5歳3月 ぼくが見た悪夢
正直な話、得た物は少なかった。一応、東京大賞典と川崎記念の二着でレースの出走の成否を決める賞金額、いわゆる本賞金を加算する事は出来た。これまでの総獲得賞金額も二億円を超えた。
一応、実感する事は出来た。GⅠレースとは遠い夢ではない事を、だが簡単に勝てる物でもない事も。だからと言ってもどかしさや悔しさを感じるほどには敗北感を覚える事もなかった。あまりにもすんなりと行きすぎてしまった。
「とりあえず、重賞勝ちが必要だろう」
とは言え、未勝利では格好が付かない。去年シリウスステークスを勝ったおかげであと半年はある程度の出走優先権があるとは言え、そうそう安閑としてられるわけでもないのだ。
そんなぼくが次に出る事になったのは、マーチステークスと言うレースだった。中山競馬場、一八〇〇mのGⅢ。
GⅠの高松宮記念や天皇賞へのステップレースの日経賞の裏のレースであり、ダートもGⅠ戦線がひと段落した時期でどちらかと言うと日陰のレースだ。それでももちろん重賞である事には何の変わりもない、きちんと挑むしかない。
「にしてもまたひと月足らずとはきついローテーションだね」
「まだ行けるよ、ここを勝てば次はまたGⅠかもしれないし」
「自覚なしかい」
「でキミはどこだい、阪神大賞典かい」
「ああそうだよ」
実際問題、フェブラリーステークスの翌週の調教のタイムはまったく悪くないどころかむしろ上がっているぐらいだった。いっそこの調子でフェブラリーステークスに挑めていたらもっと着順も上がっていたと妄想したくなるぐらいには体は元気だった。
「お互いうちの厩舎の顔候補なんだからね、しっかりしないと」
「キミはすでに顔だろ」
「ヒガシノゲンブとぼくを並べないでよ」
ワンダープログラムはお坊ちゃんなりに目一杯悪人面をしている。もう二年以上一緒に過ごしてきてほとんど見た事のない顔だ。まるで一歳馬のように無邪気に笑うその姿を見ていると全く飽きない、ぼくだけが知っているかもしれない笑顔だ。
「でもまあ、今年の三歳の出来によっては持ってかれるかもしれないよ?その事を忘れちゃダメだからね」
「はいはい」
「はいはいじゃないよ、キミはもう。五回もGⅠを走っておいてそんな態度な訳?」
「正直その通りなんだよね」
ワンダープログラムが種牡馬になるのはもう間違いない。種牡馬なんてのは基本的に種付けするだけして後はそれっきりって言う商売だ、競走馬を生産する牧場と競走馬を育てる牧場を共に持っていなければ会う事なんてほとんどない。
ぼくだっていっぺんも父親の顔を見た事はない。ぼくがそれを残念とか思う事はないけど、ワンダープログラムに限っては残念だなと思う。強いだけでなく、いい意味の甘さを持ったワンダープログラムは絶対にいい父親になる。
「ヒガシノゲンブはもう来年パパになるんだろうね」
「あの馬がねえ」
「ヒガシノゲンブは頑固親父になるかもしれないね、でもそれって一頭のヒガシノゲンブと百頭の未勝利馬を作るだけの気がするんだよね個人的に。もちろん悪いとは言わないけど僕は違うと思う」
「それはそれぞれの価値観だろうね」
「キミはどうなんだい?」
「どうなんだいって、そんな物GⅠ取ってから考えるよ」
種牡馬になる事は、牡馬に取って理想のゴールの一つだ。そうなった先の未来を考えるのは、せいぜい五%未満の馬に許されたぜいたくな遊びだ。
勝つためには何が必要か。調教しかない。走って走って鍛え上げるしかない。菊花賞の時と同じように、ぼくが三馬身ほど前に立った。そこからマイペースで走るぼくを、ワンダープログラムは簡単に追い抜いて行く。一年半前と何も変わらない構図だった。でもふたりともあの時のふたりじゃない事をぼくは知っている。
「ココロノダイチさんって疲れないんですか」
「そんなにはね」
「今度はGⅠじゃないんでしょ、ハンデ戦なんでしょ。大丈夫ですかね」
「大丈夫だよ、重たいハンデなんてそれこそ大きな評価の裏返しなんだから」
マーチステークスではトップハンデになるかもしれない、その事は決まってからずっと言い聞かされている。あのGⅠ五連戦の間、最高で背負ったのは五八キロ。それがこれまでの生涯で背負った最重量。
ワンダープログラムだって五九キロだ、そんなに差がある訳でもない。凱旋門賞でヒガシノゲンブは五九.五キロを背負わされていたけど、ほぼ横並びだった。たかが一レースで腹を立てていたら身が持たない。
「今後重量を背負わされることもあるだろうけど、その時もこんだけ評価されてるんだ位の気持ちで楽しんだ方がいいよ」
「そうですねー」
ソウヨウアイドルはにこやかな表情でぼくらが開けたコースへと向かって行った。その背中にこの先一体何キロの重量が乗るのかと思うと、楽しくもあり不安でもあった。
そしてやって来た阪神大賞典。ぼくのマーチステークスの前の週に行われるこのレースだったが、ワンダープログラムはややキレが悪く半馬身差し切れなかった。
「これじゃ一番人気にはなれないかなー」
「まあ一番人気より一着でしょ」
ヘラヘラと言うほど軽くもない笑顔で、まったく敗戦を引きずる様子もない。王子様の笑顔だ。ユアアクトレスが金髪をぐったりさせながらにらんで来た気がしたけど、もはや彼女の存在はどうでもいい物になっていた。
「でもヒガシノゲンブの事を思うとね、あせって大阪杯なんか狙わないで良かったと思ってるよ」
「ヒガシノゲンブってステップレースなんか全然使ってないからね」
「ああそうだね、結局のところそれぞれなんだよ。にしてもヒガシノゲンブはものすごいよね、二〇三頭だってさ」
「二〇三?」
「ああ、今年の種付け数だよ。滝原さんが言ってたよ。たぶん今年ナンバーワンだって。それから一回1000万円だって、ったくすごいよねー」
二〇三頭———————————―――――あまりにも気の遠くなるような数字だった。
そんな数字を、ヒガシノゲンブがたたき出している。
その後ワンダープログラムは一回1000万円と言った。
その言葉の意味を理解するのにさらに三時間かかり、普段使わない頭を無理やりに回したせいか本当に気が遠くなり、気が付くとまぶたが動かなくなっていた。
※※※※※※※※※
ヒガシノゲンブとワンダープログラムが仲良く話している。ぼくはいつものように仲よくおしゃべりでもしようと思って足を動かす。でもそのぼくの目の前に、大きな壁が立ちふさがった。
コンクリートとかレンガとかじゃない、肉壁だ。
大勢の牝馬たちが、二人に向かってキャーキャーと歓声を上げている。十や二十じゃない、それこそ百や二百。
「もしもし、もしもし!」
「邪魔しないでしょ!」
「ユ、ユアアクトレス……」
ふたりに歩み寄ろうとするぼく、レースと同じように馬たちを分けて進もうとしたぼくの前に立ちはだかった一頭の牝馬。紛れもなくユアアクトレスだ。
「あたしは結局繫殖牝馬なのよ!フッた男に体を差し出すような!」
「答えになってないよ!」
「いずれにせよあんたのいう事を聞く理由はないから!ふたりがどう思っていたとしたって世界が違うのよ、世界が!」
――世界が違う。
その言葉を牝馬たちが一斉に叫び出した。ヒガシノゲンブとワンダープログラムはやめろと言っていたけど、牝馬たちに押されてどんどん遠ざかって行く。
馬の目なんて広くは見えても見える距離は短い。あっという間にふたりは小さくなっていく。愕然とするぼく。涙があふれて止まらない。仲間のつもりでいたのに
。
どういう事なんだよ、教えてくれよ、突っ切って来てくれよとか言う図々しい事を言う気力さえ沸き上がって来ない。ああ、はるか遠くへと消えて行く。一体あとどれだけ勝てばいいって言うんだい?教えてよ、ねえ教えてよ!
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