4歳11月 天皇賞・秋
※第一部の最終話です。
ヒガシノゲンブ引退発表の次の日、ぼくが来週のJBCクラシックのために、ワンダープログラムが当週の秋の天皇賞のための追い切りをする事になった。お互いいいタイムが出たねといい気分になってコースを出ると、ユアアクトレスが苦虫をかみつぶしたよう顔をしていた。
「こんな調子で大丈夫なの?」
待たせてしまったねとかぼくらに言う暇さえ与えないで、彼女はずいぶんと上から目線で物を言って来た。まるで三歳時のぼくとの関係みたいだ。
「うまく行けばGⅠ連戦になるかもしれないからね」
「ずいぶんとえらくなったわよね」
「まあ天皇賞からジャパンカップ、それで有馬記念だもんね」
「何言ってるのよ!あんた一体どんな答えを期待してる訳?それとも何?私があんなにこっぴどく振った牡馬と今さらよりを戻せるとでも思ってる訳?だとしたらあんたも本当能天気ね。今さらどの面下げてこの前は申し訳ありませんでしたとか言えると思ってるの?
って何がおかしいのよ!」
もちろんわざと取り違えた訳だけど、ここまで簡単に引っかかってくれるとは思わなかった。まるでかつてのワンダープログラムのように、やたら口数を増やしてごまかそうとする。あまりにもそっくりだったので、思わず吹いてしまった。
「今からでもやり直せば?」
「未練がましいにもほどがあるわよバーカ!って言うかあんたはまだともかくワンダープログラムにGⅠが勝てる訳ないでしょ、ヒガシノゲンブがいなくなったからってそんな簡単に勝てるんなら私だって今頃GⅠ馬よ!」
「ありがとう。我ながらまだ未練があったとは驚きだったね、今なくなったけど」
ワンダープログラムが、少しでもユアアクトレスを憎からず思っていたのは驚きだ。そういう感情はいつ芽生えたのか。ヒガシノゲンブへの贖罪の事しか頭になかったような存在が、恋愛なんて言うレースの邪魔になりかねない行動をするとは思えなかった。まさかダービーの前か、いやあの時はあの時で目を覚ましたつもりでいたからもっと違う。
「クククク」
「だから何がおかしいのよ!」
「ワンダープログラムは大人になったよ」
「どこがよ、この過去の栄光にしがみつく坊やのどこが大人だって言うのよ、バーカバーカ!!誰があんたらのような奴に惚れたりするのよ、このナルシストども!」
もしワンダープログラムが今になってユアアクトレスへの感情に気づいたって言うんならば、それこそ笑うしかなかった。この点ではぼくは数馬身後ろを行ってるし、ヒガシノゲンブがそんな気持ちになった事があるかどうかもわからない。ぼくがそういう理屈に基づいて意地悪く笑うと、ユアアクトレスは誰に聞かれるかもわからないのにやたらめったらに悪口を振りまいていた。
やがて来た秋の天皇賞の日、東京競馬場は快晴だった。その快晴の空の下で、ワンダープログラムはその光を一点に集めていた。
返し馬と言うのがある。本馬場に入ってからゲートの所に向かうまでに軽く馬場を一周する事だ。その返し馬が、本当にきれいだった。こんなに軽い走りをするワンダープログラムを見たのは約二年ぶりだ。
デビュー二戦目のレース、彼は大外枠だったのをいい事に最後方からレースを進め、直線だけで全てを抜き去った。その時のワンダープログラムの顔はとても美しくてきれいでさわやかだった。
眉間にしわを寄せる事もなく、ただただ多くの牝馬と少しの牡馬を惚れさせる程度の力を持っていた存在がワンダープログラムだった。
そしてゲートが開くやその二年前と同じように、ワンダープログラムは後方に控えた。その時と同じく大外十八番枠と言うのを生かし、直線一気を狙っている。以前の彼ならば、滝原さんに強制されても絶対に取らなかっただろう戦法。
競馬場はざわついていた。
四番人気まで落ちたかつての英雄。ヒガシノゲンブがいなくなったからと言ってところてん式に勝利をするとは思われていない程度にはその名がすり減っていた英雄の、あるいはやけくそにも見えたかもしれないこの走り。
でもぼくはこの時、ワンダープログラムの勝利を確信していた。
「直線に入りました!まだ先頭は、おおっと大外からワンダープログラムが一気に上がって来た!道中前とは十馬身以上あった差がもう四馬身もない!ものすごいペースで迫っています!残り三〇〇、もう前とは二馬身もない!そして抜いた!ワンダープログラムが先頭に立った!さらに差を広げる!」
まるで、あのダービーだった。ダービーの時のヒガシノゲンブのように、ワンダープログラムは他の全ての馬をちぎり捨てて行く。違うのは脚質だけだった。
結果二着と五馬身差、一秒ちょうどの差でワンダープログラムはついにGⅠを勝ち取った。ヒガシノゲンブとまったく同じ差だ。一年四ヶ月かけて、ワンダープログラムはヒガシノゲンブに追い付いたのかもしれない。
「ワンダープログラム強い!できればこのワンダープログラムと大逃げを打ったヒガシノゲンブの戦いが見たかった!」
その通りかもしれないけど、残念には思わなかった。
ワンダープログラムは、もうヒガシノゲンブのことをさして意識していなかった。目の前にいる十七頭と戦う事だけを考え、そして自分の栄光と勝利をつかむためにこんな戦法を取ったに過ぎない。ヒガシノゲンブがここにいればどうしていたとかどうなったかとか、ぼくらにはともかくワンダープログラムにはどうでもいい事なんだろう。
天皇賞馬となって厩舎に帰って来たワンダープログラムは、自分の馬房へと引っ張られて行った。そのワンダープログラムは、一頭の馬の前で止められた。
ヒガシノゲンブだ。
明日はヒガシノゲンブの退厩の日だ。その前にかつてライバルと呼ばれていた存在であるワンダープログラムとの、しばしのお別れをするのだからその前に何か言葉でもかけてやれよと言う浅野先生の配慮だろうか。
まったく、屈腱炎になっているのにここまでの事をさせるだなんて、本当にヒガシノゲンブってのは桁外れな存在だ。
世界の英雄となった真っ黒なヒガシノゲンブと、それをある意味作り上げた王道を歩む鹿毛の天皇賞馬。
その二頭が、一年ぶりに言葉を交わす事になった。まずは世界の英雄が天皇賞馬を誘うようにほんのわずか後ずさり、天皇賞馬は自分が何とかせねばならんとばかりに口を開いた。
「ヒガシノゲンブ」
「んだよ、またいばりくさりに来たってのか?」
文字の額面だけ見れば、怖いかもしれない。でもその顔はむしろやたらにおだやかで、それでいて闘志を失っていない。例えてみればきさらぎ賞の時のような感じだった。
「ああそうだよ、キミは勝てなかっただろ秋の天皇賞を」
「そうだよ、出なかったからな!って言うか五対一で一の方がいばるか普通?」
「普通じゃないんだよ、僕は天皇賞馬だから」
「俺だってそうだぞ」
「ああ知ってるよ、でも僕は秋の天皇賞だからね、君は春の天皇賞だろ?」
「お前、まさかもう一年かけて俺に追い付こうとか」
「思ってるよ」
開き直りと言うには、あまりにもすがすがしい。良血馬とか天皇賞馬とか言う肩書を全部取っ払って、ただの二頭のサラブレッドが好き勝手にはしゃいでいる。なんだか微笑ましくて面白い。
「どんなに頑張ってもお前は俺には勝てねえよ、悔しかったらフランスでも香港でもドバイでも行って来い!」
「ああ行ってやるよ、まあ結局浅野先生次第だけど」
「言ったな、このいばりん坊!」
「その賛辞はありがたく受け取っておくよ」
「ああそうかいそうかい、次の戦いもお前を負かしてやっからな!」
「楽しみだね」
お子ちゃまの顔をしたまま、ヒガシノゲンブは競馬場を去って行く。大人であるワンダープログラムもまた、あと一年ぐらいでここを去って行くだろう。その後はまた、種牡馬としての戦いが始まる。
このぼくにとっても実に楽しみな戦いだ。できれば、その戦いの中にいたい。そのために種牡馬になり生き長らえようとするってのもまた一つの目標じゃないだろうか。
そのためには、まず勝つしかない。二人が最後の言葉を交わし合い、ヒガシノゲンブが北海道に戻って行くための飛行機に乗せられる事になる中、ぼくもまた別の飛行機に乗る。
行先は盛岡競馬場、レースの名前はJBCクラシック。一年前どころか、半年前ですらまったく信じられなかったGⅠレースだ。でもこのふたりと同じ時を過ごして来た、今のぼくなら行ける気がする。
「さようなら、ヒガシノゲンブ」
「おうとも、種牡馬になれるように頑張れよな」
「できれば僕とも勝負してもらいたいね」
「このいばりん坊の期待にも応えてやれよ」
まあ、ワンダープログラムとはもう一年ほど付き合う事になりそうだけど。これからも引き続き、このいばりん坊の面倒を見るのも悪くはない。彼からいろんな事を吸い上げながら、目指すはGⅠレースの制覇だ。
でも多分一発ではいけないだろう。
ヒガシノゲンブのように二度目で成功するとも思えない。
ユアアクトレスのように五回やっても成功しないかもしれないし、ワンダープログラムのように八回負けねばならないかもしれない。
しかしワンダープログラムは、九回目には勝利した、やってやれない事はない。
まあとりあえず、ヒガシノゲンブが言うようにぼくはまだあせる必要はない。この憧れの舞台を、素直に楽しんでもいいんじゃないだろうか。
「行くぞー」
浅野先生の声と共に、ぼくは手綱を引かれる。少しだけ手つきが乱暴と言う気がしないでもなかったけど、そんなのはどうでもいい事だった。
※これにて第一部は終わりです。第二部はココロノダイチが本当の主役となります、どうかお楽しみに!
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