5歳3月 マーチステークス
ふたりに歩み寄ろうとするぼく、レースと同じように馬たちを分けて進もうとしたぼくの前に立ちはだかった一頭の牝馬。紛れもなくユアアクトレスだ。
「あたしは結局繫殖牝馬なのよ!フッた男に体を差し出すような!」
「答えになってないよ!」
「いずれにせよあんたのいう事を聞く理由はないから!ふたりがどう思っていたとしたって世界が違うのよ、世界が!」
※※※※※※※※※
夢だった。でもあまりにも現実的で、はっきりとした夢。その夢のせいで、ぼくはまぶたが開くと同時に直線を走っているときのように呼吸をする事を強いられた。
ああのどが痛む。まだ初春の空気はのどに不親切だ。
二〇三頭×1000万、つまり20億3000万円。
不受胎だったら返還になるらしいから実際はここまで行かないだろうけど、それでも15億円はくだらないだろう。ぼくが二年半必死になったつもりで2億円ほど稼いだ中、ヒガシノゲンブは引退して一年で最大20億円を稼ぐ。ワンダープログラムだってこれまでの獲得賞金額は7億円ぐらいに過ぎないのに。
文字通り桁違いの存在。それがヒガシノゲンブだ。ワンダープログラムだって同じことが言える。その血を求める存在はそれこそ世界規模になるだろう、実際に世界でとんでもないパフォーマンスを見せたのだからこそヒガシノゲンブはここまでの評価を得た。ワンダープログラムがもしこの先ヒガシノゲンブに負けじと活躍すればどうなるか、答えは目に見えている。
ダート路線が日陰だなんて思った事はない、でもやはり芝のクラシックレースとはケタが違う。ダービーの時にそれはわかっている、同じGⅠのはずのフェブラリーステークスと比較すれば明白だ。同じようにGⅠを勝って種牡馬になると言う最大限のたらればを成功させた所で、一体ぼくが一年間にいくら稼げると言うのだろうか。
ぼくらの目覚めは午前四時半ごろだから当たり前の話だけど、十日ほど前に来たはずの春分の日がまだ来ていないかのように空気が寒くて重い。どれだけの馬が起きているかもわからない。
厩務員さんがいつものように飼い葉を持って来てくれたけど、食べる気にならなかった。ブラッシングも丁重にしてもらったけど、ブラシの先っぽがみんな明後日の方向を向いている。ぼくの毛が厩務員さんの手をはじいている。一体何のつもりなんだよとわめいても届きっこない。
腹いせとばかりにあわてて飼い葉をむさぼり、喉に流し込む。当たり前だけど不審と心配を買ってブラシでなく手で撫で付けてくれたけど、それでも気分はぶれっぱなしだった。
とりあえず追い切りだとばかりに、戸柱さんを乗せて見慣れ切ったダートコースを単走で走る。
タイムそのものは先週から落ちていなかった。だけどその何馬身も前にはワンダープログラムがいる、先週レースを使っていたはずのワンダープログラムが。
「タイムそのものはいいんですけど、正直前走ほどは」
「うーん、発汗も普通だけどな」
戸柱さんが言葉を濁し、浅野先生も首を横に振る。わざとらしくため息を吐いてみせたけど、それがどれだけ意味があるのかわからない。自分自身でさえわからないのに、戸柱さんや浅野先生にわかるんだろうか?
それでこそ一流騎手一流調教師なのかもしれないけど、今のぼくにはどんな答えを突き付けられても正解だと断言できる気がしなかった。
誰にも相談できないまま、マーチステークスの日が来た。
馬体重、マイナス四キロ。どうって事のない数字のはずだ。
ハンディキャップは五九.五キロ。トップハンデだったけど想定の範囲内だった。
重すぎたせいか一番人気にならなかった。これもまたある程度予想していた。
ゲートが開いた。
いつも通りに中団よりやや前に行くつもりが、どうも足が上がらない。ゲートが開くと同時に背中がグッと重たくなり、前に付ける事ができない。
それでも中団外側の抜け出しやすい位置に付けられたのは良かったけど、第三コーナーを曲がり直線に向かおうとした所で急に足が動かなくなった。一気に抜け出すどころか急ブレーキがかかってしまい、自分なりに必死になってみたけどどうにもこうにもならない。
両脇を他の馬がすり抜けて行くばかり。
で、ブービー。勝ち馬とは一.八秒差。完敗と言うか、惨敗。
レースにも何にもならない。まだ新馬戦でシンガリ負けした時の方がましな気分だ。
さすがに使いすぎだ。
五九.五キロのせいだ。
記者さんたちはみんなそう言った。
ぼくだって、ぼくを一番人気にしなかったファンの皆さんの正確な目利きには感謝するしかない。生涯初の一番人気が、こんなレースで終わってたまる物かいとは思う事は出来ている。
「肉体疲労はなおも少ない感じですけど…………重量ですかね。今後ハンデ戦は厳しいかもしれません。レースをしていないので疲労はないですから次はすぐかもしれません」
何も間違っていない。体だけならそれこそまだひと月ぐらいの休みでどうとでもなる程度の疲労しかない、そのはずなのに。そのはずなのに、東京大賞典や川崎記念のぼくはいつのまにか消え失せていた。
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