4歳6月 宝塚記念-1

 天皇賞から四週間後、オープン馬として初めて出走する事になったレースでぼくは一頭のサラブレッドと出会った。


「ココロノダイチか」

「あなたは?」

「ナンダカイケソウだよ……」




 格上挑戦と言う扱いでやって来た彼は、三歳の時に三冠競争を皆勤した時のような覇気を見せてはくれなかった。ぼくが少しだけ緊張して別の声のした方を向くと、視線が彼に集まっているのを感じて口が震えそうになった。

 すぐさまそれが悪意のない事に気付いて胸をなでおろしてはみたが、にしては目線がとげとげしかった。


「気にするな、お前のせいじゃないから。全て自業自得なんだよ」


 ぼくと同じ四歳のはずのナンダカイケソウはまったくレースに疲れ切った顔をして首をすくめながらこれまでのことをぼくに話してくれた。






(お前がいなければあんな事にはならなかった)

(お前のせいで俺たちの仲間が栄冠を逃したんだ)

(お前のその舌を引っこ抜いてやろうか)

(大阪杯は楽しかっただろ?)


 こんななんともまあひどい言葉を、ナンダカイケソウはダービーの後から今までさんざん言われ続けたらしい。

 菊花賞まではどうせ自分の責任だしと言えていたが、その後になってもレースに出るたびに言われ続けるとは思わず、その度にだんだんと自分の発言の重みがのしかかり食い込んで行ったそうだ。

 まるでトップハンデを背負っているかのように背中を重たくしていた彼には、自分が投げ付けたブーメランの傷跡が痛々しく輝いていた。



「ったくよう、つまんねえやっかみとほんのちょっとの揚げ足取りがこの結果だよ……」

「大変だね」


 ぼくだってその場にいたとして同じ事を言わない保証はない。セリ市で高額で落札された馬ってのが、競走馬として思ったほど成功しない事は多いって事を知ったのは古馬になってからだ。


 もしぼくが二歳の時から順調に勝ち上がっていたら、ぼくはこんなにヒガシノゲンブやワンダープログラムと親しくなれなかったと思う。ふたりはまぎれもない「高額で落札されて成功した馬」であり、ぼくにはない何もかもを持っている馬だ。勝ち上がりに時間がかかり、それも芝じゃなくてダートばかり走っていた事は、ぼくにとって幸運なのかもしれない。

 で、レースの結果はと言うとぼくは四着、ナンダカイケソウはブービー。タイム差は一秒ちょうど。かつて見下したはずのヒガシノゲンブから比べれば、足元に及ばない存在にこれほどの差を付けられる。まったくみじめ極まる話だ。


「伝言を頼むよ……」


 レース後、すっかり打ちひしがれていたナンダカイケソウはぼくに伝言を頼みこんで来た。それが、どれだけ彼の救いになるかはわからない。

 今や、いやダービーの時から圧倒的な差を付けている存在から何を聞かされた所でヒガシノゲンブがどうにかなる物でもない。でもナンダカイケソウにとってはこれによりヒガシノゲンブとほんの少しだけ近い立場に立つ事ができる訳である。プラスしかないならば受けない意味もないだろう。




「自分がどれだけ恵まれているか考えた方がいいと思うよ」

「ずいぶんと言うようになったのね!」


 厩舎に戻って来たぼくがその仕事を終えて帰って来ると、ユアアクトレスがはしゃいでいた。ヴィクトリアマイルで2着に入ったこの馬は、次のレースとして安田記念ではなく宝塚記念に出る事になったと言うのだ。宝塚記念には、ワンダープログラムもヒガシノゲンブもいる。人気投票により出走馬を決められるこのレースに出走すること自体、文字通り選ばれた者の証だ。

 ナンダカイケソウだって、その選ばれた者になりたかっただろう。でもその可能性があのふたりに比べてあまりにも小さい事を知った時、彼はとてつもなく不愉快な気分になったに違いない。


 例えばぼくとワンダープログラムには、1歳の時の購入価格にして30倍以上の差があった。この時点でもう平等ではない。その分だけ、ぼくは栄光を得る可能性が小さいと思われたという事だ。客観的に言ってあまり愉快な話ではない。おそらくは今説明したのと同じ類の不愉快さをナンダカイケソウは抱き、ふたりが大失敗をしたチャンスを見つけてここぞとばかり叩き込んでやったと言う訳だ。



(「つまらない奴がつまらない事を言って立派な奴の足を引っ張ろうとした、本当に情けねえ話だ。もし未だに気にしてるんならもう気にしなくていいからって、気にしてねえんならありがとうって言わせてくれ。どうか頼むぞ」)



 返事はいらないと言う事なので、ぼくはヒガシノゲンブの返事がどういう物だったかは黙っておくことにする。どんな答えだったにせよ、ナンダカイケソウには吉報である事には間違いないから。


「滝原さんとワンダープログラムはうまくやれているのかな」

「そうに決まってるでしょ」

「ぼくはその点が何より不安なんだ。戸柱さんとヒガシノゲンブは息が合っている、ワンダープログラムだって」

「海の向こうまで行ったような存在よ」

「でももう」

「三度も同じ過ちを繰り返す?」


 ダービーは半ばイレギュラーだったからノーカウントだとして、菊花賞に春の天皇賞。二度、ワンダープログラムはヒガシノゲンブと戦って負けた。同じ戦法ばかり取る存在に。それを前にしてまた同じやり方を取るほど自分の思う馬はバカではない。全くごもっともなはずの理屈だ。


「その旨をちゃんと」

「くどいなあ、あんまり負けてばかりだからワンダープログラムが信じられなくなっちゃった訳?」

「本当にちゃんと伝えてよね!」

「わかったわかった、もう熱くなっちゃってー。大丈夫だから、伝えておくから」


 だがユアアクトレスの理屈のスタートは、ワンダープログラムに対する絶対の信頼だった。ワンダープログラムならばそういう賢明な判断をしてくれるだろうと言う前提。その前提ありきでぼくだって考えていた。

 でも今ユアアクトレスがちょうど言ったように、ワンダープログラムは敗戦を重ねすぎた。そうして敗戦を重ねるたびに信頼は薄れ、傍観者からしても不安を感じずにいられなくなる。ユアアクトレスにはそういう不安がないのだろうか。レースの事しか目に入っていないワンダープログラムにユアアクトレスがどれだけの影響力を持っているのかはわからないけど、いずれにせよユアアクトレスの言葉は、今のぼくに安心を与える物ではなかった。







 宝塚記念。ぼくはそのレースが行われる阪神競馬場にはいなかった。モニター越しにパドックを見て、レースを見た。




 そしてモニターの向こうでは、またいつも通りの光景が繰り広げられていた。

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