5歳9月 ランザプログラム

 で、四ヶ月の休養明けのシリウスステークス。


 ぼくが惰眠をむさぼっている間にグランデザートは勝ち星を重ねて、先週すでにオープン馬になっていた。ぼくが初勝利から一年かかった物を、半年でやってのけている。砂の新星、次代のエース。そんな風にもてはやされている。


 もう少しでももたついていたら、浅野厩舎のダート路線のメインはグランデザートに持って行かれる。やらねばならない、やらねばならない。


 一応あの間に、ゲートの練習もして来た。あれが競走生活初の出遅れだとは言え、あれが癖になってはいけない。

 三歳ならともかく、いい年してあんな真似をしてたまる物か。集中、集中、集中……!













「おっと、ココロノダイチかかったか!いきなり六馬身の大逃げ!」




 ああ、バカ。



 ヒガシノゲンブじゃあるまいし、大逃げなんかできるわけあるかい。それを差し引いたって阪神競馬場は直線が長く坂があるので前に行く馬は不利なのに、去年は中団から抜け出して勝ったのに。


 途中客席から悲鳴が鳴り響いたのをきっかけに頭を凍らせペースを落としにかかったけど、このスタミナの無駄遣いを許すほど他の馬が甘いはずもない。最終コーナーで捕まると、あとは抜かれて行くばかりだった。





 十七着。またまた、ビリから二番目。




「浅野先生……」

「辛すぎるよな……仕方ないでは済ませたくないけど」

「本当に、ぼくは……ぼくはどうしたらいいんでしょうか……」


 すがれるものならば何でもすがりたかった。ワンダープログラムともまともに話せず、グランデザートの輝きを見ていると気が滅入るばかり。

 そんな所に明日のスプリンターズステークスに出る馬がないせいか知らないけど、わざわざ来てくれた浅野先生の存在はとても大きく見えた。


「スランプなんて誰にでもあるよ、立ち直れると信じてるからさ」

「ありがとうございます」


 ぼくと先生の会話が嚙み合っていない事に、誰か気が付いたのだろうか。先生の親身そうな言葉に対し、ぼくはそんな薄い薄い言葉を返す事しか出来なかった。







 真相はと言うと、ぼくと同じレースを走っていた馬が、最終コーナーで粉砕骨折により競走中止、そして予後不良は確実———―と言う事だった。


 一年前のぼくと同じように、前走オープン勝ちで勢いに乗っていた四歳の牡馬がそんな事になってしまったらしい。


 どの馬の事も公平かつきちんと愛する浅野先生にとって、馬の死は悲しい物だ。同じ馬であるぼくがまったく気にも留めていなかったと言うのに。




 って言うか、これって実質ビリって言う事じゃないか!






 我ながら本当にガッカリだ。何が重賞勝ち馬だか、結局ただのガキじゃないか。いい年して何のつもりだ。他の馬さえもまともに見えていないくせに、GⅠなんて取れる訳があるかい!


「よくもまあそんな顔ができる物ね」

「ユアアクトレス」

「ハハハハ、いい顔をしてるじゃないの」


 ユアアクトレスの笑い声。実に気持ちの良さそうな笑い声。半年近くまったく意識の中になかった彼女の声は、ぼくの上にのしかかって耳を傾けさせた。


「そんなマヌケ面して、まさか私が先週走ってたレース名さえも忘れちゃったと言うんじゃないでしょうね」

「どこだったっけ」

「あのねえ、障害オープン戦よ」




 中央競馬には芝とダート以外に、障害レースと言うのもある。短くても三〇〇〇mぐらいのコースを、いろんな障害を飛び越えながら走るレースだ。

 一般的に言って芝やダートでは通用しないと思われた馬の流れ付く場所であり、重賞二勝GⅠ二着の経験のあるユアアクトレスが走るレースではなかったはずだ。もっとも最近のユアアクトレスは六戦連続二けた着順と言う成績だったんだけれど、それにしてもと言う気分にしかなって来ない。


「私はもう、競走馬としては終わったのよ。今さらあんたらにうんぬん言えることなんか何にもないわよ」

「この前中京で勝ったじゃないですか」

「ずいぶんと都合のいい頭してるのね、って言うかあんたはその時何やったと思ってるの」

「一勝は一勝でしょう、そうですよねココロノダイチさん」


 その裏で中京記念と言うレースを勝った三歳馬として、次代の短距離スター候補となったソウヨウアイドル。

 ピラミッドの頂点と底辺と言うより、ひし形の頂点と底のようなレース。それを一緒の日に走ったふたりは、ともにいい笑顔をしていた。


「考えてもみてよ、私はふたりの牡馬を好きになったのよ。それを自分勝手な理由で続けざまにフっちゃった途端にあの成績の上昇っぷり、私にはもうそんな資格はないの。ふたりともこんな存在に関わっていないで調教でもしたらいいじゃない」

「そうだね……」

「ユアアクトレスさん!」

「おやおや元気だね」

「あなたもよ、お兄さんに負けたくないんでしょランザプログラム」

「兄は兄、私は私です」



 そんなふたりに対してぼくがなんとか相槌を打つ中、一頭の二歳牝馬が話に割り込んで来た。黒鹿毛をしたランザプログラムなる馬は、二歳馬とは思えないほどに貫録を兼ね備えた口で重賞勝ち馬たちに割って入っている。


「しっかりしているよね本当」

「ココロノダイチさん、兄はほどなく大一番を迎えます。あなたが兄と仲良しなのであればどうか全力で応援してください、もちろん私もしますから」

「そうだよね、それを忘れちゃいけないよね」

「もちろん、私自身はワンダープログラムの妹なんて名前に頼る気はありませんから、ランザプログラムの名前で覚えさせます」




 そのランザプログラムなる馬が、ワンダープログラムの三つ下の妹だと言う事をぼくは今ここで初めて知った。セリ市で8000万円と言うぼくの十倍以上の値段が付いた牝馬で、兄さんが勝ったのと同じ新馬戦を制して話題になっている存在。入厩時から話題になり、こうしてまた話題になっていると言うのになぜ目に入らなかったんだろうか。

 ぼくにも妹と弟はいる。でも中央競馬で勝ち鞍を上げた馬は一頭もいない。結局そういう方向でもぼくは差を付けられていると言うのか。



「障害でもGⅠはGⅠです。障害は一勝すれば即オープンクラス、GⅠ挑戦も可能です。それで勝てばいいだけじゃないですか」

「簡単に言うわね」

「この前は勝ったじゃありませんか、ねえランザプログラム」

「そうです、次は中山大障害かもしれませんよ?」

「障害飛び損ねて落馬させても?」

「障害で落馬競走中止はそれほど珍しくありませんから」

「まあそうだよね」


 ぼくは何も入り込めなかった。ユアアクトレスのしゃべりっぷりに完全に押され、ソウヨウアイドルのように割り込む事も出来ない。

 そして、ランザプログラムに完全に呑まれていた。


 一戦一勝の二歳馬に過ぎないただの小娘のはずの存在に。

 ワンダープログラムと普通以上に話せていたぼくが。

 ランザプログラムの言う通り、精一杯の気力を絞ってワンダープログラムの勝利を祈る事しか今のぼくにはできなかった。







 そのぼくに、次の言葉が襲い掛かる。







「次走はGⅢのみやこステークスだな」

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