第18話 父と娘

〝あれで良かったのだろうか〟

店先に出たピートは、先刻の自分の言葉を思い出します。

本当はベルに会って、自分の口から謝罪とリッテンバーグの伝言を伝えたかったピートでしたが、あの様子ではグラント氏はどうあってもベルを呼ぶつもりはなかったでしょう。それに、どういう訳か、ピートには確信があったのです。

〝ベルの事を大切に思うグラント氏であれば、必ずこの手紙に込められたストーリーを繋げてくれるだろう〟

ピートは自転車のスタンドを上げて、公園のナラの木の下まで押していくと、ベンチに腰を下ろし、枝葉の間からフローリスト・ベルの二階の窓を見上げます。白い窓枠の両開きの窓は薄く開いて、レースのカーテンが風に揺れています。

〝ベルは出てきてくれるだろうか。あんな事をしてしまった僕の言葉なんて信じてくれないのではないか。今から音楽堂に向かったとしてもコンテストに間に合わないのではないか。そもそも、リッテンバーグは本当にベルをコンテストに出すつもりなのか〟

動かずにいると、不安ばかりが頭をよぎります。

〝ベル、お願いだ。早く出てきてくれ〟

ピートは、揺れて光るカーテンを祈るような気持ちで見つめます。


レースカーテンの波の向こうでは、ベルがベッドに座って、膝元に置いた自分の指先を身一つ動かさずに見つめていました。

どのくらいそうしていたのか覚えていません。ただ頭のてっぺんから爪先まで、感覚が痺れたように鈍くなっていて、耳に入ってくる音も、部屋の様子ももやがかかったようにぼんやりしています。

今しがた、階下で父親と誰かが大声で話すのが聞こえましたが、床板一枚向こうの話だというのに、ベルにはずいぶん遠くで話しているように聞こえます。けれども、話の内容は聞きとれないのに、その相手がピートであることだけははっきりと解って、それがまたベルの心を締めつけていきます。

〝もういい。お願いだから、私を頬っておいて〟

ベルの脳裏に音楽堂の記憶が甦り、身を斬られるような鮮烈な痛みが体を廻ります。鳶色の瞳に滲み出た水滴が、膝元に組んだ手の甲で跳ねて、スカートにしみを作ります。急激に過敏になった感覚が店の扉が開く音を捕らえます。おそらくピートが出て行ったのでしょう。

〝父が上がってくる〟

ベルがそう感じたすぐ後に、閉じた扉の向こうから階段を上がってくる足音が聞こえてきます。

〝父に心配をかけたくない〟

ベルは急いでスカートの裾を引き上げ、目頭にあてます。

「ベル、入っていいかい」

控えめのノックの音に続いて、父の低い声がします。

「はい」

普段通りの返事をしたかったベルですが、どうしても声がかすれてしまいます。

グラント氏は静かにドアを開けると、ベルの方を向いて穏やかな微笑みを浮かべます。部屋の入り口からは窓からの光で逆光になり、ベルの顔はよく見えないはずですが、グラント氏は娘が泣いていたのを知っているようです。

「いつもの郵便屋が来て、これを置いていったよ」

グラント氏はベルの隣に腰を下ろして、手にしていた手紙を膝元に差し出しますが、ベルは体を固くして手紙を見ようとしません。組まれた指の先が細かく震えていることに、グラント氏は伝言を伝えるのをためらいますが、俯く娘の横顔がいつの間にか大人の女性になってしまっている事に気づいて、意を決して口を開きます。

「郵便屋はジェフリー・リッテンバーグという人から、3時までにお前を音楽堂に連れてくるように頼まれたそうだ。昨晩の老人がその人だと言ってたよ」

リッテンバーグの名を聞いたベルは、はっと顔を上げグラント氏の顔を見返します。グラント氏は何も言わずに、もう一度手紙をベルの手元に差し出します。

ベルは手紙を受け取り表面、裏面、宛名のスペル一つ一つまで確認していきます。そして、切手に押された消印と、その日付に気がついた時、ベッドから立ち上がって驚きの声を上げます。

「あぁっ」

刻印の日付はベルがピートに手紙を渡した翌日です。つまり、昨日から今までのどこかで、ピートはリッテンバーグに出会い、この手紙を受け取り伝言を頼まれた事になります。

「そんな、まさか」

〝あの人がリッテンバーグさんだなんて、ピートはいつ知ったの。いえ、そんなことより…〟

リッテンバーグが自分の事を呼んでいる、ピートはそう伝えたのです。

今、音楽堂では歌のコンテストの本選が行われているはずです。リッテンバーグは、そこへ来いと言っているのです。悲しみで覆われたベルの心の奥で、消えたはずの情熱が再び熱を帯びていきます。

〝でも、本当に信じてよいのだろうか〟

それはベルの想像で、全てピートの作り話かも知れません。たとえ、真実であったにしても、また人前で恥を晒すだけかもしれません。

〝もう傷つきたくない〟

一瞬にして膨らむ不安が、わずかに燻り始めた情熱を急速に冷やしていきます。体中の力が一気に抜けて、ベルはベッドに座り込みます。グラント氏が娘の背中に手をあて、崩れ落ちる体を支えます。

「ベル、大丈夫かい」

覗きこんだ娘の乱れた前髪の奥にある鳶色の瞳からは、抑えきれなくなった感情が大粒の涙となって溢れ出てきます。

不安、葛藤、哀しみ、失望。一度堰の切れてしまった心からは、長い間溜め込んでいた感情が次々に流れ出します。止まらない涙を拭いながら、ベルは子供のように声を上げて泣いています。

〝娘の泣き顔を見るのは、いつぶりだろうか〟

湧き上がる感情に振り回されている娘の横顔を見つめながら、グラント氏はある時から娘の涙を見ていない事に気がつきます。

〝妻が去ってからこの数年、私はこの娘の為だけに生きてきたつもりだった。しかし、本当はこの娘の方が無理をしていたのではないか〟

大人しく、よく店の手伝いをする良い娘。そう思っていたのは自分だけで、本当は同じ年頃の友達のように遊びまわったり、恋事に夢中になったりしたかったのではないだろうか。

〝この娘の青春を私は知らない〟

グラント氏はその事実に愕然とします。

本当なら将来を誓う相手がいてもおかしくない年頃、その年齢までベルを家に縛りつけてしまっていた事に気がつかずにいたのです。グラント氏は泣きじゃくる娘の背中をさすりながら、許しを請うようにベルの顔を見つめます。

「ベル、何があったのか、父さんに教えてくれないか」

「父さん、私、怖いの。叶わない夢を見て、また傷つきたくないの」

嗚咽で途切らせながら話しをする娘の姿に、グラント氏は自分の若かりし頃を重ねます。漠然とした将来への不安、自分の可能性を知りたいという衝動。まだ頼りないと思っていた雛鳥は、知らない間に羽ばたきを覚え、巣の縁に立ち外の世界を見ているのです。

「ベル」

グラント氏はベルの話が終わると、背中にあてていた手を肩に置いて、優しい目で語りかけます。

「誰にだって、先の見えない将来に不安を感じたり、叶わない夢を見て傷ついたりする事があるよ。かっては私も同じだった」

自分の事を話したがらない父が、突然、昔話を始めた事に驚いて、ベルは父の顔を見上げます

「私にも夢はあった。いつかこの街を出よう。植物学者になって世界中の花々を見て歩こう。そんな風に思っていた頃もあった。残念ながら、私の夢は叶わなかったがね」

少し恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべながら、グラント氏は話を続けます。

「でも、その旅の途中で、もっと大切なものに出逢えた」

グラント氏はベッドの脇にある写真立てを手に取り、愛おしそうに見つめます。写真の中ではグラント氏と母、まだ少女のベルが公園のナラの木の下に並んでいます。ベルはこの日の事をはっきりと覚えています。

ベルが十二の年の春、急に父親が写真を撮ろうと言い出し、棚の奥にしまってあった写真機を取り出してきます。機械音痴の父が四苦八苦しながらカメラにフィルムを取り付けるのを、ナラの木の下で母と笑いながら見ていたあの日。木漏れ日の暖かさ、新緑の香り、馴れない作業に苦戦する父の額の汗、母の笑顔。会話の一つ一つまで、はっきり思い出せるのです。

その年の冬、母が病でこの世を去ることになった時、ベルはこの日の父の真意を知ることになります。

〝父も自分と同じ痛みに泣いたことがあるんだろうか〟

グラント氏の横顔に過ぎ去った昔を懐かしむ思いと、亡き妻への深い愛情が滲みます。

〝父さんは私の為に夢を諦めたの〟

ベルは無言でグラント氏の横顔に問いかけます。

「ベル。大事なことは良い結果を残す事でも、夢を叶える事でもない。結果を怖れず挑戦する勇気を持つ事なんだ。そうすれば、いつか自分の人生を見つけることができる」

父親の瞳の奥に、尽きることのない家族への愛情と、自分の人生を生きている男の誇りを見たベルは問いかけの答えを知ります。

「私にも自分の人生が見つけられるの」

ベルは残る涙の最後の一粒を拭って、どこまでも優しい父に尋ねます。父の瞳がまっすぐに頷きます。

「もちろんだよ、ベル。私の自慢の娘じゃないか」

ベルは父に寄りかかって、その肩に顔を埋めます。

〝ありがとう、父さん〟

口に出してしまうとしまいこんだはずの涙がうっかり出てきてしまいそうで、ベルはありったけの気持ちで昔より小さくなった肩を抱きしめます。そして、弾けるようにベッドから立ち上がると、手近なものを小さいバッグに詰め込んで肩にかけます。

「行ってくるね」

父の顔を振り返るベルの頬にレースカーテン越しの光りが当たり、きめの細かい肌を白く輝かせます。鳶色の瞳に生命力と情熱がみなぎるのを見たグラント氏は、巣立ちの瞬間が来てしまったことを知ります。軽快な足音たて、小走りで階段を降りていく娘の足音を聞きながら、グラント氏は一つ長い息を吐くのです。

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