第22話 熱唱

バン。

突如、客席の最後列の中央に位置する扉が開かれます。照明の落ちたホールに入る傾いた日の光が、ステージまでの道を一直線に照らします。

大きな影が光の道の上をゆっくり下り始めます。

馬です。

たてがみに夕日の光を反射させ、巨体を支える四本の足がしなやかに歩みを刻みます。昼日の下にみれば年老いた老馬でも、暗がりから光の中を歩くシルエットを見れば、おとぎ話のユニコーンのような名馬に見えます。

その背中にベルがいます。

あまりにも良く出来たタイミング、予想もできない登場に、観客達も、進行係も、一言も発する事ができずにその行進を見守っています。

「ベル」

誰もが動きを止めている中で一早く動いたのはトニオです。ベルの名を呼ぶと、立ち尽くしている進行係の間を抜けベルの元に駆け寄ります。

「トニオさん」

駆け寄ってくるトニオに気付いたベルが名を呼ぶと、ロシナンテは歩みを止めます。

ベルは手綱を離し、ロシナンテの首に手を回します。ロシナンテは気遣うように体を下げ、トニオがベルの手をとり下馬を手伝います。ロシナンテは決して大きな馬ではないのですが、小柄なベルでは馬具のついていない背中から下りるのは大変なことです。お尻を右に左に動かして苦心しているベルを、トニオが背中から抱き抱えて床に下ろし、とびきり優しい声で耳元に囁きます。

「待ってたぜ、俺の歌姫。さぁ、ぶちかましてやろうぜ」

貴人をエスコートするようにトニオがベルをステージに上げると、三人娘が駆け寄って、長女のエルがどこからか持ってきた布を広げてベルの姿を隠します。

トニオが客席を向き直し、両手を広げて、胸を張ります。

「お集まりの紳士淑女の皆さま、大変長らくお待たせいたしました。最後の出演者の登場です。その姿は春風に咲く木蓮の花のように清らかに、その歌声は雲のかかる峰に咲くリンドウのように気品高い。我が街が産んだ奇跡の歌姫、ベル・グラント」

ありったけの飾り言葉を並べたてるトニオの後ろで、エルが広げている布の後ろにエマ、末娘のエイミーが飛び込んで、何やらごそごそ動き回ります。

すかさずテッドがドラムロールを入れます。

ダダダダ、ダンッ。

手品のようなドラムロールとともにベルを隠していた布がハラリと落ち、客席からどよめきが起こります。

取り払われた目隠しの布の向こうから現れたベルは、シンプルなデザインのノースリーブのワンピースから、光沢のあるベロア生地のストラップレスドレスに変わっています。音楽堂までの道中で乱れた髪も綺麗に整えられ、肩に落ちる髪先に向けて緩くカールしています。上気した頬には桃色のチークが乗り、形の良い唇には鮮やかなルージュが添えてあります。平凡な街のお嬢さんだった娘が、貴族の令嬢のような気品ある姿で現れた事に会場内の観客達はみな感嘆のため息を漏らします。

場違いな陽気な音楽、観客や他の出演者を巻きこんだパフォーマンス、想像の遥か上をいく登場、手品のような変わり身。全てが予想外です。

次は一体どんな驚きがあるのか。

会場中の視線が、放送を聞いている街中の人間が、ベルが歌い出すのを待っているのです。


ベルは、少しぼんやりした景色の中で、舞台の中央に立っています。

開け放たれた扉から差し込む光は、スポットライトのようにベルを照らします。光の円の外側には大勢の人がいて、自分の一挙一動を見ているのでしょう。しかし、強い光の筋に覆われたベルの目には、不思議な程に闇しか見えないのです。

〝夜の海みたい…〟

その光景は、子供の頃に母と歩いた夜の浜辺で見た、吸い込まれていくような海の暗さを思い出させます。星のない夜空に月の光だけが強く輝き、場内のざわめきが波を作ります。

〝そうか。私はこの海に歌えばいいのか〟

少し遠のいていたベルの意識が、研ぎ澄まされ、張り詰めていきます。

自分を照らす光と奈落の闇の間に優しく微笑むトニオのシルエットがあります。ぼんやりと浮かび上がるステージ脇のピアノには、ロブが座って、鍵盤に指をあて目を閉じています。ベルの後ろにはロイと三人のコーラスガールがベルの歌を待ってくれています。ドレスも、メイクも、舞台も全て仲間達が用意してくれていたのです。

〝いつもと変わらない。みんなが側にいてくれる〟

ベルの瞳が閉じられ、ゆっくりと開かれます。

テッドが踏んだバスドラムが低い音を響かせ、会場のざわめきを静めます。続いて打つスネアの細かい音でざわめきの波が砂を引き、ロブがはじく鍵盤が波間を渡る潮風になってメロディを紡ぎだします。

光を受ける扇状の舞台と波打つ垂れ幕は波間に浮かぶ舟となり、船上に一人立つベルの唇から、張り積めた心の糸を弾くように歌声が流れ出します。初めは泉の底に涌く清水のように静かに、そして、それはすぐに岩間を駆ける早瀬となって、客席の間を抜けていきます。

ベルの歌声はやがて大波となって、会場を揺らします。嵐の海に投げ出された聴衆が、救いを求めるかのように船上のベルを羨望の眼差しで見つめています。

〝音楽は音の波だ。強く大きく、そして、脆く繊細であるからこそ波が生まれる。あの娘には純粋さと弱さがあった。だから、人の心を打つんだ〟

感動に打ち震える聴衆の中で、リッテンバーグは顎髭に手をあて、自分に言い聞かせるように頷きます。

〝まさに原石だ。濁流に押し流され、ぶつかり角を落としながらも止まる事の許されない川底の石だ〟

ベルの起こした奇跡の波は、リッテンバーグの心の奥の淀みをさらい、岩間にはまっていた小石を押し流していきます。

〝おお、あるぞ。まだ俺の中にも転がる魂が。音楽に捧げる人生が残っているぞ〟

大きく目を見開いたリッテンバーグの耳に、荒野を駆ける風の音が聞こえてきます。

ベルの歌は一層高い波を呼びながら、サビに入ります。壁に跳ね返る声と三人娘の輪唱が干渉し合い、打ち寄せる波をさらに高くしていきます。マイクを指揮棒に持ちかけたトニオが、ステージの楽団の前で指揮をとっています。

古い木造の音楽堂は、それ自体がスピーカーです。反響させ、増幅し、街中にベルの歌を届けます。その音は跳ね橋の橋脚の袂で、堤防の壁に垂れる係留用のロープにしがみつき、成す術なく橋を見上げているピートの所へも届きます。

堤防の壁はピートの背丈よりもずっと高く、手をかけられるような突起もありません。ロープを伝って上がるか、昇降用の梯子がある位置まで泳いでいけばよいのですが、黒服との競争で限界まで酷使したピートの身体には一滴の力も残っていません。

時より寄せる高い波に体を持っていかれそうになりながら、意識の糸をギリギリの所で繋いでロープにしがみついているのです。

〝ベルは間に合っただろうか〟

波音の間に聞こえる歌声は、ベルの声のようにも聞こえます。

対岸の野次馬の人だかりからは、しゃがれた声の怒号と、サイレンの音が聞こえます。暴走事件の犯人がパトカーに乗せられていく光景を、ピートはラジオから流れる遠い国のニュースを聴いているような気持ちで眺めていました。

強面の警官がパトカーのドアを勢いよく閉めて、そのせいで起きた訳ではない何十回目かの強い波がピートの頭に被さります。ピートの身体がふわりと浮いて、その手からロープがするする逃げていきます。

〝あ、これはいよいよダメかなぁ〟

すでに半分抜けていたピートの魂が、その光景をのんびり見送り空に旅立とうとした瞬間、両肩と首回りを締め付ける激痛に堤防の上に引き戻されます。

「うおぇ、げほっ、ごほっ」

「いやっほぅ、どうだい、大物が釣れたろう」

「はん、確かに図体はデカイけどね。こいつは魚じゃなくてカエルだね。喰えたもんじゃないよ」

堤防の上に突っ伏して、圧迫された胃から大量の海水を吐き出すピートを、笑いながら見下ろす二つの影はリアナとティアナです。ピートの肩には輪に結んだロープが引っ掛かっています。この二人にかかれば、ピートを堤防まで一本釣りで引き上げる事など造作もないのでしょう。

「えふっ、おぇっ。あー、あー」

ふらふらのピートの両肩を、リアナとティアナが挟む形で引き起こします。

「ヘイ、しっかりしな。立てるかい」

「いや、何とか、ギリギリで生きてる」

「軽口が叩けりゃ上等だ。さぁ、行くよ」

水槽から飛び出した死にかけの魚みたいなピートをどのように上等と判断したのかは分かりませんが、とにかくリアナとティアナはピートの肩を吊り上げ、二人三脚ならぬ、三人四脚の格好で走り出します。

「ま、待ってくれ。どこにいくんだよ」

大柄のママ達に吊られて、足も地面につかないピートが悲鳴をあげます。

「何言ってるんだい。音楽堂に決まってんだろ」

「もたもたしてるとベルの歌が終わっちまうよ」

「いい、いいって。僕は置いていってくれ」

ピートの意思などお構いなしに、二人のママは音楽堂に向かって全速力で駆け出します。ピートの身体が天日干しの干物のように塩風にたなびきます。


ベルの歌は音楽堂から、街中のスピーカーから、遠く離れた街の誰かの部屋の窓辺に置いてあるラジオからも流れます。それはフローリスト・ベルのカウンターの上で、グラント氏がチューナーのつまみを回している、長年戸棚の奥にしまい込まれていたラジオのスピーカーからも流れます。

「うん、まだ、動くな」

年期の入ったラジオは時折ノイズで喉を詰まらせながらも、長い封印の鬱憤を晴らすかのように木製のスピーカーから娘の歌声を響かせます。

「まさか、こいつからベルの声を聞くとは」

〝最後に使ったのはいつだったか。妻がいた頃は、よくこいつを抱えて三人でピクニックに行っていたな〟

グラント氏は夏の日にひなげしの咲く丘に上がり、三人で食べたサンドイッチの味を思い出します。スピーカー越しに聞く娘の声が別人のように聞こえる事が、グラント氏の心に夕刻の風を送り込みます。

「なに、あの娘なら大丈夫さ。何と言っても、お前の娘だからな」

グラント氏はカウンターの写真立ての中で、記憶のままに微笑んでいる妻に声をかけると、薄く開いた窓を閉めるためにカウンターを離れます。


間奏から変調し、メロディはさざ波のように緩やかに、語りかけるような旋律になります。目の前に広がる暗闇に手を伸ばし、指先を震わせ虚空を見つめるベルは誰に語りかけているのでしょうか。

〝それは私だ。この歌は私のために歌ってくれているんだ〟

客席の聴衆は皆そう思ったに違いありません。いえ、それはこの街の、この国の、この歌を聴いている全ての人達が思うことでした。この数分に、いったいどれ程の人がベルの歌に感動し、心を奪われ、涙を流したのでしょう。

唇を震わす最後の音が、風に散るしぶきのように細切れになって夜の海に消え、ベルの周りを優しく包んでいた全ての音が空気に溶け込み、音楽堂に本当の静寂が訪れます。

ベルの長いまつげが揺れる音の聞こえる程の静けさ、世界中の時計の針が進むのを止めてしまった一瞬の後、ベルが短い息を吐く音を冷たく光る銀色のマイクが拾った時、誰もが忘れていた会場の照明が一斉に熱を灯します。

ゆっくりと明るくなる会場の光景にベルは言葉を忘れます。先刻まで夜の海が広がっていたはずの客席には、想像以上の人が詰め込まれていて、皆が揃って、その二つの目でベルを見つめているのです。

何百もの視線にさらされたベルの思考は一瞬にして停止して、全身の筋肉は一気にやる気をなくします。

「おい、ベル」

力が抜けて真後ろに倒れていくベルの体を、慌てて駆け寄ったトニオが支え起こします。

〝私はこんなに大勢の人達の前で歌っていたの〟

頭から血の気が引き、両足はガクガク震えてドレスの裾を揺らします。今にも意識が飛びそうになるベルを、背中にそっと手をあててくれるトニオの優しさが支えています。

〝あぁ、なんて事をしてしまったのだろう。今すぐここから逃げ出したい〟

幾百の視線の糸に絡みとられたベルが諦めたように瞳を閉じかけた時、客席の一角から拍手の音が鳴り始め、それは導火線に火がついたように会場中に連鎖し、さながら新年を祝う花火のような歓声と喝采に変わります。

それは長年コンテストの審査員を努めてきたリッテンバーグでさえ、初めて目にする光景です。

一階から三階までの満席の観客が、音楽通を気取って皮肉まじりの理屈をこねるだけの審査員が、自分こそ一番と信じて疑わず互いに冷たい視線を交わす出演者達が、照明係、音響係、鼻持ちならない進行役でさえ仕事を忘れて、瞳に感動の涙を湛えながら手を打ちならしているのです。

〝あの娘、まったくこんなものを見せてくれやがって〟

リッテンバーグは、ステージの上で未だにこの喝采が誰に向けられられているのか分からないといった様子で立ち尽くしているベルを見上げ、口髭の下に密かな笑みを浮かべると、おもむろに立ち上がり審査員席の誰よりも大きな拍手を打ち鳴らします。

スポットライトの円の中心で万雷の拍手をその身に受けていても、ベルの意識はまだ濃い霧の中をさまよっています。視線を空中に漂わせているベルの耳元でトニオが何かを囁いて、背中にあてた手でベルを観客の前に押し出します。

ベルはトニオの優しさに押され、少しばかり取り戻した意識でステージの前方に立つと、総立ちの客席を右から左に見回します。老若男女、身なりの良い紳士、背中を大きく開けたドレスの女性、異国の服を着た団体、なんて多くの人達が夜の噴水でしか歌うことのなかった自分の歌を聴いてくれたのだろう。

足の震えがピタリと止まり、変わりに興奮が爪先から頭までを駆け上がってきます。ベルはすっかり霧の晴れた視界の中、こみ上げる気持ちを目元にためながら、それでも、大きな鳶色の瞳でしっかり前を向いて客席に向かって深く一礼します。

一際高くなる喝采がホールが揺らします。

ロシナンテが開け放った扉から、リアナとティアナに引きずられて、ピートがホールに入って来たのはこの時です。歓声に沸くホールに入ると、濡れた体に熱気がまとわりつきます。ピートが探しているベルの姿はすぐに見つかりました。

見上げる前方、ピートの身長より一段高い舞台の上、藍色のロングドレスに縫い込まれた銀糸がライトの光を反射してキラキラ輝いています。スカートの前で両の手を揃え、深々と頭を下げて聴衆の称賛の声に感謝を示す姿は、芙蓉の花を思わす気品に満ちています。

数日前、夜の噴水広場で俯いた目に涙をためていたベルが、今舞台の上でスポットライトと喝采を浴びている。ピートはいつかの夢の続きを見ているような気がします。

「どうやら、ベルは上手くやれたみたいじゃないか」

泣けないベルの代わりに貰い涙で顔をくしゃくしゃにしているピートの横に、どこへ行っていたのか、ロシナンテを連れたリアナとティアナがやってきます。

「初舞台にしちゃ、なかなか刺激的だったよ。まぁ、あたし達程じゃないけどさ」

ゲラゲラ笑う二人のママの横で、ロシナンテも歯を剥き出して笑っています。

音楽堂から流れる歓声は黄昏の風に乗って、街の中を流れていきます。夕陽に染められた教会の鐘楼がカラカラと音をたてて、去年と同じように音楽祭の終わりを告げます。

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