4歳9月 吠えるべき時-2
「ぼくに言わせれば、キミは現在進行形でいばりくさっているよ」
「はあ?」
ヒガシノゲンブのあの笑い声をいばっていると考える馬はいても、空いばりと捉える馬はいない。
でもワンダープログラムの反応を見る限りおそらく無自覚ないばりっぷりは、空いばりのそれでしかない。優等生を演じている内に性となったとしても、その性ってのはいったい他の誰を幸福にしたんだろうか。ヒガシノゲンブだって戸柱さんを幸福にしたのに。
「もうわかってるんだろ、ヒガシノゲンブとの間に途方もない差が付いた事を。どうしてそんな存在がいばりくされるんだ?競馬のルールって何だ?」
「何って、そりゃ一番にゴールする事に決まっているじゃないか」
「そのために他の馬の進路を妨げるのとかはまずいよ、でも大逃げだろうが直線一気だろうが戦法なんてみんな勝手じゃないか。ヒガシノゲンブは大逃げって戦法で天下を取ったんだよ、それが邪道だと思う?」
「思わない」
「じゃあ君だって同じ事をすればいいじゃないか、失敗したってまだまだ時間はあるんだよ。それをしないのってただのうぬぼれだと思うよ」
「うぬぼれ………………」
「そうだよ、キミはうぬぼれてるんだよ」
正攻法で勝てる自分がいかに強いのか見せつけようとするだなんて、それこそいばりくさっているじゃないか。正攻法で取らなければGⅠじゃないだなんてルールはどこにもない。本命もあれば大穴もある。それがギャンブルである競馬だ。ワンダープログラムがどう走ろうがワンダープログラムの勝手だ。
それを拒み続け正攻法で勝とうとするワンダープログラムの行いをうぬぼれと言う単語で表現してやると、ワンダープログラムは首をがっくりと落とした。
「そう……うぬぼれだって言うんだ……」
泰然自若とした英雄の姿は、消え失せていた。
残っていたのは、ただのおぼっちゃん。
良血馬らしく生真面目な事だけが取り柄の、ただのGⅡコレクター。
ええかっこしいのうぬぼれ屋。
まるで皐月賞の後のヒガシノゲンブのような落ち込みっぷりに、下手人であるはずのぼくはほんの少しだけ同情した。でもすぐさま気合を入れ直して、派手に舌を動かしてやる。
「ヒガシノゲンブはそこから立ち直ったんだよ。君にはできないの?」
「できる、できる、できないはずがない……」
「だったらやれよ」
「やれって」
「とにかく他に何も考えないで走ればいいんじゃないか、いっそヒガシノゲンブと同じようにするとか」
「これだけ差がついたのに後追いをするってのは、逆ならやる気もあるけどね」
「じゃあそうしろよ、直線にかけてみろよ」
大逃げのヒガシノゲンブに、追い込みのワンダープログラム。中途半端な先行や差しより、いっそ面白い対決になるかもしれない。ぼくだって見てみたい。少しは面白くなろうとしてみるべきじゃないか。今のままではピエロでしかない。
「ヒガシノゲンブだって毎回一番人気と言う名の相当なプレッシャーと戦っている。しかも故障しているからあまりポンポンと使う事も出来ない」
「……」
「彼は積み上げた栄光を汚さないために戦わなければならない。あれだけの戦績を得たらぼくだったら慢心するよ」
「慢心?」
「そう慢心だよ、その上に外からの圧力も強かったはずだ、春の三つのGⅠなんて楽に取れるだろうと言う。それがいつの間にか勝って当然と言うプレッシャーに化け、あの大阪杯になってしまったんだよ」
「…………」
「ヒガシノゲンブは今、恩を恩で返すべく戦おうとしている、浅野先生にも、戸柱さんにも、他の人にも馬にも。その恩を、ぼくだってはダービーと言う形で返さなければならない。そのために今僕らはここにいる訳だ。答えなければならないんだよ、恩には恩でね」
ワンダープログラムの目が、うるんでいた。ブーメランと言う訳でもないだろうけど、ダービーの時の言葉をちょっと言い換えただけのそれが今自分に当てはまっている事を自覚しているんだろう。
「しっかりしろよ、このお子ちゃま!」
「う……うっ…………」
そしてぼくのさらなる一撃で、ワンダープログラムのダムは崩壊した。皐月賞の後のヒガシノゲンブのように涙を流し、しかし声だけは必死にしまい込んでいる。
「大人ぶるんじゃないよ!目一杯声を上げて泣け!」
「これで……勝てるのか…………」
「そんな事は今はどうでもいいんだよ!」
「うう……うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」
ワンダープログラムの代わりのように、ぼくは叫んだ。どうにかしてワンダープログラムの目を覚まさせてやろうという気持ちなどなく、ただ叫んだ。そしてワンダープログラムは、目の前の存在に手間をかけさせている罪悪感と違う理由で声を上げた。
要するに二頭の古馬が、年甲斐もなく大声でわめき合ったと言う訳だ。ぼくがもういいかと思って口を閉じても、ワンダープログラムは泣くのをやめなかった。厩舎中どころか、フランスまで届くかもしれないほどの大声で、ただ気持ちのままに泣き続けた。
古馬相応に太い泣き声を聞くのは、決して不愉快じゃなかった。こんな存在でもここまで泣ける物なんだなと、自分があおったくせにいい気になって見下ろしながら聞いていた。
やがて、ワンダープログラムは自力で涙を涸らしきり、しゃくり上げるのもやめた。
「よしよし、もういいんだ。ぼくだって生意気だったんだから」
「ありがとう、ありがとう……」
重賞未勝利の存在にすがりつくように、ワンダープログラムは顔だけからではなく下半身から液体を流した。みっともないとは思わない。ぼくだってパドックとかでも流しちゃうんだから。
でもかつて、ヒガシノゲンブはワンダープログラムの力を借りなければ克服する事はできなかった。一方でワンダープログラムはほぼ自力でやってのけた。どっちが立派なのか答えは見えているじゃないか。
「じゃあな」
「うん……………」
ぼくの叫び声と、ワンダープログラムが大人のふりをやめる合図となった産声は一体人間たちにどう聞こえていたんだろう。結局最後まで誰も来なかった事を考えると、わざと放っておいてくれたんだろうか。
もしこの泣き声が浅野先生や滝原さんに聞こえていたらどうなったか。止められていたら、ぼくは全力で抵抗したかもしれない。ワンダープログラムのためにじゃなく、自分のために。
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