3歳5月 ダービーの前日-1

 皐月賞の前日の土曜日。デビュー七戦目、ぼくはまた勝てなかった。


 皐月賞でヒガシノゲンブかワンダープログラム、どっちかが勝利すればその勢いがうちの厩舎全体に感染して次は何とかなるんじゃないのかなとか、まったく支離滅裂な事を考えていた。


 でも結果はあの通り、どっちも惨敗だった。



 皐月賞の時のワンダープログラムは、今と変わらず極めて真面目な顔をしていた。一番人気と言う文字にも安心する事なく、精悍な体つきと戦う男の顔をして整然と立っていた。追い切りの時もぼくのような未勝利馬と違ってまったく表情を崩す事なく走り、そのポテンシャルを見せつけた。

 けれど、レースでは中団に構えるも脚が伸びず六着。その時弥生賞に比べマイナス十キロになっていた事を知ったのは後からの話であり、ぼくが見る限りはただの勇ましい馬だった。




「僕はあの時、目を覚ましたつもりだった……」


 それまで重賞二勝GⅠ二着と言う実績もあるし、まだどこか楽観していたと言う。それが同じ競馬場同じ距離の弥生賞と同じように走ってこんな結果に終わった時、ワンダープログラムは自分の甘さを悟ったそうだ。







 一方でヒガシノゲンブは、かなり浮かれていた。GⅠで三番人気になれば浮かれもするだろう、そして何よりワンダープログラムと違って負けた事がなかったんだから。恐れを知らなかったとも言える。

 でも結果はやっぱりひどい物だった、中団から抜け出す予定がまったく上がらず、残り百メートルの段階でレースをやめているとまで滝原さんから言われたほどだった。


 十三着。生涯初めての敗戦。まったくみじめなそれだ。




 そしてこの敗戦により、ヒガシノゲンブは多くの物を失った。


 まず無敗馬と言う肩書を失った。




 ――ただの良血お坊ちゃん。

 ――母親の名前に泥を塗った。

 ――むしろきさらぎ賞がラッキーだっただけ。


 そしてそんな陰口を叩かれるようになった。ちなみにワンダープログラムも似たような事を言われていたけど、ダービーを勝って見返してやろうと思って耳を傾けなかったらしい。






 世間の冷たい風にさらされたヒガシノゲンブは、簡単に崩れた。皐月賞の後食欲不振に陥り、ダービーの時には前走からマイナス十二キロ。実はきさらぎ賞の時と比べれば六キロしか違わなかったが、いずれにせよ歓迎できる数字ではない。


 その上追い切りをした戸柱さん曰く


「まだ本気で走ってない、まだ子ども。きさらぎ賞は素質で勝っただけ」


 と、あまり期待されていなかったとしか思えないコメントしか残してもらえなかった。



「いつまでワンワン泣いてるのよ、犬じゃあるまいし!少しでもあんたをもてはやしてた時間を返してちょうだいよこのバカ!!」


 挙句の果てにユアアクトレスからもこう言われてすっかり落ち込んでいた。ユアアクトレスがワンダープログラムに乗り換えるきっかけを作ってしまったのはヒガシノゲンブ自身だと言えなくもないが、それについてうんぬん言う権利はぼくにはない。



 確かだったのは、ぼくが自分だけが必死になっていたつもりで追い切りをやっている間に、ひとつのとんでもない事件が起きたと言う事だけである。













 そんな中でのダービー前日。


 ヒガシノゲンブはこれまでのひと月近くと同じように、飼い葉もまともに食べずにぐったりしていたと言う。する事と言えば泣きわめくぐらいで、これがダービーに出る馬なのかよとみんなから半ば呆れた目で見られていたらしい。


「どうしたんだヒガシノゲンブ、食べないとやせるぞ」

「ワンダープログラム……」

「ヒガシノゲンブはぼくの母さんの名前を知ってるかい?」

「知ってるよ」


 そこにたまたま通りかかったのがワンダープログラムだった。ヒガシノゲンブが皐月賞以降ずーっとそうしていたように気力をなくしていた中、ワンダープログラムは自分の母親のことを述べた。


 かつて桜花賞を取り、その後と合わせて5億円を稼いだ名牝のこと。ぼくでもその名前を知っている存在。

 でも、ヒガシノゲンブの母親はGⅠを二勝し6億円以上稼いでいた。あるいは空威張りじゃないかって弾き飛ばす事も可能だっただろうけど、優等生であるヒガシノゲンブは素直に話を進めさせてしまった。




「それってイヤじゃないの?」

「何が?」

「強い馬の子どもは強くて当たり前みたいにさ、みんなから言われて……」

「当たり前なんじゃないのか?」




 ※※※※※※※※※




 ――――その一言がまずかったんだ。ワンダープログラムは深くため息を吐きながら首を深く折り曲げ、そして首を大きく上げた。


「不思議なもんだよ、一言一句の単位で覚えている……」


 フッと言う擬音が出てもおかしくない口調なのに、ワンダープログラムは口元をまったくほころばせる事もしない。ぼくがその事を少しだけ不愉快に思ったのにも構う事なく、ワンダープログラムはまた話を続けた。




 ※※※※※※※※※




「僕だって皐月賞の時はそれがプレッシャーになった。何とかして何とかしてと必死に思った結果プレッシャーになり、飼い葉が喉を通らなくなった。その結果が十キロ減の六着なんて言うひどい結果さ」

「……」

「僕は僕として、親の名を汚さないために戦わなければならない。去年の年末のホープフルステークスに負けた時はまだ二歳だしと思ってしまっていた、そして弥生賞で勝ってしまったせいで、僕はいよいよ本格的に慢心してしまった」

「…………」

「そう慢心だよ、三つの内ひとつぐらいは楽に取れるだろうと言う。それがいつの間にか勝って当然と言うプレッシャーに化け、気が付けば食事が喉を通らなくなった。まったく情けなかった」

「………………」

「僕はこれ以上、恩を仇で返すような真似はできない。父さんにも、母さんにも、浅野先生にも、他の人にも馬にも。その恩を、僕はダービーと言う形で返さなければならない。そのために今僕らはここにいる訳だ。答えなければならないんだよ、恩には恩でね」




 ※※※※※※※※※




 あの時、これほどの口上をワンダープログラムは真顔で喋り続けたと言う。

 実にカッコいい。かくあるべしと言う理想を掲げ、それで今から実行しようとする姿は実にきれいだ。口だけじゃない、ワンダープログラムは今だってそうしようとしている。ユアアクトレスが好きになったのもわかる。


 でもどこか、上滑りしている気がする。当たり前の事を、当たり前に言っているだけ。その当たり前をぼくらは出来ている訳じゃないけど、だから何と言う気分もまた消えない。


「全く気が付かなったんだよ、おそらく彼の目はその時完全に据わっていただろう」

「顔を見てなかったの?」

「ああ、見てなかった」


 あの時、ダービーに向けて当日輸送された時と同じような空気。全方面に向けてケンカを売るような空気を出していたのはわかっていたそうだ。


「でもその時の僕はお坊ちゃんだった。よしこれで闘志満々になってくれたんだなと」


 

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