4歳5月 天皇賞・春-2

「とうとうオープン馬とはな」

「ありがとう」

「これだけは言わせろ、お前はもうある種のエリートだよ」

「静かにして、スタミナを消費するよ」

「ああすまない」

「君ってレースに関わる事には本当に素直だね」


 ワンダープログラムの操縦法は、ある意味簡単だ。レースのためにならないと言えばおおむねこちらの言う事を聞かせられる。滝原さんだって元から素直で乗りやすい馬だと言っているが、その事に対して彼は何か疑問を持たないんだろうか。


「それでさ、ヒガシノゲンブと何か話したの」

「何も話していないよ、菊花賞以来。知ってるだろヒガシノゲンブは」

「だからスタミナを浪費するって言ってるだろ」

「ああいけないいけない」


 それでお前が振ったんじゃないかと言う文句を言う事もない、これもスタミナの浪費なのに。ぼくがこんなに意地の悪いやり方で意地の悪い事を聞いているのに平然と答えてくれるのは、それがワンダープログラムだからとしか言えない。


 確かにヒガシノゲンブは菊花賞の翌週に故障が判明し、厩舎に戻って来たのは二月の下旬だ。その時ワンダープログラムは中山記念を勝ち、ドバイ遠征への準備を整えている時期だった。故障明けで体がなまっているヒガシノゲンブと海外遠征に向けて大変だったワンダープログラムではタイミングが合わないのもわかるけど、それにしたって大阪杯からひと月近くもあったはずだ。ぼくのいない所で何かあったのかと期待とかまかけを半々にして尋ねたつもりだったが、やはり二人の間には何のやりとりもなかったようだ。


「敵を知り己を知れば百戦危うからずって言うけど」

「静かにしてくれ」


 本当なら、またいっぱいしゃべりたかったのだろう。いっぱいしゃべってぼくの口を閉じさせレースに集中したい、そんなワンダープログラムのやり方に立ち入る権利はぼくにはない。ぼくが自分の応援から戸柱さんの乗るヒガシノゲンブの応援に切り替えた事に気付いているのか否か、自分のやり方を貫かんとばかりにワンダープログラムは口といっしょに目を閉じた。先頭であのゴール板を駆け抜けるイメージトレーニングでもしているんだろうか、だとしたら本当に勤勉だなと思う。


 ――――その勤勉さが、結果に結びつくかと言うと別問題だったのだが。







「やっぱり逃げ!この闘志に満ち溢れた逃げこそ真骨頂!」



 単に制御できないだけだろなどと言う悪口を言う権利はもう誰にもない。

 彼は、最強になっていた。改めてその力を見せつけてしまった。勝手に先頭に立ち、勝手に走り、勝手に一着でゴールインする。そこには自分以外の存在はなかった。



「あれについては申し訳ないと思ってるんですけどね、不思議な事に気力がまったく起きなくなってましてね、善意って本当に猛毒ですよねー」


 うめいたり吠えたりするより、ずっと恐ろしかった。闘志って奴を深くしまい込み、そして適当なタイミングで放出し、このような結果を得た。ウイナーズサークルで出された彼の言葉は、これまでと同じように他の馬たちの口をしっかりと閉じさせた。


「フッフッフッフッ、アッハッハッハッハッハ……」


 そして、また笑った。その笑い声が、浅野先生と滝原さんの心を470キロと言う平均的なサラブレッドの体重いっぱいの力で踏み付けた事は言うまでもない。

 戸柱さんはと言うと、天皇賞の盾を抱えながら心の底から笑っていた。むしろ、それが当然の対応だろう。

 本来ならば、浅野先生だって喜んでしかるべきはずだ。だけどヒガシノゲンブに踏み付けられた浅野先生は、喜ぶことが絶対悪であるかのように唇を固く結んで無理矢理に顔を上げている。

 目だけはかろうじて輝いているけど、調教師として最大クラスの名誉を手にした人間の顔じゃなかった。どちらかというとシンガリで負けた時のような顔だ。心音が頭の中に鳴り響いているのか、歓声も聞こえている様子がない。






 そしてワンダープログラムは、何も言わない。



 またまた、彼はヒガシノゲンブに負けた。菊花賞の二馬身半差が二馬身差になったけど、それ以外は何にも変わらない。またもや、ワンダープログラムはヒガシノゲンブの尻だけを眺めて走り終える事になった。

 走っても、走っても、届かない。GⅡは三つ勝ったけど、GⅠではこの五戦で二着三回三着二回。届きそうで届かない。

 ここまでくると実力とかヒガシノゲンブがとか言う問題じゃないだろう。


「ワンダープログラム!」

「……」

「ワンダープログラム!!」

「宝塚記念こそ勝つ、それだけだ……」


 もしユアアクトレスならば、突き放したかもしれない。それでもぼくは彼を放っておけなかった。レース前に同じ事をやってそっぽを向かれたのにやめられなかった。


「どうして負けたと思うんだ!」

「ヒガシノゲンブの方が足が速いからだ」


 まったく答えになっていない。ヒガシノゲンブ以外には勝っているのだから、ヒガシノゲンブに勝つ方法を考えるのは当たり前の話じゃないか。それを放棄して単に自分が弱いからだなんて、あまりにも単純すぎる。


「だからどうやったら」

「調教を重ねるしかないよ」


 三着以下の馬たちがみなあの笑い声に押しつぶされる中、唯一言いたい事を好き勝手に言えている存在。その彼が先週、言いたい事を言った結果どうなったか。そして今、沈黙を保っている事に何の意味があるのか。ワンダープログラムはその事を自覚しているのか否か、真面目くさった顔のままぼくの視界から遠ざかって行った。


 滝原さんが最終レースの騎乗がないのをいい事に、泣いていると言うのに。


 目からは何もこぼれていなかったけど、同じ相手に同じやり方で三回も負けたならば悔しいのは当たり前だろう。ワンダープログラムとヒガシノゲンブ、その両方を自分の手により敗北者にしてしまったと言う無念を晴らし、曲がった背筋を伸ばせるのはいったい何か。それは勝利しかないじゃないか。他の馬ではなく、ワンダープログラム自らの。その事をあの真面目で賢いワンダープログラムがわからないはずがないだろう。


 同じ厩舎の仲間として、同じオープン馬として、期待を抱く事の何が悪いのか。ぼくが自分勝手にワンダープログラムにがっかりした事など知る由もなく、ワンダープログラムもまた自分勝手に宝塚記念の事に頭をやっているのだろう。ああ、実に幸福な馬だ。



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