3歳5月 ダービーの前日-2

「当たり前なんじゃないのか?」


※※※※※※※※※


 ――――その一言がまずかったんだ。ワンダープログラムは深くため息を吐きながら首を深く折り曲げ、そして首を大きく上げた。


「不思議なもんだよ、一言一句の単位で覚えている……」

 フッと言う擬音が出てもおかしくない口調なのに、ワンダープログラムは口元をまったくほころばせる事もしない。ぼくがその事を少しだけ不愉快に思ったのにも構う事なく、ワンダープログラムはまた話を続けた。




※※※※※※※※※




「僕だって皐月賞の時はそれがプレッシャーになった。何とかして何とかしてと必死に思った結果プレッシャーになり、飼い葉が喉を通らなくなった。その結果が十キロ減の六着なんて言うひどい結果さ」

「……」

「僕は僕として、親の名を汚さないために戦わなければならない。去年の年末のホープフルステークスに負けた時はまだ二歳だしと思ってしまっていた、そして弥生賞で勝ってしまったせいで、僕はいよいよ本格的に慢心してしまった」

「…………」

「そう慢心だよ、三つの内ひとつぐらいは楽に取れるだろうと言う。それがいつの間にか勝って当然と言うプレッシャーに化け、気が付けば食事が喉を通らなくなった。まったく情けなかった」

「………………」

「僕はこれ以上、恩を仇で返すような真似はできない。父さんにも、母さんにも、浅野先生にも、他の人にも馬にも。その恩を、僕はダービーと言う形で返さなければならない。そのために今僕らはここにいる訳だ。答えなければならないんだよ、恩には恩でね」




 ※※※※※※※※※




 あの時、これほどの口上をワンダープログラムは真顔で喋り続けたと言う。

 実にカッコいい。かくあるべしと言う理想を掲げ、それで今から実行しようとする姿は実にきれいだ。口だけじゃない、ワンダープログラムは今だってそうしようとしている。ユアアクトレスが好きになったのもわかる。


 でもどこか、上滑りしている気がする。当たり前の事を、当たり前に言っているだけ。その当たり前をぼくらは出来ている訳じゃないけど、だから何と言う気分もまた消えない。


「全く気が付かなったんだよ、おそらく彼の目はその時完全に据わっていただろう」

「顔を見てなかったの?」

「ああ、見てなかった」


 あの時、ダービーに向けて当日輸送された時と同じような空気。全方面に向けてケンカを売るような空気を出していたのはわかっていたそうだ。


「でもその時の僕はお坊ちゃんだった。よしこれで闘志満々になってくれたんだなと」








 もしヒガシノゲンブがワンダープログラムの思惑通りに目を覚ましその結果負けていたのならば、ワンダープログラムはまあしょうがないかで終わらせていただろう。




 ※※※※※※※※※






「………………いばりくさるのってそんなに楽しいのか?」

「え?」








 ワンダープログラムはこの時、初めてヒガシノゲンブの顔を見たと言う。目が据わっていただけじゃなく顔は真っ赤で全身の毛が逆立っていて鼻息は荒く、それでいて口だけは笑っていたと言う。

 想像するだけでアンバランスの極みであり、ぼくの知っている馬と言う生き物と全く違うそれらしい。と言うか、今のヒガシノゲンブとも全く違う顔。どんなに恐ろしそうに笑っても、イケメンと言うか血筋の良さを隠す事のないそれともぜんぜん違う顔。

 そしてそれ以上に恐ろしかったのは、いばりくさると言う言葉だったそうだ。その六文字を聞かされた瞬間、恐怖と驚愕が一対四で混ざり合ったハンマーで殴られたようにワンダープログラムは動けなくなり、次のヒガシノゲンブの言葉を待つ事しかできなくなったそうだ。




「ボクちゃんはこんなに立派なオトコノコなんですー、オマエのような坊や、いや赤ん坊とは違うんですーって宣伝するのって楽しいんだ、ふーん……」

「は?」

「帰れよ!十分もういい気持ちになっただろ、分別でいっぱいなオトナ様!!」


 そしてその顔からこれまでの優等生然とした彼から全く想像できないような汚い言葉を立て続けに投げ付けられてひるんだのか、ワンダープログラムは背筋を正して無言で自分の馬房へと帰って行ったと言う。




 ※※※※※※※※※




「それがなおさらヒガシノゲンブを煽ってしまったのかどうかはわからない。あるいは、少し呆れただけだったのかもしれない。何せダービーだから、それが一番大事なんだからそこの事を考えてればいいと思ったんだ……」


 そりゃそうだ、ぼくだってそう思う。常識的に考えてそうなるはずだ。

 とにかくそれ以上の罵声が飛んでこない事に安堵し、ゆったりと逃げたワンダープログラムの後ろからは飼い葉をむさぼる音が鳴り響き、その音もまたワンダープログラムにとってはようやくその気になってくれたのかと言う安堵の材料の一つになっていたそうだ。







 ――その結果が、あれだった。










「僕はまったく正しい事をしたつもりだった。その結果、自分の栄光をぶち壊しにするどころかヒガシノゲンブもぶち壊しにして、そして彼と戦った全ての馬も」

「ぶち壊すって、立派にするって事?」

「はあ?」


 ダービーを負けてしまっただけじゃない。

 とんでもない化け物を、作ってしまった。

 その化け物のせいで、競馬界は乱れに乱れた。ダービーも菊花賞も、まったく彼のためだけの舞台になってしまった。その化け物をまっとうな馬として矯正しようとした大阪杯も全くの逆効果に終わり、もはや彼の好きにさせるしかなくなってしまった。

 勝つたびに敗者の全てをあざ笑い、全てを否定しようとする。栄光だけじゃなく権力も手に入れてしまったあの化け物を止める事ができるのは、僕だけしかいない――と、言う事らしい。


 で、それはいったい誰の責任なんだろうか。


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