5歳夏 ココロノダイチの苦悩

「さすがに休養でしょ」

「ああ……」

「グランデザート声が大きいよ」


 本当ならもう少し大きな声で応えるべきだったんだろう。でもグランデザートの顔を見ていると頭も声も上がらなかった。




 デビューが遅れに遅れ、初出走はぼくが走ったフェブラリーステークスの日。だと言うのにまったく最低な事に、ぼくは彼の存在を認識していなかった。

 ぼくが東京で彼が京都だったからと言うのは逃げ口上であり、本当に気にしているのならば目も声も配っておくべき存在だった。少なくともあのマーチステークスと同じ日の五時間ほど前に、同じ中山競馬場で初勝利を挙げた時にその存在を認識すべきだった。もし二歳の早い時期から走っていたらと言う事を考えさせる程度には、その走りは今回も輝いていたらしい。



「ソウヨウアイドル、いいよなお前今度GⅠかよ」

「たまたま前走うまく行ったからね、キミも次はオープン戦かい」

「その気はないってよ、まだ脚がしっかりしてないってよ。今度は夏開催だってよ」


 二人の会話が、実にまぶしい。あっという間に追い付かれそしてどんどん離されて行く構図が簡単に目に浮かんでしまう、何十何馬身先にいるかわからないワンダープログラムと一緒に並走するふたりが。

 その未来を阻む権利を誰もが持っていると同時に、誰もが行使できるとは限らない。お手手つないでみんな仲良くなんてありっこない世界だ。


「いいご身分ね」

「五ヶ月もの間ひと月間隔で走っておいて休むなですって?」

「違うわよグランデザートよ、まだあなた二勝馬でしょ?」

「次走オープンと思いきや休養だそうで、ムカつきますよ」

「ユアアクトレスさんこそしゃんとしないと危ないんじゃないですか」


 そこに割り込んで来たユアアクトレスは調教終わりなんですと言わんばかりに汗まみれの肉体を若い仔たちに寄せ、輝く尾花栗毛を風に流していた。

 でもその髪はソウヨウアイドルとグランデザートと言うふたりの若駒を引き付ける事はかなわず、ただ無駄に風に吹かれていただけだった。

 ヒガシノゲンブとワンダープログラムの名前が彼女を汚しているのかもしれないと思うと気の毒であり、同時におそらくターゲットにされた自分もまた彼女の同類項であるように思えて来た。片やヒガシノゲンブとワンダープログラムをフった女、片やふたりに一方的に依存して来た男。

 そう並べると大した違いなんかない。

 勝つしかない事もわかっているが、それを実行できるかもわからない。今はとにかく休む、それが仕事だと無理矢理に割り切り、口を閉じて首を下げた。



 で、ふたりを勝手に拘束しているワンダープログラムはと言うと、まったくマイペースだった。ヒガシノゲンブと同じようにマイペースに歩み、マイペースに不良馬場の競馬場を走っていた。そしてマイペースに勝利した。












「ワンダープログラム、ヒガシノゲンブに続き凱旋門賞挑戦決定。宝塚記念単勝一.七倍での快勝により浅野治郎調教師決断」


 そしてこれだ。

 直前まで二倍だったのが一.七倍になったと言う。二倍でも十分ものすごいのに、誰がさらに倍率を引き下げたと言うのか。

 そのせいで元々安かった配当が余計に安くなっちまったじゃねえかとぼやく人もいれば、よしこれで大穴になったぞと持ち上げて落とされた人もいるらしい。

 GⅠレースで単勝を〇.三倍下げるのに一体いくら位のお金が必要なんだろう。そこまでの信頼を受ける存在。それがまさしくこの世界の勝者だ。ヒガシノゲンブだって、菊花賞や宝塚記念の時にはたくさん馬券を買ってくれた人がいる。



「凱旋門賞に向けてフランスへ行くのでしょう?こういう馬場も体験出来て有難かったですよ」


 それでこれがワンダープログラムのコメントだ。確かに彼の言う通り、フランスの芝ってのは日本の芝よりずっと重い。去年のヒガシノゲンブの凱旋門賞の勝ちタイムは、その一年前に同じ二四〇〇mのダービーを勝った時より四秒以上遅かった。日本のそれの方が速すぎるだけの話らしいが、正直日本の馬が勝てる環境には思えない。それを実際に勝ったのがヒガシノゲンブであり、勝とうとしているのがワンダープログラムなのだ。










 でぼくはと言うと、休養は与えられたが放牧はされなかった。厩舎の中で調教も出走もないまま、ただただ時間を潰していた。

 まったく、浅野先生はぼくのことをよくわかっている。今の状態で下手に北海道とかに送られよう物なら、それこそヒガシノゲンブのより近くで過ごさなければならなくなる。

 何百キロと離れた存在であるからこそまだ何とか文字通り別世界の存在だしと割り切れるけど、今のぼくにはヒガシノゲンブに立ち向かえるほどの元気はない。少しでも触れた瞬間に弾け飛んでしまうから。




 春から夏にかけて、たくさんの新馬たちが厩舎に入って来る。

 三歳の時はまだ未勝利馬に過ぎないぼくには目を配る余裕がなく、四歳になってようやくソウヨウアイドルのようなはっきりとした後輩を持つこともできるようになった。


 そして五歳になったぼくは、まったく立ち入れなくなった。


「いい仔が来てますよ」

「それはどういう意味だい」

「もちろん走りがって意味です、いやあこりゃ僕もうかうかしてられませんね」

「そうかい、でもキミは今後短距離馬として生きるつもりなんだろ?」

「だとしてもチェックは怠れませんよ、最大の敵は身内にありとかってよく言いますからね。ワンダープログラムさんなんかもうある種のハーレム状態ですよ、牡牝問わずってのがまたらしいですけどね」


 ソウヨウアイドルの言う通り、うちの厩舎に入ったほとんどの二歳馬たちはワンダープログラムを囲んではしゃいでいた。

 もしヒガシノゲンブが今のワンダープログラムの立ち位置にいたとして、ああいう風に囲まれる絵図は想像できない。ぼくが適当にしゃべり、それを咀嚼した上で口移しさせるのがせいぜいだろう。一定以上の距離には誰も立ち入れない。



「あそこに未来のヒガシノゲンブがいるのかなあ」

「いるといいですけどねー」

「ヒガシノゲンブみたいに期待通りに走る方が珍しいんだからさ、キミはどうだったんだい」

「ぼくは1500万円でしたよ、それでココロノダイチさんとご一緒した新馬戦で1億円の馬に勝ってしまいました。懐かしい話ですよまだ三歳の若造のくせに」


 その1億円の馬はその後故障してレースを使えないまま二歳を終え、三歳になっても負け続きでこの前ようやく勝ったらしい。そんな話はこの世界山のようにある。その点では実に平等な世界である。700万円も2億円も、競馬場に入ってしまえばただの馬であり可能性の差でしかない。

 でも走ってしまったらまた別の話になって来る。走らない限りは永遠に可能性を持った存在でいられるけど、たった一度でも走ってしまえばその結果によって可能性は決まってしまう。走らない限りはヒガシノゲンブのつもりでいられる、そういう夢を見ていられる。


「寝ててもいいんですよ別に」

「まあそうなんだけどね、今は休む事が仕事なんだから……」


 次の戦いのために休息を取るのもまた、競走馬の仕事である。そう割り切ってぐったりする。この矛盾に満ちた行為を、ヒガシノゲンブはやれていた。ダービーの後、ヒガシノゲンブはあの高笑いがウソであったかのように皐月賞の前の坊やに戻っていた。レース中どころか調教でもむやみやたらに敵意をまき散らしたあの時の姿はどこにもない、ただの馬だった。そのただの馬の姿を知っている者として2歳馬たちに説教でも垂れてやりたい願望はあるけど、余裕がなさ過ぎた。


「ちょっと何やってるんですか、もう休みましょうよ休んでくださいよ」

「…………」


 それでも体は動く。脚は動かないのに耳と首ばかりが動き、逃げたり近づいたりする。凱旋門賞に向けてフランスに行くことになるワンダープログラムの方を見ろと言わんばかりに頭が動き、そして動かなくなった。

 馬運車に乗せられていくその姿を見届ける馬の数は、ヒガシノゲンブの時より倍以上多い。それがなぜか悔しくて、そしてそれでも見届けなければいけない気がして、必死になって馬運車のお尻ばかり睨み付けていた。


「おーいキミ、キミはこんな所にいていいの、ワンダープログラムさん行っちゃったよ」

「ぼくは少し疲れていますから……」


 誰だかわからないけど、ぼくを呼びつける馬もいる。何歳馬だろうか。同い年か、六歳以上か。遠くから声がする。


 ああ、一体誰なのかさえもわからない。誰か答えを教えてくれよ。頼むから、頼むからさ!


「ねえソウヨウアイドル、ソウヨウアイドル……!えっと、今の声は誰?」

「あ?えーと、気のせいじゃないですかね。それよりゆっくり休みましょうよ」


 ヒガシノゲンブでさえもできないほどにすべての輝きを集めたかつての友は、ぼくをまったく悪意なく叩き潰していた。

 ヒガシノゲンブが、いや数多の名馬がそうして来たように。

 追い付けるのか、どうやったらいいのかさえもよくわからない、わかっているのにわからない。


「……勝つためにできることって何かある?」

「休みましょう!」

「うん、それがいいね…………」






 ぼくは全力を込めた。走りではなく、ため息に。


 そうして無理矢理に力を抜いて、考えるのをやめた。そこまでする事により、ぼくはようやく体を休める事ができた。

 ヒガシノゲンブの血を引いた子どもが来年以降そうするように、延々手間暇をかけてそんな基本的な事を成し遂げたのである。




※※※※※※※※





 で、四ヶ月の休養明けのシリウスステークス。一年前に勝ったレースだ。




 ぼくがああして惰眠をむさぼっている間にグランデザートは勝ち星を重ねて、先週すでにオープン馬になっていた。もう負けられない。

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