外伝 競馬記者たちが見た馬たち

外伝-1 競馬記者が見たヒガシノゲンブたちの一年間

※外伝と称して競馬記者がその視点で彼らの活躍を見守る作品を全4作記しました。本編の倍の容量なのでご注意ください。













 皐月賞に続き、オークスではずいぶんと名を上げる事ができた。元々穴馬コーナー担当の身とは言え、こうして大穴を実際に的中させると月曜日の紙面に大きく名前が載る。新聞記者のはしくれとして誇らしい話だ。


 もちろん、一時の成功に浸っている訳にも行かない。




「太田さんお久しぶりです」

「浅野先生よろしくお願いします」


 浅野治郎先生だ。相変わらずの西高東低の冬型ならぬ競馬界だが、実際今年のダービーも18頭中13頭が関西馬だ。東京競馬場の馬房にも浅野先生以下関西の厩舎の馬がずらりと並んでいる。


「皐月賞はまあ、そのずいぶんとお見事でしたね」

「ハハハハ、まあ一応これで飼い葉喰ってますからね。新聞記者とは言えあんまり外しちゃうのはねえ。最悪会えなくなるかもしれませんし」


 この生活を続けてすっかり顔見知りになった浅野先生とも適当にジョークを飛ばしていると、いきなりものすごい声が耳に入り込んだ。いななきとは違う、吠えるような声。


「ああ、ちょっと待ってくれ。ヒガシノゲンブだよ、昨日からどうもおかしいんだ」

「……ずいぶんと荒れてるんですね」


 恐ろしい声だった。闘志とかとは違う、どちらかと言うと憎悪に近いうなり声。それが何より恐ろしかったのは、発声者がヒガシノゲンブだと言う事だ。






 数日前の追い切りの時のヒガシノゲンブは、まったく冴えなかった。ラストの一ハロンは同じ日に未勝利戦を走るココロノダイチと言う馬より坂路のタイムが遅く、これでダービーに出られるのだろうか不安なほどに幼かった。だから私も申し訳程度に薄い印を回そうとするつもりだ。


「それでワンダープログラムはどうなんです?」

「こっちは順調だね。前回はちょっと馬体重が減っちゃってたけど今度は体重を戻して絶好調と言える状態まで戻ったよ」

「個人的には推せないんですけどね」

「大変だよね、そういう立場って」


 もし自分がメイン担当だったら、ワンダープログラムが本命でヒガシノゲンブは無印だった。

 穴党担当だからこその悲哀とも言える。そのワンダープログラムが馬運車に入れかかった時間は、ヒガシノゲンブの二十分の一だ。レース中でもないのにあんなにいきり立ってしまってどうしようと言うのだろうか。



「入りはともかく後半はやめている。完成途上で現状は厳しい」



 調教担当の記者の批評だけど、実に正確だ。他の記者もまた似たような感じで、印は自分が一番低いのを回しただけで無印ばっかり。重賞勝ち馬なのに十番人気なのもまったくお説ごもっともだ。




 そう、お説ごもっともだったのに。













「ハハハハハハ……ギャーハッハッハッハ!!ギャーハッハッハッハ…………」




 一応三着馬を本命にしていたせいでごくわずかなメンツは保たれたものの、その後の凄まじいまでの笑い声に社内までも押しつぶされ塗りつぶされた。モニター越しでさえ伝わって来る笑い声。勝利の喜びなのか嘲笑なのかすらわからない。



 わかったのは、一つの奇妙な事実だけだ。



「パドックにヒガシノゲンブが姿を現してから、単勝人気が三十倍から二十六倍になった」


 確かにテレビ越しに見てもパドックのヒガシノゲンブは皐月賞やきさらぎ賞と違ってどこか大きく見えたが、だからと言ってそこまで一挙にお金をかき集めるのか。どうにも不可解だった。







「野上さん当たったんですって?」

「まあこれでここひと月の借金がゼロになるぐらいにはね。まあトータルで考えれば話は別だけどね、って言うか今日ここで使っちゃうんだけどね、太田さんにも」

「私は呑みませんから」


 うっぷん晴らしに居酒屋にでも入って一杯やりたい物だったが、ダービーに限らず大レースを外した後の日はどうにもやりにくい。実は東京と京都で三連単を6本も当てているのだが、それでもダービーとはケタが違う。ましてや野上さんのように当てた人と一緒だともっとやりにくい。まあダービーの取材ついでだしと座ってみたが、その結果きれいなほど見事に競馬に勝った人と負けた人の対比の構図が出来上がった。


「とにかくさ、あの時のヒガシノゲンブは異常だったわ、まるで相手をぶん殴る事だけに特化した金づち、って言うか殺傷能力を持ったハンマー」

「ハンマー……」

「そう。まるで自分の上に立つものを全て吹き飛ばしてやろうとしている感じ。でもそれだけじゃなくてね、なんていうか……ああビール注いでくれる?」


 野上さんが言うには、ヒガシノゲンブはまるでハンマーのようらしい。鋭い切れ味と言う言葉はよく競馬で使うが、その切れ味を生み出すのは刃物だ。本多忠勝は蜻蛉切と言う触れただけでトンボが真っ二つになったような槍を武器として用いていた、要するに触るだけで危険だと言う事だ。でもハンマーってのは触ってもなんでもなく、振り下ろされて初めて危険になる。


「それでね、私はヒガシノゲンブの大ファンになっちゃったの!あんなに自分の力で相手をなぎ倒すような勇ましい男っていないわよ最近、最近のGⅠ馬ってどうもおぼっちゃん的と言うか優等生的って言うか」

「今後も追っかけるんですか」

「追っかけるわよ!地方競馬での資金を片手にヒガシノゲンブにありったけお金を注ぎ込むんだから!」

「ワンダープログラムはどうですかね」

「あれはもう一度見ないとわからないけど、現状のおぼっちゃんぶりではちょっと無理ね。まあ別の意味でいいお酒飲ませてくれそうかも」

「シーッ!」

「ったく肝が小さいんだからー、禁酒でもしてるわけ?」

「明日も仕事なんですよ。にしてもヒガシノゲンブはとんでもない馬ですね」

「確かにあれは何年に一頭単位の存在だけどねー、まあ今度四ヶ月後のスプリンターズステークスで会社の皆さんと一緒に混ぜてくれない?」


 酒を片手に大声で一頭の馬について語る姿は、どう考えてもプロのそれだった。これで声が小さくて酒の量が少なければ言う事はないのだが、それもまた新聞記者と言う名の会社に縛られるサラリーマン、妻子と言う存在に縛られる一家の主にはわからない事なんだろうか。でも私は小市民だ、それらしくワンダープログラムのファンの存在を恐れるのが私のやり方であり、酒に酔って身上を失う事を拒むのも私だ。およそギャンブラーから全く遠い生き方をしている私。あくまでもギャンブラーから遠い存在としては、ヒガシノゲンブにはっきりとした好感を抱く事は出来なかった。







 それで秋の菊花賞はと言うと、明らかに浅野厩舎の二頭のマッチレースの流れだった。皐月賞馬は秋の天皇賞に回ってしまい、第三勢力となるべき馬はセントライト記念と神戸新聞杯で両頭に完膚なきまでにやられている。

 しょうがないのでここだと見込んだ二勝クラスのレースで両頭の僚馬のココロノダイチを狙ったが、結果は三着。


 そして肝心要の菊花賞も三着穴さえも開かず三連単900円の大本命馬券、ああ全く腹立たしい!この仕事をやっていると馬券を買わないわけにいかなくなるが、それでもダービーに続いて読者プレゼントとして5000円の紙くずを送り付けた事になってしまい、胸も懐も痛む。


「にしてもさ、100万円も単勝買った人いるらしいよな」

「いっぺんやってみたいもんだよな、まあダービーと神戸新聞杯の走りを見ればわからんでもないけど」


 金ってのはある所にはあるがない所にはない。100万円も馬券を買えるような暮らしをしてみたいもんだ。同僚からその話を聞いてまさか野上さんかもと思いLINEで聞いてみたが、勝ったのは1万円でそれも馬単だったらしい。まったく微妙なうらやましさが体を覆う。


 で、そのヒガシノゲンブの故障によりやや盛り上がりを欠く結果となった有馬記念。一番人気はワンダープログラムだった、あのヒガシノゲンブ以外には負けていないからと言う理由で半ば繰り上がり的ではあるが一番人気になった馬だ。



「極めて真面目で飛びがきれい、重馬場でも気にしない根性があり能力は間違いない」


 そんな批評が素晴らしく似合う。まさに王道を行くような良血馬には、二歳の頃からファンが付いていた。ダービーと菊花賞でだいぶヒガシノゲンブに差を付けられたものの、それでもワンダープログラムの人気は高い。


「太田さん、それは素人なの」

「私も対抗ぐらいにとどめようかなと思ってますけど」

「もっと落とすべきよ、あれは多分無理。知ってる?小川さんの事」

「小川さん?」

「小柄でベレー帽被ったおじいさん、誰が呼んだか知らないけどファンの人は勝手にそう呼んでる。その小川さんに菊花賞で会ったのよ、ワンダープログラムは当分来ないって言われちゃって」


 手入れされているのかいないのかわからない黒髪をなでながら、野上さんは小川さんと言う人の話をする。真っ昼間から酒を飲みながら焼き鳥を口に運び、白飯とみそ汁と一緒に焼き鳥を喰う私を恨めし気に見つめながら。

 野上さんが言うには、小川さんは競馬場に通う人なら一度は出くわした事のある老人らしい。厩舎や牧場ばかり見ている人間には知りえない情報だろと言わんばかりのドヤ顔をしながら、野上さんは酒をあおる。

 何でも、どんなに倍率が安くても絶対当たると思えば金をしこたま注ぎ込んで当たり馬券を手にし、逆にどんな大本命でも来ないと見ればびた一文賭ける事はないと言う天才的な馬券師らしい。菊花賞で100万円単勝に注ぎ込み、ダービーで50万円注ぎ込んだのもその小川さんだと言う。



 そしてその有馬記念も終わり、一応と頭に付くとは言え万馬券を的中させて浮かれた気分をごまかすようにもう一度レースを見ると、ワンダープログラムの動きのぎこちなさが目に付いた。

 滝原騎手も言っていたように、仕掛け出してからの反応が悪い。ダービーや菊花賞でヒガシノゲンブが作り出したペースより遅いのに同じタイミングで仕掛けている。これでは届くはずがない。


「ねぇ言ったでしょ、にしても罵声がすごかったわよね」

「付き物と言えばそれまでかもしれませんけどねえ……ワンダープログラムがらみの単勝・枠連・馬連・馬単馬券って何百億単位でしょ?それが二分半でパーですからね」

「直線一〇〇〇mのアイビスサマーダッシュなら一分も経たずにパーになるんだからまだマシだと思うけど、実際その時私1万円吹っ飛んじゃったし。それでこれから祝賀会」


 私と別の意味で的中させた野上さんはお気楽そうに私の肩を叩きながら腕を引っ張る。せっかくのクリスマスイブをこんな事に費やしてしまった手前尻を重くできない私が背を向けようとすると、野上さんが普段の幾倍の握力で私を引きずろうとする。


「ったくこんな事をして妻子に逃げられてこの仕事クビになってもいいんですか!」

「もう固いんだから~次いつになる?」

「金杯です」

「ちぇー」


 仕事熱心なマイホームパパを無理矢理演じて口を封じて逃げ帰り、原稿をまとめ上げて家に帰ったのは午後八時だった。かろうじて息子が起きて待ってくれていたものの、クリスマスケーキを食べおわるまでの間に野上さんから十回も絶対に金杯の後は呑もうと言う催促が来ていたのには本当に参った。


「ったく正月早々金杯でやっちゃったからって~」

「その前のレースは当ててますから」

「本当にもう、こんなビジネスギャンブラーに馬券が当たるのかねぇ。いいよね穴馬担当ってのは、外してもローリスクでさあ。お姉さんは悲しいんだよ正直、ヒック……」


 で、その金杯の後悲しいと真っ赤なにやけ顔で言われたところで何の説得力もない。お前はデータしか見ていない、どれほどまでに競走馬に対して愛がないんだと言われた所でそれが一体何だと言うのか。それこそ仕事だからこそ必死になってやっている、その結果失敗しちゃいましたで済まされないのはわかっているが、仕事に一生懸命な事の何が悪いと言うのか。

 それらの言葉を飲み込みながらダイエットと言う名目で煮物ばかり口にするたびに野上さんの酒量は増えて行く。実に気楽な人だ。






 で、中山記念でワンダープログラムを外し中山牝馬ステークスでユアアクトレスに印を回してしまった中でやって来たのが、ヒガシノゲンブの復帰レースと決まった大阪杯。うちを含め、予想紙にはまるで示し合わせたかのように本命を表す印が並ぶ。中には大本命の印を付ける社さえもあった。



「滝原騎手との相性は良さそうで、春の天皇賞はあるいは取り合いになるかもしれません」

「本来の乗り方で行けば楽勝だと思います」



 浅野先生や滝原騎手もこれだ。紛れもなき名馬+名騎手+名トレーナー、これで勝てなければおかしいと言う訳である。しかし同時に

「菊花賞以来半年ぶり」

「故障明け」

「滝原騎手が乗るのは一年三ヶ月ぶり」

「東京競馬場よりはましだが阪神競馬場は直線が長く逃げ馬には不利」

 不安な点ならば探せばいくらでもある。それをほじくり返し破れそうな存在を見つけるのも私の仕事だ。


「おい月曜日の競馬面の記事考えておけよ、ヒガシノゲンブ圧逃とかやっぱり最強とか」

「一面には」

「ならねえよ、どうせその日は高卒ルーキーの先発だぜ。おい太田、裏一面の予想だけどこれ本気かヒガシノゲンブが三番手評価って」

「当たり前ですけど本気ですよ」

「これ三連単で30万円超えるぞ」


 社内ですらそうだった、もう競馬面の見開きはヒガシノゲンブの勝利の姿で確定だとほとんどみんな思っていた。一般紙のスタッフですらヒガシノゲンブと言う存在を知っていて、彼が再びダービーや菊花賞のような走りをすると疑っていない。様々なを付けられた所で、ヒガシノゲンブならば簡単に突破すると思っていた。




 ましてや小川さんが、ヒガシノゲンブを買っていなかった事など知る由もない。










「あー小川さんが買わないのを見て頭冷やして良かったわー、50万負ける所が10万で済んだわー」


 まったく野上さんも悠長なもんだ、10万円損したのに変わりはないのに。

 そのおかげで馬連3万馬券を当てて競馬面の主役になる事が確定したのはいいけど、そのせいで紙面の変更と記事の執筆に追われて徹夜しかかったと言うのに。


「いやぁご愁傷様です」

「って言うかLINE九時まで未読だったの?」

「ヒガシノゲンブ惨敗が急に一面に決まりましてね、それで大混乱に陥って」

「見切り発車はやめようよ。って言うかちょっと」

「自分の財布を開けて下さいよ、ではまたいずれ」


 野上さんだって仕事があるはずなのに気楽なもんだ、小川さんとか言う人の事を聞く余裕すらなくなっていた私はLINEを切り、サラリーマンとして電車に乗った。




 いずれにせよこの一頭の馬の惨敗は会社を揺るがし、社会すらも動かした。


「何やってんだ滝原のバカヤロー!」

「お前はヒガシノゲンブに恨みでもあるのか!」

「逃げんじゃねえぞ、レースで逃げなかったんだからな!」

「浅野ー!他に騎手いなかったのか!」

「あんなことぶっこいて何だこれは、菊花賞の時不安がってたのは何なんだ!」


 大罵声大会と化した阪神競馬場、本来ならそこにあふれかえるべき勝者への歓声はほとんどなかった。そして同時に、ヒガシノゲンブそのものへの罵声もほとんどなかった。


 こんな事になっておきながら責められる事のない存在のせいで、何百億もの馬券は紙くずになった。紙くずではない馬券を持ち込んで現金にするのは、もう少し待った方がいいのかもしれないと思ってしまった。




 ちなみにその馬券を換金したのは、春の天皇賞の時である。

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