第20話 激突

ベルを乗せた自転車が疾風のように街中を駆けていきます。港に向かう通りの渋滞する車列の間を、土煙を巻き上げて猛スピードで疾走する自転車に、通り過ぎる沿道の人波からは驚嘆の視線が注がれます。

〝すごい〟

一心不乱にペダルを回し続けるピートの背中にしがみつきながら、ベルはその驚異の走行に感動を覚えます。

〝これなら本当に間に合うかもしれない〟

ベルの中で、一度は光を失なった希望が再び輝き始めます。その時、ベルは追い越していく車列の中に見覚えのある、できれば二度と見たくない顔ぶれがあることに気がつきます。

「畜生め、あの女ども。今度会ったときにはただじゃおかねぇぞ」

たるんだ目尻の皮を怒りに震わせながら、黒服のボスが、やはり黒ずくめの車の後部座席で怒鳴り散らします。

「ボス、落ち着いてください。手当てができません」

自身も顔を腫らした手下の小男が、ボスの額の傷に消毒綿を当てようとして、見境なしに振り回される腕に殴られて傷を増やします。黒服の男達はリアナとティアナに散々小突き回され、〝思いで〟を逃げだし、追いかけてくる二人のママをやっとのことで振り切ったところでした。

「トニオとあのチンケな郵便屋もだ。街中さらって、見つけ次第背骨を叩き割ってやる」

ボスは口からは炎を吐き出しそうな程に怒り狂い、後部座席から身を乗り出して、運転席の痩せ男にがなり立てます。

「やい、とろとろ走るんじゃねぇ。さっさとあの青二才どもを探すんだ」

「無理ですよ、ボス。どこもかしこも大渋滞だ。おまけにこの人混みじゃ…」

痩せ男が泣き言を言いながら窓の外を見たところで、車列の間を駆け抜ける自転車の荷台の上のベルと目が合います。

「あー」

痩せ男が運転席の窓から身を乗り出して、通り過ぎた自転車に間抜けな声を上げます。

「いた。ボス、いましたぜ」

「邪魔だ。どけぇ」

痩せ男が後ろ振り返った瞬間に、ボスが後部座席から運転席に飛び移ってきて、弾き飛ばされた痩せ男は開いたドアの窓枠に身体を挟んで宙吊りになります。

「ひぇぇっ」

運転席に移ったボスは宙吊りの手下の叫び声などお構い無しに、目一杯にアクセルを踏み込んでハンドルを切ります。黒塗りのボディに悪趣味な金のエンブレムを乗せた車は、フロントバンパーを前方の車にぶつけながら対向車線に出ると、マフラーから黒い煙を吹き上げ、一気にスピードを上げていきます。

「郵便屋ぁ」

黒服のボスが血走った目をひん剥いて叫びます。その顔には1ミリの理性も残っていません。対向車線をやってくる車は、ものすごい勢いで逆走してくる黒い車に驚いて、ハンドルを切り損ねて路肩に乗り上げます。運転手の逃げ出した車を歩道に撥ね退けながら、黒服の車はスピードを落とす事なく暴走し続けます。

通りは大混乱です。パレードを見に集まった沿道の群衆は、悲鳴をあげて散り散りに逃げ出します。その騒ぎは前方を走っていたベルの耳にも届きます。

「ピート、何かおかしいわ」

「え、なに」

ペダルを漕ぐスピードを緩めて、ピートが言葉を返します。

ベルの耳に届いてくるのは人々の悲鳴と、硬い物がぶつかる衝撃音、そして低く響く不気味な機械音。それはあっという間に大きくなって、突如、今しがた通り過ぎた交差点から、前方を派手に凹ませた黒塗りの車がけたたましい音を立てて、後輪を滑らせながらピートの自転車の後方に踊り出てきます。

「見つけたぞ、郵便屋ぁ」

後方を振り返っていたピートの目が、車の運転席でハンドルを握る男の狂った目と合います。

「あいつら、よりによってこんな時に」

ピートは慌てて全力でペダルを回しますが、黒服の車はぐんぐん距離を縮めてきます。

「ピート、追いつかれる」

「くっそぉ」

ベルの叫び声にピートはハンドルを切って、対向車線を斜めに横切り歩道に乗り上げます。

「逃がしゃしねぇぞ」

混乱した歩道の人や看板を避けて走るピートの自転車を追って、黒服の車が歩道に乗り上げてきます。歩道にいた人達は突進してくる車を見て、パニックになって逃げ惑います。

「あいつ、正気じゃないぞ」

常軌を逸した走りに、ピートは背筋が寒くなります。

「ぼ、ボスっ、止めて、止めてぇ」

撥ね飛ばした看板が運転席のドアにぶら下がっている痩せ男に命中しますが、手下の悲鳴など耳に入らないボスはアクセルを踏み続け、自転車の真後ろまで迫っていきます。

「うわっはっは、踏み潰してやるぜ」

「うおおっ」

黒服の車のフロントバンパーが自転車の後輪にぶつかる直前、ピートは重心をずらし、膝をするまで車体を傾け、垂直に角を曲がって細い路地へと飛び込みます。一瞬の神業に、乗っていたベルも、追いかけていた黒服達も起きたことが理解できません。

「くそっ、どこに逃げやがった」

ピートを見失ったボスが急ブレーキを踏むと、加速で後方に仰け反っていた手下達が反動で前に突んのめります。

「邪魔だ」

黒服のボスは、運転席と助手席の間に転がり出てきた小男の顔面にパンチを食らわせ後部座席に押し戻すと、シフトレバーを後転に入れて、アクセルを踏み込みます。猛烈なスリップ音をたて、レンガ敷きの歩道にタイヤの跡をつけて車が後進します。

ボスはピートの入った角まで車を戻すと、車体を大きく振って、道幅のない路地に車のフロント部を捩じ込みます。路地は大人が手を広げたくらいの幅しかありません。そこに大型の自動車が入ってきたのですから、逃げ場のない通行人はピートの自転車を追うように走り出します。車が路地の壁に車体を擦り火花が散ります。

「ひぃ、あちっ、あちっ」

ドアにしがみついていた痩せ男の服に火花が引火します。たまらず手を離した瞬間に、痩せ男の身体は後輪に撥ね飛ばされて路地に転がります。

再び後方に迫る車に気づいたピートは、路地の先の丁字路を車体を傾ける直角ターンで曲がり、買い物客で賑わう商店街の通りに入ります。次いで、黒服の車も路地から飛び出し、丁字路を曲がろうとしますが、スピードを出し過ぎたため曲がりきれずに、車体を回転させながら正面のブティックのショーウィンドウに突っ込んでいきます。

激しい衝突音とともに、壁やガラスの破片を吹き飛ばして粉塵が上がります。粉塵に黒い煙が混じって、火の手が上がり、店から店員が飛び出してきます。

ピートもペダルを漕ぐ足を止め、惰性で進む自転車の上でベルと一緒に目を点にしています。ピートが黒服達を助けに行くべきかと考えた次の瞬間、破裂するようなエンジン音とともに、真っ黒な煙の中から炎に包まれた黒服の車が飛び出します。

「嘘だろ、おい」

衝撃の光景に、ピートが悲鳴のような声を上げます。黒服達を乗せた車は後部から炎、ボンネットから黒い煙を上げながらも、まだピート達に向かってくるのです。左右前後のドアはすでに無くなっていて、燃えている後部座席から火だるまになった小男が転がり落ちていきます。

もはや走る狂気と化した黒い車はピート達を轢き潰すまで止まらないでしょう。追いかけてくる黒い悪魔を振り切るため、ピートは最高速度で自転車を走らせます。


「まいったね、ちっとも進まないじゃないか。これじゃ、間に合わないよ」

馬車の御者席で、リアナが延々と伸びる車列を眺めてあくびをします。

「パレードの時間さ、仕方ないね。通り過ぎるまでは一台だって動きゃしないよ」

リアナの隣では顔を赤くしたティアナが持ってきたテキーラのボトルを口に運びます。二人のママ達は、黒服どもを相手に散々暴れまわった後、荷台の幌を外した馬車を引っ張り出して、すっかり年を老いた馬に引かせ、人が歩くのと変わらないのんびりした足取りでここまでやってきたのです。

もう15分も一歩も進まないでいる老馬はすっかり飽きてしまって、立ったまま居眠りをしています。リアナとティアナの二人も、沿道の出店で買ったタコスを肴にして、日傘を屋根代わりにした御者席の上で宴会を始めています。

ティアナが二本目のボトルに手をかけた時、轟音を響かせ、何かが車列の後方から車の来ない対向車線を走ってきます。二人のママの目の前を、二人乗りの自転車が猛スピードで通り過ぎ、その後を火のついた車が追いかけていきます。

「ありゃあ、ベルとピートじゃないか」

「黒服どももいるよ」

リアナとティアナは目の前を通り過ぎる自転車と車に奇妙な声を上げて、顔を見合せニヤリと笑うと、力強く手を打ち合わせます。

「さあ、もう一戦だ。いくよ、ロシナンテ」

リアナが力いっぱい手綱を打つと、つかの間の夢を見ていた老馬ロシナンテはすっかり慌てた様子で兎にも角にも走り出します。馬車が対向車線に出ると、ティアナが御者席からロシナンテの背中に飛び移り、飲みかけのテキーラのボトルをロシナンテ口に突っ込みます。

「気付け薬だよ。あんたも気合い入れな」

起きたばかりの胃袋に異物を流しこまれたロシナンテは、ティアナを振り落とさんばかりに前足を高くあげていななくと、狂ったように駆け出します。

「いやっはぁー」

ティアナが老馬の背中でカウボーイみたいな声を上げます。


沿道の人だかりと車列の間を二人乗りの自転車、炎をあげる車、少し遅れてリアナとティアナの馬車が駆け抜けていきます。パレードを見に集まった見物客は、その異様な一団を目を丸くして見ています。

「ピート、この先は」

ベルの声は風に途切れますが、言葉の続きはピートにも解っています。

先程から対向車両が一台も来ないのは、道の先でパレードが車を止めているからです。しかし、ピートの後ろには、完全にいかれた黒服のボスの操る車が、狂気を燃料にして、火を吹きながら追ってくるのです。

「観念しやがれ、郵便屋ぁ」

ひしゃげたタイヤをフル回転させながら、運転席でボスが叫びます。サスペンションはもはや意味を持たず、車は上下に激しく揺れ、車体がバウンドする度に助手席の大男が天井に頭をぶつけます。

「くそっ、パレードだ」

ピートが前方からやって来る一団を見て叫びます。ピートの走っている通りが、港湾部に向かう大通りとY時に合流する先から、太鼓と管弦楽器の演奏が聞こえてきます。

ピィー。

「おい。止まれ、止まれぇ」

通りの合流点で交通整理をしている警察官が、突進してくる自転車と車に気づいて、道の真ん中で両手を広げ警笛を吹きます。

「退いてくれぇ」

道の片側は車の列、歩道は人だかり、真後ろには黒服の車。逃げ場のないピートは警官に向かって叫びながら合流点に突入していきます。横っ飛びに跳びすさる警官をギリギリで避け大通りに飛びだしたピートの正面に、パレードの隊列が向かって来ているのが見えます。

パレードの先頭で、金の飾り帯をつけた旗を斜めに構え、足を腰の高さまで上げて歩いていた旗手が、暴走する自転車と車を見て慌てて逃げ出します。その後ろで息の合った演奏をしていた音楽隊も、それぞれに勝手な音をたてながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑います。パレードの隊列は一瞬で大混乱になり、悲鳴と衝突音、音の外れた楽器の音が大通りを飛び交います。

「くそっ、邪魔だ。どきやがれ」

黒服のボスが怒声をあげている車の、半分しか残っていないフロントガラスにパレード隊の旗が引っ掛かかって視界を塞ぎます。

「ええぃ、とっとと退けろ」

大男が旗を外すのに助手席の窓から顔を出すと、混乱の中でいつの間にか車の側面に移動していた自転車の荷台に座るベルと目が会いました。

「あ、こんにちは」

何を思ったのか、ベルが大男に微笑みかけ緊張感のない挨拶をします。

「あぁ、どうも」

若い女性に声をかけられ、大男は強面の顔を赤面させてもごもごと口を動かします。二人の間に穏やかな空気が流れ、自転車が車から離れていきます。

「馬鹿野郎、何してやがる。捕まえろ」

ボスの怒声が和らいだ雰囲気を吹き飛ばし、我に帰った大男が丸太のような腕を伸ばしてきます。指がベルの髪に触れる一歩手前で、ピートが自転車を傾け大男の腕をかわします。ボスは急ハンドルを切って車を自転車にぶつけようとしますが、そこで踊り子の列が二台の間に入ってきます。

「きゃあああぁ」

肌を露出した衣装に孔雀ような羽飾りをつけた踊り子達が、暴走する車に甲高い悲鳴を上げます。

〝港湾部に入った、もうすぐで運河にあたる。ここから先は逃げ道がないぞ〟

ピートは頭の地図を整理します。

大通りの沿道は人で埋まり、その後ろの建物の間から1ブロック先に運河が見えます。通りの反対側には枝道が何本か入っていますが、パレード隊の列の向こうには、血に飢えた狼のような眼差しで攻撃の機会をうかがう黒服の車があります。

この先、大通りは運河と平行して港まで伸びていて、埠頭の手前で運河を越える跳ね橋にあたります。

〝まずいぞ。あの跳ね橋、この時間は〟

ピートの脳裏に悪い予感がよぎります。運河にかかる跳ね橋は、船の往来のために決められた時間に橋桁を上げます。橋桁が上がれば半時以上通行できません。

〝橋が上がればコンテストには間に合わない〟

ピートは公園を出る時に見た時計の時間と、ここまでの道中にかかった時間を計算し、現在時刻を推測します。そこで運河側の建物がきれて視界が広がります。

「音楽堂」

ベルの目に対岸の倉庫群の先に見える古い建築様式の建物の屋根が映ります。

ピートの目には、その建物の少し手前にそびえる跳ね橋の塔が映ります。

橋桁の上にゆっくり動く小さな人影、その向こうの港に、蒸気船が白い煙を上げてゆっくりと旋回しながら、運河に入ってきているのが見えます。

〝あと数分この足が動いてくれるのなら、その先二度と歩けなくてもいい〟

ピートが強く念じてペダルを漕ぐ足に最後の力をかけた時、踊り子達の列がきれ、黒服の車がピートめがけて突撃してきます。

「死にさらせぇ」

〝ぶつかる〟

ハンドルを握る黒服の目の奥に煮えたぎる狂気をはっきり見たベルが、そう覚悟して目をつむった時、聞き覚えのあるハスキーな声が聞こえます。

「避けな、ピート」

後方からものすごい速度で追い上げてきた馬車が、黒服の車と自転車の間に飛びこんできます。

バリッバリッ。

激しい音とともに、車と接触した荷台の後部が吹き飛びます。

「はっはっは、ようやく追いついたよ」

馬車が半壊している事を気にする様子もなく、御者席のリアナが大声で笑います。

「あんたがナチョスなんか買ってるからだよ」

「あんただって食べてるじゃないか」

間一髪で難を逃れたベルが、遠足にでも来ているかのように陽気なママ達を見上げます。

「リアナさん、ティアナさん」

「やぁ、ベル。コンテストに行くんだろ。ジェフが待ってるよ」

「あんたなら大丈夫さ。思いっきりやってみな」

ティアナが一段高い御者席からベルにウィンクします。

「またお前達か、今度は容赦しねぇぞ」

衝撃で対向車線に押し戻された車を、左右に蛇行させて体勢を立て直し、黒服のボスが怒鳴ります。

「はん、あんたに容赦された覚えはないね」

「ピート、あんたはベルを音楽堂に連れて行きな」

「分かった」

ティアナに強く言葉を返して、ピートは再び前を向きます。すでに大通りの先には港の桟橋と貨物用のクレーンが見えています。大通りはそこで折れ曲がって、跳ね橋を越えていきます。

ピートは橋の手前のゲートに目を凝らします。橋桁の上に人影はなく、いや、数人、小さな影が足早にゲートに向かっています。

〝まだゲートは閉じていない。ギリギリだけど間に合うぞ〟

体の内側から湧き上がる得体の知れないエネルギーが、とっくに限界を越えているはずのピートの両足をさらに加速させていきます。

ピートの真横でまた衝突音が起こります。

黒服の車の二度目の特攻が、半壊していた馬車の後部を完全に破壊し、後輪のタイヤを沿道の人垣まで弾き飛ばします。

「何てことしてくれるんだい。まだ半分残ってたのに」

前輪だけで走る馬車の御者席で、リアナが顔をワカモレまみれにしながら、ナチョスの入っていた紙皿を覗いて口を尖らせます。

「がははははっ、とどめだ」

黒服のボスが叫び、車が対向車線から三度目の突撃をかけてきます。

「させないよ」

すかさず、ティアナが御者席の上に開いていた日傘を手早く畳み、黒服の車めがけて投げ飛ばします。日傘は投げ槍の如く空を裂いて、前輪のホイールにすっぽりはまり、黒服の車はバランスを崩してスリップします。

「うおおおっ」

土煙を巻き上げてコマのように回転する黒服の車から大男が転がり落ちます。

「はっはー、ざまぁみやがれ。ナチョスの恨みだよ」

ティアナとリアナが拳を打ち合わせてハイタッチを決めますが、回転の遠心力で日傘が抜け落ちた黒服の車は、沿道の手前で体勢を立て直し、馬車の後方へと回りこんできます。

二人乗りの自転車、前輪だけで走る半壊した馬車、フロントガラスもドアもなく走っているのが不思議な程にぺしゃんこの車、異様な車列は縦一直線に並んで、沿道の人波の歓声と悲鳴の中を跳ね橋へと曲がっていきます。橋桁はすでに上がりはじめ、ゲートには通行止めのバリケードが設置されています。

「止まれぇ、橋は上がってるんだぞ」

警備員がゲートの真ん中で突っ込んでくる車列を見て大声で叫びます。その横を自転車が高速で駆け抜け、続く車がバリケードを撥ね飛ばします。

すでに傾いている橋桁の上を三つの影が駆け上がっていきます。

「ベル、飛ぶよ」

「ピート、行って」

ピートとベルの声。

「飛びな、ピート」

リアナ、ティアナの叫び。

「全員まとめて地獄行きだぁ」

黒服のボスの喚き声。

三つの影が夕暮れの港の空に飛び上がります。

距離にして十数メートル、時間にして1秒弱。しかし、ベルはその瞬間に起きた全てを覚えています。

ピートの自転車が最大加速で橋桁を飛び出し、ベルの体が重力の規制を離れた時、ベルの目には港の全てが見えました。大通りの沿道でこちらを指差し叫んでいる人達、橋のゲートで目を見開いている警備員、港から運河に入ってくる貨物船の上で旗を振っている水夫の服の縞模様、向かいの橋から突き出ている音楽堂の尖った屋根に止まっている水鳥まで。

まるで体中が高性能のカメラになったかのように、ベルを中心に360度、全方位の景色が頭の中に飛びこんで来るのです。

ピートとベル、そして自転車が夕焼けに放物線を絵描きます。ベルの体が浮き上がり、ピートの肩越しに着地点の音楽堂側の橋桁がはっきり見えます。そして、その下にぱっくり口を開いて待ち受ける青く濁った運河も。

〝あぁ、届かないな〟

ベルはそれが直感で分かりました。今は放物線の頂点、後は斜めに落ちるだけです。

スローモーションで進む景色の中で、ベルの心には一欠片の恐怖もありません。ピートは自分のために精一杯にやってくれたのです。それで駄目なら、何も言うことはありません。ただ、ピートやトニオ、二人のママ、そして父に対して申し訳ないという気持ちが泡のように湧き上がって弾けます。

その時、ピートがハンドルを離して振り返ります。そして、ベルの脇に手を入れると、落ちていく自転車のペダルを蹴って、ベルの体を一段高く投げ上げます。

ピートの口が何かを言いかけ、それはサヨナラだったのか、頑張れだったのか、ベルがその言葉を読み取る前にピートと自転車は運河に落ちていきます。

〝ピート〟

ベルの言葉が口から出る前に、真後ろに大きな黒い影が迫ってきます。

黒服の車です。

数々の衝突で凹んだバンパーは、まるで悪魔が口を歪ませて笑っているようです。

運転席でたるんだ皮膚を狂気に歪ませている悪魔の目が光ります。

その速度はベルの飛翔に比べて明らかに早く、その軌道は次の橋桁に届く前に確実にベルの体を押し潰すでしょう。

橋桁までは残り5メートル。

異常に加熱したエンジンで焼けたフロントバンパーが、ベルのきめの細かい肌に触れる直前、ベルの頭上から太陽光を遮って一騎の戦車が降りてきます。

「いぃやっはぁあああっ」

太陽を牽くヘリオスの如き老馬と二人の酔っぱらいは、雄叫びを上げながら、黒服の車のボンネットを破壊します。

歪んだ狂気に満ちた車は、破片を撒き散らしながら、二人のママと一緒にまっ逆さまに運河に落ちていきます。ベルの目に、ティアナのウィンクと、自分に向かって手綱を投げるのが見えます。

荷台が外れ負荷のなくなったロシナンテは、車のボンネットを蹴り、手綱を掴まえたベルを背中に乗せ、潮風の漂う港の空を天馬のように駈け上がります。

次々に上がる大袈裟な水しぶきを背中に受けながら、天馬とベルは対岸の橋桁に舞い降ります。両岸の観衆から上がる大歓声の中、ロシナンテは背中に乗せたベルを気遣うように並足で橋桁を下りると、音楽堂へと足を速めていきます。

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