじて視線だけはその舞台にふさわしかったが、目が笑ってるからそれで十二分だろとでも言いたげにさえ聞こえてなおさら痛々しい。




「ワンダープログラムは」

「精神的疲労は全くないね。中山記念からドバイ、天皇賞と使って来たのに。もう次に向けて意欲満々って感じでね。もちろん次ってのは宝塚記念だけど」

「ヒガシノゲンブはどうなります?」

「もちろん出しますよ」


 競走馬にとって身体も精神も頑健なのは才能の一つである。だが今のワンダープログラムの頑健さは少し過剰にも思える。

 この一年あまりで、ワンダープログラムのファンの数はあまり変わっていない。だが横滑りした訳ではなく、何度やっても勝てないワンダープログラムに愛想を尽かした人間の数と、二、三着を繰り返すイマイチキャラとしてファンになった数がほぼ同数と言った印象だった。そして後者は、いつかワンダープログラムに勝って欲しいと共にヒガシノゲンブに後塵を拝し続けるワンダープログラムを見たいとも思っている。


 ダービーも菊花賞も天皇賞も、ワンダープログラムは勝てなかった。二歳の時から騎手の言葉に従順で賢いはずの馬が、全く戦法を変えようとしない。菊花賞と天皇賞は同じ競馬場で二〇〇mの差しかない以上同じようにやっても勝てないはずなのに、ワンダープログラムはやり方を変えようとしない。これで勝てるはずがないと言うのに。


「でもまあ、平場では儲けたんだろ?」

「まあ一応、でもココロノダイチは三番人気でしたし配当はそれほど」

「キミだってここ三戦全部ココロノダイチを本命にしてたじゃないか、三度目の正直だな」


 惚れたと言うほどでもないけど、行けると思った馬を当たるまで追いかけるのは穴党の性と言う物だ。次のレースは昇級戦と言う事もありまた人気にはならないだろう、その時もまた追いかける。

 ただし馬券を買うかどうかは別問題だ、無責任な話だがこれもまたサラリーマンの現実である。









 それで宝塚記念。これまでの敗戦で両頭の馬券人気にはすっかり差が付いている。その分今度こその夢を追うファンも増えるのもまた競馬だ。


「ワンダープログラムのファンは減らないのよねえ、何度負けても。そしてまた騙されるのよ」

「野上さんは一体何人に」

「十人、いや何十人単位よ。ゼッタイショウリ、アシタノホホエミ、ダイセイカイ、ダイヤクライアント……ああでもフシギダイチだけはちゃんと最後まで」


 人間ですよと言うツッコミは控えたが、実際その通りだ。来ると信じていたのに来ない、それを繰り返して大半の人間は何もかも失っていく。競馬で身上を崩した人間はほとんどがそのパターンだ。

 でも残念ながらと言うべきか、たまに成功する人間もいる。


「あなたまさかワンダープログラムを本命にしてないでしょうね」

「してませんよ」

「それがいいわよ、ファンにはなってもいいけど」


 ワンダープログラムの毛ヅヤは、一年前と変わらず美しい。だけど最近はそれがどこか噓くさく見えて来る。パッと見では華麗で人目を引き付けるのだが、よく見ると全身から無駄に気合が垂れ流されている。その分だけ王子様は余裕を失い重たくなっていく。あるいはヒガシノゲンブも同じ重さは背負っているのかもしれないが、だとするとどうしても強い方が支持される。






 結果は今回も同じだった。もう三回も同じ負け方をしているのに、それでもなおワンダープログラムはヒガシノゲンブについて行こうとしない。これまでと同じように、中団に構えて直線に抜け出す。ただそれを漫然と繰り返しているだけ。何の変化もない。


「おいワンダープログラム!」

「おい勝つ気があるのか……」


 同厩のユアアクトレスの目の前で、また後塵を拝した。ユアアクトレスとヒガシノゲンブも仲は良くなく、皐月賞の後からほとんど犬猿の仲レベルの溝があるらしい。一方でワンダープログラムとユアアクトレスはかなり蜜月なようで、馬運車にも二頭まとめてやって来たほどだった。


「えっいきなりプレゼント?」

「男の甲斐性って奴だよ」


 誰だって愛する男の不甲斐なさを認めたくはない、一度のみならず四度までも同じ相手に負ける。そんな男になりたくはないから、私は馬券を当てた訳でもないのに自腹をぶった切ってネックレスを女房に買った。

 あまりにも情けないレースが続いた時ワンダープログラムならばら何をするだろうか、それを考えるのもまたこの仕事の愉しみではある。ワンダープログラムの場合、仮に人間のように自由な時間や手足があったとしても陸上の練習しかしなさそうだが。







 しかしワンダープログラムが日本でくすぶる中、ヒガシノゲンブはフランス行きか……フランス語なんぞ全く話せない身が言うのもなんだが、ああ全くうらやましい事だ。


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