5歳5月 かしわ記念

 一年間で最大20億円。まったく聞いて呆れるしかない。自分が親友だと思い込んでいた存在が、こんなに遠いとは思わなかった。

 まともな存在が追い付ける額じゃない。馬どころか人間だって、一年間でこんなに稼げるわけがない。


「なんでも三年で12億円だってよ」

「俺達なんか三年間で1200万円も稼げねえのによ」


 マーチステークスの終わった後の最終レースの頃、聞いた事のある声をしたお客さんたちがプロ野球ってスポーツの話をしていた。野球選手もまた、一流になればそれこそ年収億単位になる職業だ。

 でも三年で12億円だとしても、一年あたり4億円。ヒガシノゲンブの五分の一以下だ。ヒガシノゲンブの20億円ってのは、馬どころか人間と比べても最高クラスの額って事だ。世の中お金だけじゃないとか気取った所で、賞金を稼ぐ馬は偉いと言うのは変わらない。ほんの少し前まではクラス分けは一勝クラス二勝クラスではなく、○○○万円以下と言う分け方をされていたのを考えれば話は明白だ。







「かしわ記念に登録したよ」

「ああはい……」


 調教で走ればそれなりのタイムは出ている、数字の上だけでは東京大賞典や川崎記念と言った所の前の日とそんなに変わりはない。普通に戦えるはずだ。


「船橋競馬場に行くんだろ?」

「まあそうなるね」

「行った事ない競馬場だけど大丈夫か」

「大丈夫だって、大井だって川崎だって行った事なかったんだし。それでどっちも2着だったんだよ、しかもトゥインクルレースってやつだったんだから大井の東京大賞典なんて、もう普段と全然違うんだから」

「シーッ!」

「ちょっと何やってるんですかココロノダイチさん、ワンダープログラムさん」


 ぼくらのおしゃべりよりずっと大きな音で放たれたシーッと言う声に釣られるかのように、若い声をした白っぽいサラブレッドが近づいて来た。


「ああいけないちょっと声が大きすぎたかなグランデザート」

「ワンダープログラムさん」

「改めて紹介するよ、ココロノダイチだ」


 グランデザートと呼ばれたその葦毛のサラブレッドは、ソウヨウアイドルよりかなり大きく見えた。まだ三歳だと言うのにやたらと貫禄があり、口元には余裕を持った笑みが浮かんでいる。決してワンダープログラムにひるむ事のない顔をしている。


「新馬戦で十二着に終わって浅野先生からいきなり芝に見切りを付けられてね、ダート路線を歩む事になってね。できるだけ早く出世してココロノダイチにも胸貸してもらいたいらしいんだよ」

「その時は頼むよ」

「ソウヨウアイドルには負けませんからね。で今度京都でご一緒するんで」

「併せ馬かい?その時はよろしくね」


 ぼくがソウヨウアイドルと仲良しでいるように、ワンダープログラムはグランデザートと仲良しなんだろう。ワンダープログラムはふたつ下の後輩を可愛がるように目を一瞬閉じて見せる。

 その愛嬌と余裕に満ち溢れた姿と来たら、人馬問わず大勢のファンを生むには十分すぎるだろう。




 そのワンダープログラムはまたもや、春の天皇賞と言う舞台でファンを増やして見せた。開幕週で内枠有利の上に直線平坦で後ろから行く馬にはきついと言われている京都競馬場で行われるその戦いを、あまりにもあっけなく大外中団から差し切って制してみせた。


「強くなったよね、本当」

「まだまだだよ、ヒガシノゲンブにあんなこと言った手前もっと勝たなければならない」

「もっとか」


 あんなに華麗に、簡単に勝っておいてもっともっとか。欲張りだなあ。

 ぼくはこれまで六回勝った。そのうち一番大きな着差は、オープン馬の称号をもらったレースの時の一馬身半差。今日のワンダープログラムのような三馬身差勝ちなんて川崎記念のようにやられた事はあってもやった事はない。


「次は宝塚記念なんだろ」

「三冠を狙ってみようかなーなんて」

「何だよそれ」

「何ですかそれ」

「人気投票一位、一番人気、一着のね」

「ああそう、頑張ってね」


 くだらないジョークだ。あまりにもくだらなすぎて、笑う事も出来ず陳腐な相槌を返すのが精いっぱいだった。

 確かに去年の宝塚記念の人気投票では一位ヒガシノゲンブ二位ワンダープログラムだったし(ついでにユアアクトレスは八十九位)、故障して回避が決まっていたおととしの有馬記念でさえもヒガシノゲンブは二十位だった。かと言って人気投票で一位になる事の何に意味があるのだろう、一着になればそれでいいはずだ。


 確かにそれを可能にする力があるとは言え、あんな風に明言するのはもはやジョークを通り越して挑戦状だ。そしてその挑戦状にケンカを売れる資格を持った馬など、この厩舎にはもはやいない。一応出走資格ぐらいは取れそうな馬はいるが、それがどんなにあがいた所で今のワンダープログラムに敵うはずもない。ふたりのような三歳馬で、クラシックレースを勝てるほどの力の持ち主が全力で挑んで勝てるかどうかと言った所か。もちろん今のぼくにはできない。


 そしてグランデザートもソウヨウアイドルも、このくだらないジョークで笑っていた。ぼくだけが仏頂面をして、船橋競馬場の方向を無理やり向いている。東だ、東と言ってもヒガシノゲンブがいる北東ではなく、栗東トレセンのはるか東にある船橋競馬場の方を。と言っても全くの偶然だったみたいだけど、それしかできる事はなかった。







 そのかしわ記念、船橋競馬場で行われるレースはたったの十頭立て。GⅠ級レースのそれとしてはとてつもなく少数だった。お客さんの数も馬券の売り上げもおそらくはそれ相応、天皇賞などとは比べ物にならないほどちっぽけなレース。これをあと何回勝てばヒガシノゲンブやワンダープログラムに追い付けるのか、及びも付かなかった。




「あっコラッ!」




 ヒガシノゲンブの雄々しい高笑い、ワンダープログラムの柔らかい笑み。

 はるか遠くにいるふたりの事ばかりが頭を支配していた僕は、ゲートが開くと同時にスタートする事ができなかった。

 それも一秒近い大出遅れ。まったくレースにならない。


 結果はブービー。九着じゃない、ブービー。


 ため息すら吐く気にならない。三番人気を裏切ったと言う罪悪感も湧かない。何で出遅れたんだよと言う罵声が耳に届く事もない。

 当たり前だ、戸柱さん以下誰もそんなこと言わなかったんだから。でも本来なら自分に言い聞かせるべきだったんだろう、そして反省して次に生かすべきなのにだ。

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