4歳7月 ぼくの夏競馬

 ぼくは飛行機に乗せられ、函館に降り立った。オープン特別から重賞へ、それがぼくのローテーションだ。

 風はまるで春を思わせるように優しく、それでいて夏である事を示すかのように日は照っている。実に過ごしやすく穏やかで、ここが戦場であると言うイメージを湧かせるには少し不足かもしれない場所だ。





 あの大阪杯からまもなく三ヶ月が経つというのに、併せ馬をぼくに頼んだ浅野先生の顔は相変わらず重たかった。

 その重さがぼくらのそれを全て請け負ってくれたせいか、ぼくはオープン特別に勝てたし一緒に併せてくれたソウヨウアイドルって二歳馬も新馬戦を勝てた。


「おめでとうございます」

「そちらこそおめでとう」

「ボクもヒガシノゲンブさんみたいになれますかね」

「まあ、可能性はいくらでもあるからね」

「言ってみただけですよ、あの馬は特別ですから。普段はおとなしいのにいざレースになるとまるで別の馬のようにものすごい速さで後ろを離し、そしてその差を詰めようとすればその持続力で突き放し追い付かせない。そんな馬になれるんならばなりたいですけどね。普段のヒガシノゲンブさんってけっこう気さくなんでしょ」

「少なくともぼくに対してはね」


 ソウヨウアイドルもまた、ヒガシノゲンブに憧れている。古馬になり多くの後輩と併せ馬をする事も増えた中、いつの間にかぼくはヒガシノゲンブの親友と言うポジションになっていた。どうやって強くなったのか昔はどうだったのか普段はどうしているのかとか、まったく大変だった。種牡馬でもないのにこんな責任を負う事になったぼくが果報者なのか不遇なのかは、わからない。




 そして、ワンダープログラムの話は出ない。


「ああ、あの馬は立派な馬だと思います」


 ぼくが聞いても返事はそれだけ。何も間違っていない。本当にそれだけ。レースの事以外には何の関心も持たず、最近ではほとんど誰とも話そうとしない。かろうじて愛想がよくなるのはレースに絡む話の時だけ。

 皐月賞が終わった後以来、ずっとそのまんまだった。もう、一年以上経つと言うのに。


 ぼく自身、二歳の頃にはどうしたら勝てるのかさえわからなかった。三歳になってからは、隣の名馬たちばかり見て過ごして来た。その彼らのお陰でぼくは強くなり、オープン馬まで上り詰められた。ココロノダイチと言う名前はそれだけ大きくなり、そしてそれだけ重くなった。でもぼくは決してそれが重いとは思っていない。その分だけ、ぼくも大きくなれたからだろうか。

 ヒガシノゲンブはダービー以降、弱音を吐いた姿を見せた事がほとんどない。たまにあったとしてもあっさりした文句だけ。ある意味大人の態度とも言える。

 ワンダープログラムだってその点は同じだ。弱音を吐いた事はないし、言い訳もしない。負けた所で言うのは自分が弱かった相手が強かったばかりで、責任を他に押し付けるような事はしない。これまたある意味実に立派な話のはずだ。







「私はもう彼とは終わったから。それでも繫殖牝馬になったら種付けさせられるのがサラブレッドの可能性なのよね、あーあやだやだ」

「じゃあヒガシノゲンブと」

「今の私じゃ不釣り合いよ、何でも凱旋門賞だって」


 ぼくが函館で先輩風を吹かせまくっていた中、ヒガシノゲンブはフランスへ遠征に行っていた。まったく、とんでもない話だ。凱旋門賞と言えば日本の競馬に関わる人馬にとって最大の目標のひとつ、それを取ればそれこそ日本の歴史に残る名馬になれる。どんなに頑張っても二度と追い付けない境地にまで行ってしまえると言う訳だ。


「って言うかあんたも案外おせっかいなのね、私が捨てた男がそんなに気になるの」

「どうして?」

「どうしても何も函館から戻って来て開口一番そんな事を聞かれればねえ、成績も良かったはずなのに」


 オープン特別一着の次は、重賞二着。十分な結果を残した事もありここで一旦小休止と言う訳か、次は二ヶ月ほど後の予定になっている。そんな訳で函館から栗東の浅野厩舎に戻ったぼくがいの一番に訪れたのがユアアクトレスの所であり、真っ先に聞こうとしたのがワンダープログラムとの事だった。


「ぼくなんてヒガシノゲンブから比べればまったく雑魚でしかない。改めて海外遠征の話を聞いてヒガシノゲンブのすごさを思い知ると共に、ワンダープログラムはこのニュースを聞いてどうしてるのかなと思って」

「だから私は彼とはもう終わったの」

「本当に恋愛だったの?」


 ワンダープログラムは、性格だけならば理想の存在だった。その理想の存在と同じ事ができるならば、調教師も調教助手も騎手もものすごく楽な稼業だなと思うぐらいには真面目だ。その真面目さは確かに素晴らしい物かもしれない。


 でもそれは、ヒガシノゲンブのあの凄まじいほどの強さに打ち克つほどの物だろうか。だからこそユアアクトレスもワンダープログラムを見放したとも言えるが、それが果たして恋の冷め方と言う物として正しいのかどうかはわからない。どちらかというと、堅苦しい理屈とワンダープログラムのいつも口にするレースのための問題と言った風の話だ。


「そう言われると正直わかんないのよね。ワンダープログラムの真摯な姿勢に憧れてたってだけかもしれないし。でもワンダープログラムには元からそういう感情がなかった感じで、それをさらに抑え込んでいるからいろんな意味でお話にならなかったのかもしれないけれどね」

「抑え込んでる?走るために邪魔だから?」

「違うと思うけど、って言うかこれ以上昔の男についてあれこれ語らせないでくれる?」


 元からない物をさらに抑え込んで何を得ようと言うのか。それがGⅠの勝利だとすればまったく成功していない以上逆効果でしかないし、じゃあ他に何があるんだろうか。

 義務だの責任だの言うけど、そんなのにこだわって勝つ事を放棄する方がよっぽど罪深いじゃないか。ぼくが一つの結論を出して口を閉じたのを感じるや、ユアアクトレスはシッシと言わんばかりに右前脚を踏み鳴らし始めた。

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