第19話 疾走

ピートはナラの木の下でフローリスト・ベルの扉が動くのを待っていました。先刻店の戸口を出てから、まだ半時も経っていないはずですが、ピートには数時間にも、数日とも思える程長く感じられます。

〝今からじゃ、どんなに急いでもコンテストが始まる時間には間に合わないぞ〟

ピートが胸元から取り出した懐中時計に目を向けた時、不意にフローリスト・ベルのガラス戸が開いて、長丈のワンピースの裾をなびかせながらベルが飛び出してきます。

「ベル」

ベルは名を呼ぶ声も届かない速さで公園の脇を抜けて、広場へと続く路地へと駆けていきます。ピートも急いで自転車に跨りベルの後を追いかけます。

〝広場へ行くみたいだけど、この時間は〟

路地を抜け、噴水広場に出たベルの足が止まります。噴水広場は人で埋めつくされて、どちらの方向にも行けない程の混雑になっています。この時間、街の各所ではパレードが始まっていて、主要な通りにはすでに交通規制が入り、路面電車は運航を停止しています。

ベルが音楽堂に行くには、パレードが終わるのを待つか、ぎゅうぎゅう詰めの通りを歩いて行くしかありません。港湾部までは早足で歩いても一時間以上かかります。まして、交通規制が入る人混みの中、とてもたどり着けません。

〝それでも、少しでも近くへ行かなきゃ〟

ベルが意を決して人混みの中に入ろうとした時、ベルの名を呼ぶ声が耳に届きます。振り返った視線の先に、自転車を押すピートがいます。

「ベル、何を言っても許してもらえないのは分かっている。でも、今は話を聞いて欲しい。トニオがリッテンバーグさんから君を音楽堂に連れて来るように言われたんだ」

ピートには、ベルが形の良い唇を噛んだように見えました。

〝あんな事をしたんだ、嫌われて当然だ。でも、今は…〟

ピートは後悔に奥歯を噛みながら言葉を続けます。

「街中はどこも渋滞している。電車じゃ間に合わない。後ろに乗って。君を音楽堂に連れていく」

通りの先から管楽器の高い音がして、後ろの人波から歓声が一斉に上がります。打楽器が鳴り響き、パレード隊が行進を始めます。その音すら聞こえない程の静寂が二人の間に流れます。

ベルの前髪が揺れて、瞳にかかり、瞼が閉じられます。

瞬き一つの一瞬、しかし、なんと長い一瞬だったのでしょうか。再び開かれたベルの瞳には強い意思が宿っていました。

「ピート、お願い」

ベルはピートが支える自転車のサドルに手をかけて荷台に座ると、車輪に巻き込まれないようにスカートの裾をたくしあげます。

「とばすよ。しっかり掴まっていて」

ピートはベルの体がしっかりと荷台に乗ったのを確認すると、力いっぱいにハンドルを押して、自転車に飛び乗ります。ピートの足がペダルにかかると、毎日入念に手入れされている相棒は、荷台の上のベルの体重などものともしない軽やかさでスピードを上げ裏通りを駆け抜けます。

ピートは全身の力でペダルを漕ぎながら、頭の中に街の地図を広げます。ピートの地図には街中の道という道、時間帯別の混雑状況、パレードで封鎖される場所と抜け道、裏通りに置いてある荷物やゴミ箱の位置までが記憶されていて、どの道をどれ程の速度で走れるかが正確に分かるのです。道にはみ出している看板や無造作に積まれた酒樽をすれすれに避けながら、ピートの自転車は路地を滑走していきます。

ベルは振り落ちないようにピートの背中にしがみつきながら、不思議と怖さを感じていない事に気がつきます。驚く程の速度で走っているにも関わらず、ベルの体はほとんど振動していないのです。

速度の変化を最小限にし、常に高速で走る事で車体を安定させる。それは毎日、一秒でも早く、一つでも多くの荷物を運ぶ事を考え続けたピートが、知らない間に身に着けた技術でした。そして今、ベルを音楽堂まで届けたいという強い気持ちが集中力を極限まで高め、身体能力の限界を越えた力を引き出しているのです。

〝ピートは本気で私の夢を叶えようとしてくれている〟

燃えたぎるエンジンとなったピートの体に回した腕から伝わる熱が、ベルの中で冷たく固まっていた気持ちを溶かしていきます。ベルは心の内で燻っている不信感を、すごい速さで後方へ通り過ぎていく景色の中に捨てて、ピートに自分の運命を託してみようと思います。

〝でも、コンテストが終わるまでに音楽堂に行けるの〟

ベルは家を飛び出す時に見た時計の針が3時を越えていたのを思い出します。

〝ううん。とにかく今はピートに任せるしかない〟

ベルは腰に回した腕に力を込めて、熱を帯びるピートの背中に顔をあてました。


その頃、音楽堂のメインホールのステージの向かい、観客席の最前列に設置された審査員席では、リッテンバーグが白布の敷かれたテーブルに立てた肘をつっかい棒にして、うつらうつらと船を漕いでいます。

ステージ上では白いガウンをまとった大勢の子供達が三段に並んで、整った美しい歌声を響かせながら、メトロノームの針のように規則正しく左右に揺れています。リッテンバーグは何度も頭を振って眠気を追い払おうとしますが、ステージ上の子供達の振り子運動が目に入る度に、強烈な睡魔がやって来て意識を拐っていくのです。

〝あぁ、駄目だ。退屈でたまんねぇ〟

リッテンバーグはあくびを一つすると、半開きの目をそれ以上閉じないよう苦心しながら、満席の客席と、同列に並ぶ審査員達の顔を見回します。

天使のような衣装と天使のような笑顔、子供達は人形のように同じ顔をして、誰がどこのパートを歌っても変わらない歌声で慈愛に満ちた曲を歌っています。メインホールの客席は三階席まで満席になっていて、聴客達は皆、子供達の歌声に心を奪われ、時に涙ぐんでる者までいます。

〝こいつら本当にこれで満足しているのか。毎年同じような連中が同じような曲を歌って、仲間内だけで勝手に盛り上がってやがる。去年も、その前の年も何一つ変わらないじゃないか〟

リッテンバーグはステージ上に視線を戻して、ため息をつきます。

〝言いたかないが、昔はこんなに退屈じゃなかった。昔の奴らは技術はなくても、何かやろうとする気概があった。純粋で音楽が好きなだけのバカ野郎がいたんだ。それが、近ごろの連中はまるで着飾ったマネキンだ。見てくれは良くったって、中身に血が通ってねぇんだ〟

心の中で悪態をつきながら、リッテンバーグは昨晩〝思いで〟で会ったトニオ達の顔を思い浮かべます。

〝あの野郎、ちゃんとベル・グラントを連れてくるだろうか〟

リッテンバーグはステージ上をきつく睨みます。その視線はステージの演幕の遥か先を見ています。

〝昨日のセッションは良かった。生まれたての純粋な音、心の声をつむぎだした歌、あれは音楽の源流、湧き上がったばかりの真透明な水だ。腐りかけた俺の耳にも新しい風が吹いたんだ。俺はもう一度、あの音が聞きたい〟

不意に身体を引っ張っられた気がして、リッテンバーグは我に返ります。リッテンバーグの足元、机にかかる白布の下で、身を屈ませたトニオがスーツの上着の裾を引いています。

「来たか」

リッテンバーグは思わず大きな声が出そうになるのを慌てて抑えて、周囲を見渡してから何事もなかったような素振りで白布の下のトニオに話しかけます。

「遅いぞ。ヒヤヒヤさせるな。それで、ベル・グラントは連れて来たのか」

「今、ピートが迎えに行ってるよ」

「何っ、まだ来てねぇのかよ」

また声が大きくなりそうになるのを必死に堪えて、リッテンバーグは落としものを拾う仕草で白布に顔を近づけます。

「3時までに連れて来いって言ったじゃねぇか」

「町中どこも渋滞してんだよ」

「いいか。あのいけすかない司会の奴には、出演者の最後にお前達を呼べと言ってある。俺が強引に捩じ込んでやったんだ。それまでに何としてでもベル・グラントを連れて来い」

「おい、無茶言うなよ。今どこにいるかも分からないんだぜ」

そこで子供達のステージが終わり、場内が明るくなります。リッテンバーグは顔を上げ、打って変わった作り笑顔で、手を振りながら退場していく子供達に拍手を送ります。赤い蝶ネクタイをつけた司会がステージに現れ、大袈裟な美辞麗句を並べ立て子供たちを褒め称えた後に、これまた大袈裟に尾ひれをつけた紹介で次の出演者をステージに招き入れます。

演奏が始まり会場内のライトが落とされると、リッテンバーグはいつものひねくれた酔っぱらいの顔に戻して、白布の下のトニオを叱りつけます。

「いつまで俺の足を眺めてるつもりだ。早く舞台袖に行って準備してろ」

「あと何組残っているんだ」

「今のを入れて3組だ」

「すぐ回ってきちまうじゃねぇか。どうすんだよ」

「そんな事はてめえで考えろ。俺がこれだけ骨を折ってやったんだ、恥をかかすような真似はすんじゃねぇぞ」

そう言うとリッテンバーグは顔を上げ、いかにもわざとらしい笑顔を作ると、白布の下でトニオの尻を蹴り飛ばします。長い審査員机の端の白布が揺れて、長身の男が出ていくのを横目で見送ったリッテンバーグは、目を見開いてステージを見上げます。

「さぁ、面白くなってきたぜ」

眠気も憂鬱も吹き飛んだリッテンバーグは、腹の底から湧き上がる興奮に満面の笑みを浮かべます。

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