4歳9月 オールカマー
「おいワンダープログラム!」
放牧から帰って来るなりまったく口を開けないまま調教に向かおうとしていたワンダープログラムに、ぼくは思いっきり吠えかかった。
「やる気があるのか!勝つ気があるのか!」
「……………………」
この反応もわかり切っていた事である。あまりにも急に吠えたせいで厩務員さんに手綱を絞られたのは嫌だけど、それ以上にワンダープログラム自身が痛々しかった。
そこまでして自分のやり方にしがみつく事に何の意味があるのか。その答えをワンダープログラムは誰にも言っていないようだった。ぼくやユアアクトレスのみならず、滝原さんや浅野先生にさえも。
ユアアクトレスも寄り付かなくなったワンダープログラムは、文字通りのひとりぼっちになっていた。その点でもヒガシノゲンブと大差を付けられたのに、それが目的の邪魔にならないのならば別にどうでもいいと言わんばかりに月日を過ごしていた。
考えてみれば、ダービーの後からずっとそうだった。誰がどんなに吠えても、滝原さんが落ち込んでも。その間眼光ばかりいたずらに鋭くなり、それがレース中でもない限り血走る事はないのがむしろより大きな恐怖を与えていた。その恐怖は言うまでもなく更に馬を遠ざける。
「真面目に話を聞け!」
「…………で、レースに何か関係があるのか」
耳を貸す気は全くないらしい。ぼくがああそうかいとばかりに首を振ると、わずかに表情を緩めた。そこまでして遠ざけよう遠ざけようとする理由すら、まったく教えようとしないままに。
そんな負の連鎖をまったく自覚する事なく時を過ごしたワンダープログラムは、秋の天皇賞へのステップレースだとばかりにオールカマーに出走し、人気と同じ着順でゴールした。
その顔に、喜びの色はない。あくまでもステップレースに過ぎないですからと言う訳でもないだろうが、相変わらず無表情で次こそは勝ちますとしか言わなかった。
「少しぐらい笑えよ」
「断る。天皇賞を勝ってからでも遅くはない」
「じゃあ再来週に笑えよ、笑わせてくれる存在がいるだろ?ヒガシノゲンブが凱旋門賞を勝てば日本中が笑うはずだ。そんな中自分だけしかめっ面をしているだなんてええかっこしいをする気か?」
厩舎にしかめっ面のまんま戻って来たワンダープログラムをぼくは怒鳴りつけたが、またワンダープログラムは同じ事しか言わない。
自分だけは違う、ちゃんと勝負の事を考え地に足のついた存在であるだなんてアピールして何になるんだろう。実が伴わなければ意味がないという事に気付くはずなのに、なぜその事実に耳を塞ぐのか。
「いくらヒガシノゲンブと言えど相手は世界の強豪だぞ。もちろん勝利を祈ってはいるけどそう簡単な話でもないしな」
「ダメならばダメで言葉があるでしょ、ちゃんといい言葉をかけてあげなきゃ!」
「今のぼくにヒガシノゲンブと話す資格などない」
「何が資格だよ!そんなもん要るのか!最後に言葉を交わしたのはいつだ!」
「菊花賞の終わった後が最後だ」
予感がなかった訳ではない。だがいくら何でもダービーから一年以上あったはずだ。しかも同じ厩舎に所属して、三度もGⅠレースで一番人気二番人気という立場で出たのに。
その間、まったく何の会話もしなかったと言うのか。
「ヒガシノゲンブの方から何かなかったのか?」
「何にもないよ、それは君だって知ってるだろう」
「呆れたね」
そうとしか言いようがない。
ヒガシノゲンブは元々は愛想が良かったけど、ダービーの後からはあの笑い声と成績のせいか対等に話せる相手は減っていた。そんな中ずっと二歳の時と同じような付き合いを続けていたぼくは、いつの間にかヒガシノゲンブの親友になり窓口のような存在になっていた。フランスへ向かう彼の見送りができなかったのは残念だけど、それでも一応声はかけたし返事もくれた。それだけでソウヨウアイドルのような二、三歳馬がやたらすり寄って来るようになった。最近成績が上がってるのはそのおかげだという事にしたい。
ワンダープログラムだって同じ事ができるはずなのに、なぜ全くしようとしないのか。
「どの面下げて会いに行けるんだ、言葉を交わせるんだ」
「意味が分からないよ!同じ厩舎の仲間だよ、同じレースを四度も走った仲だよ!」
「僕はGⅠを勝つまで、彼とは言葉を交わさないと決めていた。あの時口が滑ってしまったのは痛恨の極みだよ」
「菊花賞の?」
「ああ。そしてその時僕は決意を新たにした。それが自分の非力ゆえにかなわないまま今の今まで来てしまった」
「説明してもらいたいね!」
ぼくだけが顔を赤くしたまま、ワンダープログラムの言い訳を叩きにかかった。
GⅠ四勝馬とゼロ勝馬で格差があるからだって?バカバカしい。
ぼくなんか芝とかダートとか以前に未だに重賞未勝利馬だ。そんな存在がすり寄って行って、ヒガシノゲンブに上から見られたり拒絶されたりした話はひとつもない。
いつ何時失言をしたって言うんだ、まさか菊花賞の時の称賛の言葉が失言だったって言うんじゃないだろうと迫ろうとしたら、あっさりと首を縦に振られてぼくは返す言葉を失いかかってしまった。あの賛辞のはずの言葉が、ヒガシノゲンブの中では見下すような暴言に化けるって一体どんな事だろう。
「わかった、全て説明しよう。すべては、あのダービーの前の日だ。その日、僕はとんでもない過ちを犯してしまった。僕はヒガシノゲンブのためにもその過ちをつぐなわなければならない。僕は、僕のやり方で勝たなければならない!それが僕の責任であり義務であり、ヒガシノゲンブへの罪滅ぼしなんだよ!」
きつくて悔しいレースの終わりでも、誰から何を言われても、きれいに流れていたはずのワンダープログラムのたてがみが、まっすぐに立っていた。ずっと無表情を貫いて来た存在が、その癖とやり方を治す事のないまま自己主張をしようとしている。それを押しとどめる理由はどこにもない。
「では聞いてくれ」
ワンダープログラムは、いつもの整然とした口調で「全ての始まりの日」であるダービーのことを話し始めた。その日何があったのか、ぼくがまったく知らなかった事を。
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